広瀬すず、木戸大聖、岡田将生が共演した映画「ゆきてかへらぬ」が2月21日に全国で公開される。大正から昭和を舞台にした本作は、実在の女優・長谷川泰子、詩人・中原中也、文芸評論家・小林秀雄による壮絶な愛と青春を描いた物語。泰子を広瀬が演じ、中也に木戸、小林に岡田が扮した。脚本は「ツィゴイネルワイゼン」「セーラー服と機関銃」の田中陽造が40年以上前に執筆したもので、監督を「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」の根岸吉太郎が務める。
映画ナタリーでは、イラストレーター・おおたうにの解説イラスト、ライター・SYOのコラムを掲載する。イラストで大正・昭和ならではのクラシカルで美しい衣装やアイテムをたっぷり紹介。コラムでは愛に狂う激情を見せつけた広瀬すずの熱演、“全生活をあげて恋をした者たち”が織りなす青春物語の魅力に迫っていく。
イラスト / おおたうに文 / SYO
映画「ゆきてかへらぬ」予告編公開中
「ゆきてかへらぬ」のファッションを紐解く
プロフィール
おおたうに
イラストレーター。女の子とファッションをテーマにしたイラストを得意とし、著作にイラストブック「チェリーコーク」シリーズなどがある。
実在した女優・詩人・文芸評論家の青春物語を深掘り
旬のキャストが躍動、美学まみれのハイクオリティな一本
幾千もの作品が溢れかえっている現代。可処分時間が限られたなかで効率的に面白い作品に出合いたい、有象無象にかまけたくないという切迫感は増すばかりだ。そんな状況下で「文芸作品」と聞くと、お堅い作品なの?と反射的に身構えてしまうのではないか。しかも大正~昭和初期を舞台にした実在の女優・詩人・文芸評論家の物語という要素が足されたら、広義の歴史もの / 実話という部分に目が行き「自分には遠い話」と距離を取ってしまう方も少なくないはず。かくいう自分もその一人で、詳しくない自分が楽しめるのか……と警戒してしまっていた。
だが、こう聞けばどうか。「広瀬すず、木戸大聖、岡田将生が壮絶な三角関係に溺れる男女を演じたラブストーリー」「衣装に美術、構図に世界観──どこもかしこもフォトジェニックで、セリフがいちいちカッコいい」と。現代劇では決して成しえない様式美の中で、旬のキャストが躍動する美学まみれのハイクオリティな一本。それが「ゆきてかへらぬ」の本質だ。この映画でしか拝めないレアなビジュアルで目を喜ばせ、いつの時代も変わらない青春の儚さ、愛の狂気性で心を突き刺す──いわばハイブランド的な高品質とカジュアルな親しみやすさを両立させており、コスパ / タイパ的にも一石二鳥な体験が待ち受けている。
愛に狂い身を焦がす激情…見たことのない広瀬すず
冒頭、寝床から起き上がった長谷川泰子(広瀬すず)が窓の外に目をやり、屋根に置かれて濡れそぼった柿を見やるシークエンスから、本作はもう既に“エモさ”に満ちている。完全に役になりきった広瀬のちょっとした仕草にも漂うしどけなさ、雨粒ひとつとっても艶っぽい映像美──世界観を壊さず、それでいて遊び心を感じさせるカメラワークも相まって、「敷居が高い」と言いながらもこっそり憧れていた文学の世界に入り込んだ錯覚をおぼえる。そこに黒ずくめのマントにハットを着こなすスタイリッシュな中原中也(木戸大聖)、白シャツにサスペンダーと綺麗目にまとめた小林秀雄(岡田将生)が加わり、ファッション面でも目を虜にする。広瀬は和装と洋装、さらには両者を融合させた大正ロマン風衣装……百花繚乱で画面を彩り、全体的なカラーリング含めて視覚的な満足度が非常に高い。
そして、完成された登場人物の口からこぼれるパンチラインの乱れ打ち。中也の「ぼくはまだこの手で詩を握りしめていない」、泰子の「生れてから一度も泣いたことがないような気がする」、秀雄の「死という形式においてはさ、人間もアブラ虫もリンゴも変わりやしない。そうじゃないかね。こんなに晴れた空が死というものの実体かもしれんのだ」等々──痺れる・そそる名ゼリフのオンパレードなのだ。こうしたクールなセリフは使い方を間違えるとクサくなったりスベってしまうものだが、本作においては世界観が強固に出来上がっているためむしろ耽美性が補強されている。俗な言い方をすれば、抜群にハマって / キマっているのだ。
本作の中核をなす恋愛シーンにおいても、秀雄の口説き文句「俺にはただ君だけが存在する」、泰子の情念を表した「惚れたら……女は体ごと惚れるのよ」等々、キャラクターの精神性とワードチョイスが見事に一致している。特に愛に狂い、己の身を焦がす激情家に扮した広瀬の入り込みはすさまじく、これまでに観たことのない圧巻の姿をさらしている。演者としてさらなる覚醒を遂げた感があり、この“驚演”は永く語り継がれていくことだろう。
奇妙な三角関係、略奪愛、ブロマンス的な相思相愛…心に食い込む“濃厚な生身の愛”
物語はやがて泰子が中也から秀雄に乗り換え、奇妙な三角関係へとなだれ込んでいくのだが、中也が嫉妬で取り乱す修羅場のシーンで秀雄が言い放つ「奇妙なことに、今、俺とおまえは同じ頭脳運動をしている」「もう、よせ。おたがい醜くなるばかりだ」や、失恋の果てに中也が取るなかなかに常軌を逸した行動も早熟の天才というアンバランスな人物像としっかり結びついており、行動理念が破綻していない。冷静に見える秀雄は秀雄で、親友で天才の中也に心酔しており、略奪愛の果てに「キミの体を透して、中原に触れたかった」と泰子に言い放つ残酷な人物なのだが、中也と秀雄のブロマンス的な相思相愛関係が丁寧に積み重ねられているため(中也から秀雄への愛の告白ともとれる「俺とシラ真剣で渡り合ってくれるのは、あんただけだ」は作中の名シーンの一つ)、単なる「一人の女を取り合う二人の男の話」ではなく、数奇で見ごたえのある「各々にどうしようもなく惹かれ合ってしまう三人の若者の話」として成立している。
字面だけだと共感を得にくい関係性にもかかわらず、「倫理・道徳的には滅茶苦茶だけど心でわかる……」と思わされてしまうのは、芝居やセリフといった情報から観客の脳に結ばれる人物像・インプットされる心情がきっちりと計算されており、そこに「ウソがない」と信じられるからだろう。愛することは生きることでもあり、全編に漂う色香はすなわち生命力に直結する。自分の心に惑い、それでも求めあい、「全生活をあげて恋をした」者たちの生きざまが、観る者の心に爪痕を残さないわけがない。生きた時代を飛び越え、ダイレクトに飛び込んでくる極上にして鮮烈、濃厚な生身の愛にどっぷりと陶酔いただきたい。