今から50年前、1974年に井上ひさしが発表した「天保十二年のシェイクスピア」は、宝井琴凌の侠客講談「天保水滸伝」と、シェイクスピア全37作品を織り交ぜつつ、人間の業を描いたスペクタクルだ。これまでさまざまな作曲家と演出家が本作に挑んでいるが、2020年に宮川彬良と藤田俊太郎がタッグを組み、「絢爛豪華 祝祭音楽劇」として本作を立ち上げた。が、初演時は新型コロナウイルスの影響により、一部公演が中止に。再演が待たれた本公演が、4年の時を経て新たに息を吹き返す。
10月下旬、ステージナタリーは宮川と藤田にインタビュー。再演に懸ける思いや井上ひさし作品の魅力についてたっぷりと話を聞いた。
取材・文 / 熊井玲撮影 / 祭貴義道
初演から4年、やっと迎えた再始動のとき
──本公演は、2020年の初演時、新型コロナウイルスの感染状況と2月26日に発表されたイベント自粛要請を受けて東京公演の途中で中止となり、千秋楽まで完走ができませんでした。それから今回の再演が動き出すまでの期間、お二人にとって本作は、どういう作品として心にとどまっていましたか?
宮川彬良 2020年はちょうどオリンピックが開催される予定だったこともあり、「絢爛豪華 祝祭音楽劇」という冠をつけました。が、それがもう見事に砂嵐で消されて、虚飾が全部取り外されてしまい、「天保十二年のシェイクスピア」は東京公演数日間と大阪公演も奪われて……本当に世の中は動いているんだなと、あのとき実感しました。中止になった後も、プロデューサーとはずっと連絡を取り続けていたのですが、これだけの座組がそろうにはやっぱり時間がかかってしまい、待ちくたびれた頃にようやく再演できることになった、というのが僕の正直な実感です(笑)。
藤田俊太郎 初演の時点では、オリンピックイヤーに合わせて大きな祝祭ムードとその後に残るであろう空気との光と闇、祭りの前後をお客様が作品を通して感じることができるんじゃないか、と考えていました。が、2月26日という日を迎え、我々をはじめ演劇人・表現者皆が“作品の上演ができなくなる”という状況を経験しました。「天保十二年のシェイクスピア」は東京公演3公演を“休止”し、大阪公演8公演が上演できず、その思いを残しながら無観客で舞台映像を収録しました。その収録日が2020年のカンパニーが最後に会った日となり、収録後、彬良さんやプロデューサーの方々と「また会いましょう、上演しましょう」と言って別れました。以来、僕自身は再び上演できることを熱望してきましたが、やはり一つの座組が再び集まるタイミングを探るのは時間がかかりますし、コロナの前後で世界は変わってしまって、井上ひさしさんの戯曲と、彬良さんの譜面だけが目の前に残った……という感覚ではありました。ただ僕は、実はもっと長い目で考えてもいて、この作品こそ日本代表ならずアジア代表として、日本人のルーツを世界に問うことができる作品なのではないかと思っていたので、すぐではなくてもいいからいつか上演したいと考えていました。
それから5年、プロデューサーの皆様、スタッフの皆様が大変な努力と画策し続けて、念願の上演となります。前回かなわなかった大阪公演をはじめ、全国公演もできることになりましたので非常にうれしく思っています。また、5年の内には、座組みの一員である辻萬長さんがお亡くなりになりました。萬長さんをはじめ初演を共に作った仲間たちの思いをきちんと胸に抱きながら、新たな気持ちで2024-2025年のカンパニーと向き合っている……というのが、今の僕の心境です。
生きている間に、私たちは幸せを感じることができるのか?
──作品としては、1974年、井上ひさしさんが40歳のときに書かれた作品で、宝井琴凌の侠客講談「天保水滸伝」と、シェイクスピア全37作品を織り交ぜた、人間の業を巡るスペクタクルです。作品の成り立ちだけ考えると、複雑さや難解さに尻込みしかねませんが、観劇後は祝祭感や爽快感に包まれる一大絵巻で、それには音楽の力が大きく作用しているのではないかと思われます。過去の上演でもさまざまな作曲家が本作の音楽を手がけてきましたが、藤田さんが宮川さんに作曲を依頼したのは、どのような思いからですか?
藤田 この作品はカオス、混沌とした群像劇に見えて、実はものすごくシンプルに、佐渡の三世次の一代記だと思うんです。百姓出身の三世次が侠客の世界の親分になり、末は代官となって百姓を搾取するという大きな構造があるわけで、元下層が今の最下層を搾取する、つまり人間の暗部を光で抉るような物語で、最下層にいる民衆たちがその思いを歌い伝えていきます。登場人物たちにはさまざまな生き様、死に様がありますが、格差社会に対する怒り、時代の変遷の中で押しつぶされる悲しさ、“ここではないどこか”に行きたいと抗う者たちの想いが歌となります。さらにこの作品の最後は、死者たちがものすごいパワーで祝祭を奏で、歌い、言葉を発し、客席の皆様と共感して幕を下ろします。祝祭ムードに満ちた、明るい楽しい音楽の中での“死”、それは裏を返せば「生きている間に祝祭や喜びを感じることはできるんだろうか?」というアンチテーゼでもあり、ものすごく大きなテーマを背負って上演が終わるわけです。本作は50年前に発表された作品ですが、井上ひさしさんはシェイクスピアや講談などさまざまな趣向を織り交ぜながら、一見すると混沌に見せつつ、今を生きる観客に「生きている間に、本当に幸せを感じることはできるのだろうか?」と問いかけている、と僕は考えています。
そのことを踏まえたうえで、音楽にも三世次のテーマが必要であること、もちろん群像劇の要素も多分にあるのでさまざまなモチーフが必要であることを、まず考えました。さらにシェイクスピアと講談、西洋と和など遠い価値観のものが交錯する感覚が音楽にも必要ではないか、と考えたとき、異なる価値観の交流、混合と昇華をされてきたのがまさに宮川彬良さんの仕事だなと。そしてまた井上ひさしさんの言葉と闘える方という点でも、彬良さんは井上ひさしさんの作品をすでにやられているので、彬良さんとぜひご一緒したいと思ったんです。それで、1年ぐらいかけて1カ月に1曲ずつ、彬良さんとやり取りしながら曲を作っていきました。
宮川 今、彼が話したポイント、確かに聞いたような気もするんですけど、実は僕、あまり覚えていなくて(笑)。僕としては、曲を作り始めたら“そうなっていた”という感覚でした。「こうしてください」と頼まれました、考えました、できました、「それでいいです」という感じではなくて、「こうしてください」「これですね?」という感じで用意ができたっていうのかな。そんな1年間でしたよ。言葉にするとかなり感覚的になってしまうけど、1枚ずつ作品のベールを剥がしていきながら「これはこういうことだよね?」って確認し合うような感じで、非常に愉快でした。結局、作る面白さって半分以上が解釈することの面白さだと思うんですよね。
僕は昔、井上ひさしさんの「ムサシ」(編集注:2009年に蜷川幸雄演出で初演され、その後も上演を重ねている、宮本武蔵と佐々木小次郎を巡る作品)でひさしさんとご一緒していますが、実際にお会いしたのは1回だけで、実はずっと台本が出来上がらず、僕は毎日稽古場に行くんだけど、台本はないし、ひさしさんも稽古場にはいない、という日が続いていて。ある日、何枚か台本ができてきたので、そのシーンにタンゴの曲を書いたんです。そうしたら偶然僕がいないときにひさしさんが稽古場にいらっしゃって、そのタンゴのシーンを観て帰ったらしいんですね。実はそのシーン、ひさしさんの中でもなんとなくタンゴがよぎっていたそうで、後でマネージャーさんが僕にFAXをくれて、「宮川さんの千里眼だね」とひさしさんが書いてくれた。僕はどんな文化勲章をもらうより、そのFAXを大事にします!というぐらいうれしかったです。つまりひさしさんと僕の間に通じ合う感覚があって、不思議と一緒に作っているような感じを僕は受けたんです。「天保十二年のシェイクスピア」でも、“この辺”(と斜め上に手をやって)にひさしさんがいて、一緒に作っている感覚でした。
藤田 井上ひさしさんが“千里眼”とおっしゃってくれそうな曲は、「天保十二年のシェイクスピア」の中にもたくさんあると思います。また、これは、稽古場で聴いて深く理解したことですけど、「もしもシェイクスピアがいなかったら」の曲や三世次のテーマなどは、音源的に分解してみるとさまざまな登場人物のモチーフになるように作られていて、それぞれの人物が死ぬとき、そのモチーフがリプライズされるんです。見事なミュージカル構造になっていて、本当に素晴らしいと思いました!
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シェイクスピアに向き合ったからこそ、見えてきたもの