ASIAN KUNG-FU GENERATION「Single Collection」特集|重大トピックで振り返る、デビュー20年の軌跡

ASIAN KUNG-FU GENERATIONが昨年デビュー20周年を迎えたことを記念して、シングルコレクション「Single Collection」を7月31日にリリースした。

本作には2003年発表の1stシングル「未来の破片」から2023年発表の「宿縁」まで、これまでに発表されたシングルの表題曲をすべて収録。さらに2003年にテレビアニメ「NARUTO -ナルト-」のオープニングテーマに使用され、国内外のリスナーから長く愛されている「遥か彼方」の再録バージョンも収められている。

音楽ナタリーではアジカンの20年において印象的なトピックをピックアップ。2005年に「NANO-MUGEN FES. 2005」を横浜アリーナで開催したとき、メンバーが抱えていた葛藤とは? 初めて「FUJI ROCK FESTIVAL」GREEN STAGEで演奏したときの思い出は? 2011年に訪れたバンドの解散危機とは? 当時の心境や裏話をメンバーに聞いた。

取材・文 / 小松香里撮影 / 後藤壮太郎

2003年4月
「崩壊アンプリファー」再発売でキューンからメジャーデビュー

──アジカンはインディーズ時代にリリースしたミニアルバム「崩壊アンプリファー」の再発という形で、ソニーのキューンレコードからメジャーデビューしました。

後藤正文(Vo, G) 当時のASIAN KUNG-FU GENERATIONは、メジャーレーベルの下馬評的に同世代のART-SCHOOLやストレイテナーに二重丸が付いているとしたら、「あんな下手なバンドが売れるわけがない」と言われていたので、完全に穴で(笑)。俺たちとしては「ふざけんな!」と思っていたけれど、実際レーベルから手が挙がらなかったのは事実だったんですよね。でも、ソニーのキューンレコードのスタッフが「崩壊アンプリファー」をめちゃくちゃ気に入って、「メジャーでやりませんか?」と声をかけてくれたんです。

「崩壊アンプリファー」ジャケット

「崩壊アンプリファー」ジャケット

──「崩壊アンプリファー」の1曲目は「遥か彼方」です。テレビアニメ「NARUTO -ナルト-」主題歌ということもありますが、発売から20年以上が経った今でも、アジカンの楽曲の中でストリーミング再生回数1位です。

後藤 そうなんです。こんなに長く愛される曲になるとは、当時のことを考えたらにわかには信じられないよね。

伊地知潔(Dr) まさに海外に連れて行ってくれた曲が「遥か彼方」。まだ街のスタジオで練習してる頃にセッションでAメロとかを作った記憶があって。まさかその曲がここまで長い間ライブでやるような曲になるとは思わなかった。

ASIAN KUNG-FU GENERATION

ASIAN KUNG-FU GENERATION

──今年の5月中旬にメキシコとチリで行ったライブでも演奏されていましたが、パフォーマンスをしていて「NARUTO」の力は実感するものですか?

後藤 実感はするけど、これまでの「NARUTO」主題歌が全部南米や海外でウケているわけではないし、たまたま「遥か彼方」が現地の方にハマったというのはあるかな。アジカンというバンドの入口として、すごく機能してくれた。海外で「遥か彼方」以外まったく盛り上がらないんだったらショックだけど、この前のライブでもアルバムの曲を最初から最後まで歌ってくれたし、「遥か彼方」をきっかけにほかの曲も聴いてくれていることがわかる。一応、僕らのことをロックバンドとして観てくれてるんだなって。アニメと音楽とか、いろいろな日本カルチャーのミックスが進んでるなとも感じるし。

──アニメとロックが掛け合わさった成功例として、先駆け的な楽曲だったのかもしれないですね。

後藤 うーん、当時はそういうことはあまり考えてなかったかな。ロックバンドがアニメの主題歌をやることに対して、「ダサいんじゃない?」という風潮もあったし。今はそのミックスも含めて日本のカルチャーがクールだと思われているし、人気アニメの主題歌が1つのステータスになっているように感じる。

──例えば、King Gnuがアニメの主題歌をやっても今は誰もダサいとは思わないですよね。

後藤 そう、むしろ「このアニメにハマってるよね」という話になってるじゃないですか。2002年当時は、アニメの主題歌をやることがカッコいいのかどうかは半信半疑でした。でも、スタッフも含めて「やろう」と決断できたことは大きかった。「アニソンバンド」と言われたこともありましたけど、運もよかったんだと思います。最初「遥か彼方」が「NARUTO」の画にハマったのを見たときは感動した記憶がありますね。素直に鳥肌が立った。今も僕たちはその延長線上にいますけれど、素敵な出会いでしたね。

──シングルコレクションには、「遥か彼方」の再録バージョンが収録されています。“2024 ver.”として再録した理由はなんだったんでしょう?

後藤 「遥か彼方」はシングル曲ではないけど、代表曲であり、海外でも一番盛り上がる曲なので、「入っていないのはなしだよね」という話になったとき、今の俺たちが演奏しておく意味があるんじゃないかと思ったんです。ただ、もとの音源の勢いのある感じはもう出せないし、2024年バージョンにする難しさをよくわかったうえでトライしました。「遥か彼方」には、偶然生まれたよさもあると思うんです。当時のバンドの勢いとエンジニアの岩田純也さんの技術によって、パッションを上手に収めることができた。それをある程度歳を重ねてからやると、どうしても形が変わってしまって再現できないことのほうが多いので、「よくない」と言われる可能性を十分に理解したうえで今の自分たちで演奏することにしたんです。

──一番こだわった部分というと?

後藤 イントロの音色じゃない?

喜多建介(G, Vo) 山ちゃんのね。

後藤 イントロのためにスタジオにずっとこもってたという噂も(笑)。

山田貴洋 (B, Vo) あのイントロは当時の機材じゃないと作れない音なんです。たくさん聴かれる曲なので、もとのイントロの音からかけ離れちゃうのはどうなのかなと思ったけど、完全に同じにはならないので、できる限り近付ける作業をしていて。いろいろな機材をスタジオに持っていって、今回のエンジニアと「当時はこのプラグインしかなかったから、これを噛ましたんじゃないか?」という話をしながら試して。結果オリジナルの音をちゃんと受け継いだものに落とし込められたと思います。

2004年10月
2ndアルバム「ソルファ」リリース、アルバムチャート2週連続1位

「ソルファ」ジャケット

「ソルファ」ジャケット

──2ndアルバム「ソルファ」がアルバムチャートで2週連続1位になりました。

喜多 その前のアルバム「君繋ファイブエム」でかなり広まっていることは感じつつ、「ソルファ」に向けて「サイレン」「ループ&ループ」「君の街まで」「リライト」というシングル4枚をリリースする中で、さらに盛り上がって。シングルリリースを計画したスタッフの力も大きかったのかなと。「ソルファ」という作品そのものより、アジカン自体がきている感じがしてたし。

──ただ「ソルファ」は60万枚以上売れましたが、当時の皆さんはかなり混乱していた記憶があります。

後藤 そうですね。戸惑いはあったかな。今の若いミュージシャンって2ndアルバムをリリースするようなタイミングで武道館2DAYSやアリーナでライブができる技術を持ってる場合が多いと思うんです。でも、俺たちは小さいライブハウスからの叩き上げだから、2ndアルバムはすごく売れたけど、力量としてはまだまだで。「金返せ」って言われてもおかしくないライブもあったし。もっと演奏をよくしなきゃいけないのに、人気が先行してる感じがあって、葛藤してた。「そういうことなんて考えないで、気持ちよくやればいいんじゃないの」という意見もわかるけど、「進歩したい」と思ったからこそバンドは成長できたんだと思う。「ソルファ」のリリースツアー(「Tour 2005 "Re:Re:"」)中は毎日メンバーに対して「ここがよくなかった」という呪詛を吐いているような感覚があって、地獄みたいなメンタルだったけど。

──演奏力を上げないといけないという。

後藤 そうそう。自分も不甲斐なかったから、自分のことも呪ってたんだと思います。「売れるとこんなに食らうんだ」と思って、とにかくつらかった。アジカンが売れたことで、「なんで俺たちじゃなくてあいつらが売れるんだ」とか「あいつらが売れる理由がわかんない」と思ったバンドもたくさんいたと思うので、そういうところからも食らってました。モノづくりをしていれば、そういう気持ちになるのはよくわかるけど。

後藤正文(Vo, G)

後藤正文(Vo, G)

──2016年の結成20周年タイミングで後藤さんは、アジカンの功績に対して「ロックスターではなく、普通のやつらが音楽やってもいいんだっていうことを広めた」というふうに、売れたことを前向きに捉えた発言をしていましたが、そういうマインドになれたのはいつ頃だったんでしょう?

後藤 どこらへんなのかな。徐々に自分たちが音楽的に進歩して、今はエンジニアリングもできるようになりましたけど、どこかで振り返ったときに「曲がいいな」と思ったんだろうな。人は個人の感想からは逃げられないところがあるので、自分たちがどこまで客観的になれているかはわからないですけれど。それにしても「曲がいい」って自分でも思うんです。バンドの技術が拙かったとしても、当時の自分たちがやっていたことは面白い化学反応だなと思うし、わりとよくできてるなと。だいぶ時間を経て、そうやって素直に喜べるようになった。あと、ポップミュージックが持ってるエネルギーってすごく複雑で、数字で簡単に測れないところがあって。「こういうコードでこういう和音のメロディがここにあるから」といって、いい曲かというとそうではない。誰しもがいい曲を作れるわけじゃないところが本当に面白いところで。しかも、アジカンの曲は時間を超えていることが特に素敵なことだと思っていて。「転がる岩、君に朝が降る」が今になって評価されていることも大きくて、時間という残酷なフィルターを突き抜けてもう1回シェアされるということは、本当に曲に魅力があるということだから。名盤って大体そういう力がある。だから、チャートで2週連続1位ということが大事なんじゃなくて、いまだに「ソルファ」を演奏すると喜ばれることのほうが大事なんだと思う。基本的には表現ってそういうものなんじゃないですかね。時間のフィルターを介して回収されないと評価が定まらない。

伊地知 この前9年ぶりに行ったチリとメキシコは、みんなめちゃくちゃ待ってくれてた感じがあったんです。曲もたくさん知ってくれてて、「飽きられてないな」と感じられた。アジカンの楽曲って、そこだよね。聴くだけじゃなくて演奏する側としても飽きさせない要素が、この4人で作ると生まれる。でも、曲としては変な曲だなとも思うので、そのバランス感の説明はできなくて。もし説明できるくらいなんだったら、僕が別でやってるバンドでもそのスキルを使いたい(笑)。

2005年7月
「NANO-MUGEN FES. 2005」横浜アリーナで開催

──2003年に新宿LOFTで始まったアジカン主催の「NANO-MUGEN FES.」が、2005年には横浜アリーナで2日間にわたって開催されました。国内だけでなく、海外アーティストも参加するようになっていましたが、アリーナで開催することで達成感などはありましたか?

後藤 いや、2005年の「NANO-MUGEN」はショックが大きかった記憶がある。自分たちは洋楽と邦楽を分け隔てなく好きで聴いていたので、どっちのアーティストを出しても楽しんでもらえると思ってましたけど、アジカンだけ観たい人とか、日本の音楽にしか興味がない人が想像以上に多くて。時代的にも人々の興味がタコ壷に向かっていたところもあって、邦楽ファンと洋楽ファンがパッと分かれるような傾向が加速していた印象が残ってる。あのbloodthirsty butchersでさえ、Rage Against the Machineの前座で苦労したり、Oasisの前座バンドがみんな苦労したり、日本のバンドにまったく興味を示さない洋楽ファンがいれば、その反対も然りで。でも、音楽って基本的には国やジャンルを超える中で面白いものが生まれてきたんだと思う。ロックンロールもヒップホップもそうで。それぞれが興味のあるところだけに固まっていくのは間違ったことではないんだけど、そこにどういう対流を生み出せるかというトライ&エラーを「NANO-MUGEN」では繰り返してましたね。2005年の反省から「もっとちゃんとオーガナイズしないといけないんだ」と思って、翌年は2ステージ制で対面に配置するのではなく、メインステージを1つにして、横にもう1つステージを作ることにしたり、山ちゃんや潔、建ちゃんが司会として出てきてバンドの紹介をしたり、出演者のコンピレーションを作ってみたり、いろいろな努力をしたんですよね。だから当時は「アリーナでやれてよかった」という気持ちは一切なくて、「なんてことを始めちゃったんだろう」という思いのほうが強かった。そんなことばかりやってますけど(笑)。

──でも、大きな挫折をしてもイベントを止めずにいろいろな対策を講じて進化させていったのは素晴らしいことだと思います。

後藤 そうですね。ほかにも当時からアーティスト主催のフェスはいくつもあったけど、「NANO-MUGEN」は海外のバンドを呼んでいくわけで。あるメディアに「金と時間のムダだ」と書かれたことは一生忘れないけど(笑)。これも回収なんですが、今になって「『NANO-MUGEN』行ってました」と言ってくれる人がけっこういるんですよね。

喜多 お客さんとして来てくれてたっていう若いアーティストは多いよね。

喜多建介(G, Vo)

喜多建介(G, Vo)

後藤 D.A.N.のみんなとかね。たくさんの人が自由に好きな音楽を見つける場所になってくれたらすごく素敵なことだなと思うし。ただ、本当に大変だった。最近「またやってくれ」って言われたりするんだけど、簡単に言わないでくれと(笑)。スタッフを含めてみんながメンタルをやられるフェスだから。地方の人にとっては、関東でのフェスはハードルが高いところもあるので途中からサーキット形式に変えてFeederたちと全国を回ったりしたけど、今後、何かいい形を探れるといいなとは思っていて。

2006年7月
初の「FUJI ROCK FESTIVAL」GREEN STAGE

──「NANO-MUGEN」で洋楽ファンと邦楽ファンの大きな乖離を感じながらも、2006年にはフジロックのGREEN STAGEに初めて立ちました。

後藤 あれは大きかったですね。1998年に豊洲で開催したフジロックでTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTのライブに心を打たれてから、あのステージに上がることは1つの目標だったから。2003年のROOKIE A GO-GO(新人アーティストたちの登竜門と呼ばれるフジロックのオーディションステージ)から始まってGREEN STAGEに駆け上がることができたのは、すごく意味があることだと思っていて。2006年に出演できたこともうれしかったけど、ROOKIEに出られたときのほうが俺としては達成感があった。当日は吐きそうになるぐらい緊張しましたけど。ここでミスったらGREEN STAGEに出られることはないだろうと思ってたくらい。ただ、日曜日の深夜4時くらいに出たので、実質4日目。「これはフジロックなのか?」と考えちゃったけど(笑)。

喜多 前のバンドが押しちゃったんだよね(笑)。

後藤 1回目のGREENよりは、2回目に出た2010年の早朝のステージのほうが気持ちよかった。1回目は相当気負いもあって、平常心では演奏できなかったから。

山田 2006年は「フラッシュバック」やれよってお客さんに言われたし(笑)。

後藤 野次られたね(笑)。

喜多 当時やっていた「ファンクラブ」のツアーのモードがありつつ、フジロックでは「月光」とかを演奏したのかな。

山田 フジロックモードでいこうとしたんだね(笑)。

ASIAN KUNG-FU GENERATION

ASIAN KUNG-FU GENERATION

喜多 洋楽のお客さんを見据えたようなセットリストにしたら、そういう野次があって。

後藤 でも2006年はJetの前の出番で、海外向けのメディアの記事では褒められてたよね。ライブ自体は悪くなかった。