黒田育世×菅原小春×奥山ばらば「ラストパイ」Dance New Air 2018 ダンスの明日|いよいよダンスの時代がやって来た

今も「ダンスになりたい」

──本作が初演された05年頃、黒田さんはよくインタビューで「ダンスになりたい」とおっしゃっていました。05年以降、「ペンダントイヴ」(07年)、SPACの野外劇場で上演された「おたる鳥を呼ぶ準備」(12年)などのカンパニー作品を発表され、その後デュオ、ソロ作品などが続き、今回再び「ラストパイ」に向き合われます。1周回って、また黒田さんの創作が違う次元に入るのでは?と期待してしまうのですが、ご自身の意識としてはいかがですか?

黒田 「ダンスになりたい」という思いは、常にあります。ただ私は3作品ごとに次の段階に入る感じがして、それで考えると「ラストパイ」は第2期の作品、今は第5期ですね。先日「病める舞姫」というフェスティバルに参加したんですけど、そこで初めて自作自演のソロ公演をして、そこでひと区切りした感じがしています(参照:白神ももこ・伊藤キム・黒田育世・笠井叡ら、土方巽「病める舞姫」に挑戦)。それと、「ラストパイ」はここ数年ずっと毎年レパートリーワークショップでやってきたので、「1周回って」というより私にずっと寄り添ってくれている作品という感じです。

奥山ばらば

──菅原さんと奥山さんはご自身で振付もされますが、人の振付で踊るときにご自身の身体と作品をどう接続させていくのでしょう?

奥山 身体を明け渡すようなイメージで、と言いますか、ちゃんと素直に聞こうと思います(笑)。舞踏という分野で活動してきましたが、それを出していくと言うより、いただいたものをしっかり自分の身体に入れたほうが、身体は嘘をつかないので。舞踏は特にルーツのありかについて問われるジャンルではありますけど、その考え方からちょっと離れて、オリジナルの振付にできるだけ近付きたいと思ってやっています。

菅原 私は自分で作って踊るということしかやってこなかったので、あまりにも自分の振り覚えが遅いことに驚いて、何かいい方法が見つからないかなと探してみたんです。でも見つからなくて……今はやるしかない、やるしかないんだって思ってやってます。

黒田 小春ちゃんは大型犬みたい(笑)。小細工がないんです。背も高いし、あの立ち位置で、でも純粋な踊りなんですよね。それが本当に素晴らしいと思います。見せ方にこだわるダンサーも多いですが、「こういうふうに見てください」っていう踊りじゃないからこちらがどこまでも泳いで入っていける。小春ちゃんのパートは本当に過酷の極みで、これまで踊ってくださった方たちも、踊っていくうちにどんどん照れとか自意識、見栄がそぎ落とされ、個人の生命が見えてくるんです。でも小春ちゃんはそもそも剥ぎ取るものがないのに、それでも全部そがれて行っちゃうでしょ? 最後に何が残るんだろうってすごく楽しみです。

──先ほど、振りが多いとお話しされていましたが、菅原さんは踊っているときにどんなことを意識されているのでしょうか?

菅原 今は、「次はどういう振りだったっけ? 次は、次は」って考えながら踊っています。そうやって考えて考えて考えて考えて、でもそれをなくすためにまた考えます。本当に大変です(笑)。

左から奥山ばらば、菅原小春、黒田育世。

劇場は特別な場所

──また一時期、カフェや屋外など劇場の外で上演されるダンス作品が多かったと思いますが、今回の「Dance New Air」で上演される7作品はすべて劇場や屋内での上演となります。劇場に対するこだわりはありますか?

奥山 劇場は闇が作れたり、無音が作れたり、空間の内外を分けられたりして別世界が作れると思います。非日常と言うと大げさかもしれませんが、強度のある空間だと思います。カフェなどでライブ的に踊ったりすることも魅力的ですが、空間を作るという意味ではちょっと弱くて、その点、劇場のほうがいろいろな夢を詰め込めるし、舞台が終わればそれが全部なくなるという、幻が生まれる場所だと思います。

黒田 野外は好きです。好きですけど、野外“劇場”が好きですね(笑)。やっぱり劇場が好きなんです。イベントなどでカフェで踊るのも悪くないとは思うんですけど、劇場で上演する機会が減って劇場以外の場所に流れ込んでいくのは好きではないです、私は。10年以上前に笠井叡さんがお伝えくださったことで「舞台で犯罪が起こせるかということを土方巽はやったし、育世はちょいちょいやる」という恐れ多いお言葉をいただいて。それはすごく大切なことだなと思っています。劇場はなんでもありと言うか、表でやったら警察に怒られたりするようなことも劇場ではやってもいい。そういう罪深いこと、際どいこともできるのが劇場だと思います。

──また本フェスの「Dance New Air」という名前にもあるように、ダンスを取り巻く環境の変化を、近年、観客として感じています。「ラストパイ」もそうですが、ダンスのジャンルの混ざり方が以前よりも広がったり、子供が観られる作品が増えたり、ダンスフィルムのようなアーカイブを大切にする動き、レクチャー+ダンス企画のように観客同士が作品を語り共有する動きなど、単に若手アーティストが起用されること以上の目線の新しさを感じるのですが、ダンサーの皆さんにとってはダンスを巡る環境の変化、可能性を感じることはありますか?

奥山 今回のようにほかの振付家の方の作品に出させていただくことが増え、同じダンスであっても違うジャンルと交流したい、違う分野の皆さんと関わるようにしようということは個人的に意識しています。自分の身体の可能性をもうちょっと探ってみたい、表現してみたいという思いもあります。

菅原小春

──大駱駝艦出身のダンサーの方には、退艦後、舞踏の分野でソロで活動される方も多いですが、確かに奥山さんは少し違う動きをされていますね。

奥山 これまでは、例えば白塗りをしてまずは一旦異形のものになってから表現することをやってきましたが、今はそこから1歩離れて、肌色の身体そのものでほかのダンサーと一緒にパフォーマンスする、その可能性も探ってみたいと思っています。

菅原 私もばらばさんと一緒で……私のいた界隈ってなんて言えばいいのかな? ストリートダンス? そこでコレオグラフって言うと、ちょっと“今流行り”みたいな感じがあるじゃないですか。それが気持ち悪いなと思ってて。そう感じたときに、自分のダンスってこんなだったっけ? 自分が小さいときからやってきたのはこういうことじゃないんじゃないか、と自分にがっかりする部分があったんです。そう思っていたタイミングで今回のお話をいただいて。だから私もばらばさんのように、違う自分を探しにきました(笑)。

黒田 私は、新たな潮流がきているというよりは、やってきたことを見直す時期に入ってきたんだろうなって感覚が強いですね。「病める舞姫」のような企画が生まれたのも、私たちはみんな、見直すときなんだろうな、と。コンテンポラリーダンスって、実験性とか革新性みたいなことを分野として目論んできたところがあったと思うんです。私はそこから距離を取りたかった立場だったので、「コンテンポラリーダンスじゃないんだな私は」ってずっと思ってきましたけど、その革新性とか実験性が、ある種の型を帯びてきたと私は思います。「こういうふうに踏み外すことが実験的に見えるであろう」「こうやって逸れてみることが革新的に見えるだろう」みたいなことになっちゃったのかなと。そのときにもう1回、どういった作品が生命力ある作品で、どういった挑戦が本当に難しい挑戦なのか、成し遂げる意味があるものはどういったものなのかということを、大野一雄さんたち先人たちの作品を通して、整理し直す時期に来ているんじゃないかと。それによっていつ、何が見えてくるか私にはわかりませんが、これだけインターネットやAIが発達する中で、私たちがやることは本当にダンスしかないと思うんです。逆に言えば、なんの役にも立たない、産業的価値のないダンスをAIはやっても仕方がないわけですから、今こそダンスの時代がやってきた、ダンスの時代の幕開きなんじゃないかと思います。

左から菅原小春、黒田育世、奥山ばらば。