SPEED 島袋寛子×伊秩弘将(プロデューサー)|デビュー25周年を迎える今だからこそ思えること、エネルギーに満ちていた当時の記憶

1996年に「Body & Soul」で鮮烈なデビューを飾るやいなや、次々にヒットを飛ばして話題をさらい、日本中に旋風を巻き起こしたSPEED。島袋寛子、今井絵理子、上原多香子、新垣仁絵のメンバー4人は当時12歳から15歳までのあどけなさが残る小中学生でありながら、高いパフォーマンススキルで多くの人々を圧倒し魅了した。2000年に惜しまれつつ解散してからも数度の再結成を繰り返してきたが、2013年を最後にリリースや表立った活動は行われてこなかった。

SPEEDが誕生してから25周年を迎えた2021年1月、全楽曲のオリジナルバージョンを収録したボックス商品「SPEED MUSIC BOX -ALL THE MEMORIES-」がリリースされた。発売を記念して音楽ナタリーでは、リードボーカルの1人・島袋と、解散までの全楽曲をプロデュースした伊秩弘将の対談をセッティング。さまざまな楽曲に込められた思い出やレコーディング秘話、2000年の解散時の心境などを聞いた。「あの頃の自分をようやく受け入れつつある」と語った島袋の真意とは? 時を経た今だからこそ明かせるエピソードが詰まった貴重なテキストを、ぜひ堪能してほしい。

取材・文 / 岸野恵加 撮影 / 星野耕作

4人の「前へ前へ」というエネルギーがすごかった

──お二人がこうして顔を合わせるのはいつぶりでしょうか?

伊秩弘将 みんなで食事したのが2年くらい前? 寛子のライブを観に行ったのも同じくらいの時期か。

島袋寛子 そうですね。なんだかんだ1年に1回くらいのペースでお会いしてるかな。

──伊秩さんがSPEEDに楽曲を提供していたのは2012年頃までだと思いますが、ではその後も定期的に集まる関係性なんですね。

左から島袋寛子、伊秩弘将。

伊秩 僕が「たまには集まるか」って食事に誘う感じかな。距離があるって感じではないね?

島袋 ないですねえ。20個も歳が離れてるプロデューサーさんだけど、幼い私たちがワーワーギャーギャー言ってるのを「はいはい」って見守ってきてくださった感じなので、緊張とかは特にしないです。ずっと優しかったんですよ、伊秩さんは。ほかのメンバーも、伊秩さんに対して構えてしまうということはないと思います。

伊秩 プロデューサーは学校の先生とかとはまた違うから。音楽の楽しさを前に出して、とにかく少しでもいい作品にすることが一番大事なので、上に立つような関係性とか、堅苦しい感じにはなりたくなかったですね。

島袋 伊秩さんはすごく優しかったけど、SPEED初期はマネージャーさんと、ダンスの振りを見てくださっていたレコード会社の方がめちゃくちゃ厳しくて(笑)。注意しなきゃいけないことは、その女性2人がビシバシ言ってくださいましたね。なのでチームとしてのバランスがうまく取れていた気がします。

伊秩 僕は優しくしていたつもりはないけどな。基本がなかったらやっぱりああだこうだと指導することもあったんだろうけど、4人ともすでに基本とスキルがしっかりあって、そのうえでのデビューだったからね。だからレコーディングでもいろいろリクエストできた。

島袋 うーん、そうだったんですかね。私たちは負けず嫌いな年頃で、「やってみよう」って言われたら応えたくて、何か言われたらひたすら「はーい!」って返してました。「できないかも」「無理かも」とか言うと、スタッフさんに「できる!」って怒られてたし(笑)。前向きに進んでいく、ポジティブな環境作りを皆さんがしてくださっていて、それを素直に聞く4人ではあったので、「前へ前へ」っていうエネルギーがすごかったんだなと、あの頃を振り返ると感じますね。

3歳で「アクターズスクールに行きたい」と親を説得

──今回発売されるボックスのブックレットのインタビューで伊秩さんは、パフォーマンスする4人の姿を初めて見たときに「すごく心を魅かれた」とお話されていました。当時SPEEDにどんな第一印象を抱いたんでしょうか。

伊秩弘将

伊秩 プロデュースを依頼されて初めて、レッスンのビデオと「THE夜もヒッパレ」(1995年から2002年まで日本テレビ系列で放送されていた音楽バラエティ番組。SPEEDはデビュー前から出演していた)の映像を観たんだけど、とにかくインパクトがすごかった。当時はどちらかと言うとコギャルブームで、若い子たちにルーズな空気が漂っていたけど、彼女たちには非常に生命力、ニューエイジ感を感じて。僕自身もそういう表現をしたい時期だったので、ピタッとハマったんです。ダンスと歌の突き抜け感も最初から素晴らしかったから、毎回メンバーに対してすごく高いハードルを求めていたんだけど、ちゃんとこなしちゃうんだよね。

──島袋さんの歌唱力は当時大きなインパクトがありましたし、今聴いてもデビュー時にまだ12歳だったということに驚きますが、いつから歌手を志していたんでしょうか?

島袋 3歳の頃にはもう気持ちを固めていて、(沖縄)アクターズスクールに行きたいって母を説得してましたね。当たり前のように歌手になると思ってたし、歌手以外考えられなかった。

──3歳で親を説得……!

島袋寛子

島袋 ずっと鏡の前でデタラメな歌を歌っていて。それでアクターズスクールに見学に行ったら、もうマイクを離さなかったらしいです。「雨の日も嵐の日も絶対にレッスンは休まない」っていう約束で、最初の頃から自分でバスに乗って通ってました。月謝も大変なところを、お母さんは育てるのでやっとなのに死に物狂いで通わせてくれて。「10年やって芽が出なかったらやめる」っていう約束をしてたんです。

伊秩 そういう意味では、10年ギリギリでのデビューだったんだな。

島袋 ギリギリです。そもそもは、エリ(今井絵理子)が初めにデビューすることが決まってて、私はたまたまそこに入ったんですよ。

伊秩 へえー!

島袋 パーンと明るい、弾ける感じのエリがいて、そこにタカ(上原多香子)とひっちー(新垣仁絵)も加わって。本当は違う子がさらに入る予定だったのが入らないことになったので、急遽私が入れてもらえたんです。それで4人で「ヒッパレ」に出たのが最初。とりあえず出演っていう感じでデビューも何も決まってなくて、「よくなかったら沖縄に帰すぞ」って言われてましたね。でも出演して2、3回目のときに、当時のレコード会社の方が見にきてくださっていて、デビューが決まって。私はとにかく歌いたくて歌いたくて必死でした。ホームシックになんかなる暇もなかった。たまにうまくできなくて凹んだら、同室のエリにバレないようにこっそり泣いたり(笑)。エリも同じだったと思います。つらいときは親に電話して乗り切ってましたね。

追求し続けてリリースが延期になったデビュー曲「Body & Soul」

伊秩 レコーディングのときはみんな一番素に戻れてたよね。外に行くと戦場だからさ。一番ナチュラルな気持ちでできてたと思う。

島袋 レコーディングでは本当に自由を感じてましたよ。「出前だ、やったー!」みたいな(笑)。

──デビュー曲「Body & Soul」はレコーディングにかなりの時間をかけて、結果リリース日が延期になったという逸話を聞いたことがありますが……。

伊秩 本当は7月22日がデビュー日の予定だったんだけど、間に合わなくて8月5日になったんですよね。僕はもちろん、事務所やレコード会社の方々も、リスクを背負いつつ「このすごい原石をいかにして最大限プロデュースできるか」って、必死に考えてたと思う。スタートがすごく大事だから、妥協はできなかった。

島袋 全部終わるまで2カ月くらいかかりましたよね。私たちは何もわかってないから、「レコーディングってこんなにかかるんだー。何回歌うんだろう、どんだけ私たちダメなんだ?」って思ってた(笑)。キーもどんどん上がっていって……(笑)。

伊秩 何回も歌っていくうちに、さらにインパクトが出せないかという感じだったので、「出るなら出しちゃおう」と、最終的に2音上げたんだよな。

島袋 細かい記憶は残ってないんですけど、とにかく歌う、って感じでしたね。でも全然終わらないから、エリがどんどんハイテンションになっていって(笑)。

伊秩 床に転がって20分くらい笑ってたな。寛子のほうが年下なのに、「エリ、もういい加減にしなさい」って(笑)。

島袋 あはは(笑)。当時は今みたいなレコーディング機材もなくて直しもきかないし、できるまでやり続けるっていう感じでしたね。