誰もが何かを持って帰ってもらえる作品──藤田俊太郎、宮澤エマ、成河が語る「ラビット・ホール」

4歳の一人息子を亡くした若い夫婦ベッカとハウイーをめぐる物語「ラビット・ホール」が、藤田俊太郎の演出で上演される。藤田は、稽古を重ねれば重ねるほど「カンパニーの共有、作品の解釈が豊かに深まっています。劇場でとても自然にお客様自身の人生の物語だと感じていただけるのではないか」と作品の魅力を語る。大きな悲しみを経験した人は、いかに日常を取り戻していくか……。ベッカ役を演じる宮澤エマ、ハウイー役の成河の作品に対する思いも織り交ぜながら、本作の魅力を紐解く。

取材・文 / 大内弓子

とても繊細なことが、リアルに描かれている

「ラビット・ホール」は、2007年にピュリツァー賞を受賞し、2010年にはニコール・キッドマンの製作・主演により映画化されて数々の映画賞を獲得、舞台も世界で上演され続けている作品だ。4歳のひとり息子を亡くした若い夫婦ベッカとハウイーをめぐるこの物語は、なぜここまで多くの心を捉えるのか。ベッカを演じ、この作品で舞台初主演を務める宮澤エマは、初めて戯曲を読んだときの思いをこう語る。

「ベースにあるのは、交通事故で息子を亡くした夫婦とその家族、そして加害者となってしまった青年の物語なんですが、彼らに何が起こったのかというのは、会話の中で少しずつ紐解かれていくんです。しかも、その会話がとても生々しくリアルで、それぞれのキャラクターも関係性も、その会話の中で自然に見えてくる。悲しい出来事を体験して、それを乗り越えたくても乗り越えられないときに、人間はどうやって日常を過ごしていくのかというとても繊細なことが描かれています。それを演劇という形でみんなで体験できる時間はとてもぜいたくで、舞台でしかなし得ない空間になるのではないかなと思ったんです。これを私がやらせていただくのは大きなチャレンジで、プレッシャーになるのが怖くて今も初主演という言葉をできるだけ口に出さないようにしているのですが(笑)。やらなかったら後悔するという思いになったくらい、すばらしい戯曲だなと思いました」

夫のハウイーを演じる成河にとってこの作品は、リアルな会話劇に身を投じる久々の機会。だからこその面白味も感じている。

「僕は比較的、様式性の高い演劇をやることが多く、特にここ1年くらいはミュージカルや、ダンスや歌舞伎などの形式を使ったものをやっていて、こんなに純粋な会話劇をやるのは久しぶりなので怯えていたんです(笑)。でも、せっかくやるんだったら、心がぐしゃぐしゃになるところに勇気を持って踏み出そうかなと思っています。自分の感情記憶を使うという、近現代のリアリズム演劇に有効だと言われているメソッドに則って、一度自分の中にグワッと入っていこうかなと。その作業は苦しいものですけど、今はとても楽しみになっています」

また、「これは観てくださる皆さんも楽しみにしていてほしいんですけど」と、成河が付け加えたことがある。稽古序盤からディスカッションを重ねることでどんどん今の日本語の日常会話に近づき、今の私たちにスッと入り込む言葉になっているというのである。

左から成河、藤田俊太郎。(撮影:石阪大輔)

左から成河、藤田俊太郎。(撮影:石阪大輔)

「宮澤エマさん、ベッカの妹役の土井ケイトさん、ベッカの母親役のシルビア・グラブさんと、今回の座組の女性俳優3人が全員、英語のネイティブスピーカーなんです。だから、もとの英語のニュアンスをちゃんと理解したうえで、今の日本語の日常会話に置き換えられる。そしてそれを、今回の翻訳を手がける小田島創志くんも、『勉強になります。そうしましょう』と言って受け入れる。そんな翻訳家さんいますかって驚くくらいですけど(笑)。この作品でいよいよ、『これって普段の私たちの会話だよね』という翻訳劇ができるんじゃないかという気がしているんです」

最初からそのディスカッションに立ち会ってきた演出の藤田俊太郎も、それこそがこのカンパニーで上演することの魅力だと言う。

「英語で生活して英語の質感を知る方々がカンパニーにいることで、英語の日常やこの戯曲の深みをみんなで知ることができました。では、それをどんな日本語にするとちゃんと伝わるのかということをディスカッションし続けているんです。もしかしたら、本番に入ってからも議論するかもしれません。言葉は生きものですから。お客様にも日常の言葉として、同時に新鮮で生々しい言葉として届くのではないかと思います」

「ラビット・ホール」出演者。上段左から宮澤エマ、成河、土井ケイト、下段左から阿部顕嵐、山﨑光、シルビア・グラブ。

「ラビット・ホール」出演者。上段左から宮澤エマ、成河、土井ケイト、下段左から阿部顕嵐、山﨑光、シルビア・グラブ。

観客それぞれが自分の物語として考えることができる作品

そうして今の日本語で語られることが大きな助けとなって、宮澤の語った「悲しい出来事を体験した人間の日常」は他人事ではなくなっていく。彼らの悲しみは、私たちも知っているものになるというのだ。藤田は言う。

「この物語の舞台は2000年代初頭。2020年代となりコロナ禍を経て、私たちはさらにさまざまな喪失を体験して今に生きています。ここからどう再生していけばいいのかという思いが、私たちの心にもある。だから、稽古していても、私たちにも悲しい瞬間がたくさんあったということを改めて感じさせてくれますし、言葉にならない優しさを持ちながら、戯曲に接することができるんです」

ただし、登場人物たちは悲しんでいるばかりではない。そこもこの戯曲の魅力の1つだと、宮澤は強調する。

「悲しい話であることは否めません。事故の加害者の事情もわかってくると簡単に責めることもできない。そのやるせない気持ちや、理解してくれない周囲の人々への苛立ちや、処理できないいろいろな感情とともにどう生きていくかという話なので、軽く語れるものではないんです。でも、それでも例えば、どのキャラクターも愛すべき瞬間もあれば、愛せない瞬間もあって(笑)、そういう人間らしい瞬間が皮肉やユーモアの材料になって笑えたりするんです。かと思うと、ものすごく温かい瞬間もあったり。いろいろな視点から人間の真実に向き合っていくことになるのではないかなと思っています」

そんなさまざまな瞬間を混じえながら、再生へと向かっていく人間を描くこの物語を、藤田はどう演出しようとしているのか。

「物語の中心にいるベッカの対話を大事にしたいと思っています。家族や、阿部顕嵐さん、山﨑光さんが演じる事故の加害者ジェイソンとの対話。周りのキャラクターはベッカにどう寄り添ったり、寄り添えなかったりするのか。対話を通して、他者を知る。もしくは対話をして他者が遠いことを知る。戯曲の中で、当たり前にある日々の会話の中、人々は自分たちのこの先の人生を見つけていきます。『ラビット・ホール』というタイトルが示している通り、今自分たちが落ちてしまった穴とは別の、あり得たかもしれない穴を探していくわけです。その別の穴とは、他者を想像することでもあるのかもしれないなと、今は感じています。それは、人間にできる力だと思うし、その尊さを滲み出し、お客様に伝えたいと思います」

演劇を観るという行為は、まさしくその想像力を働かせることだ。他者の悲しみが自分のものとなると同時に、自分の悲しみは他者と同じなんだと客体化されていく。成河はその演劇の力を信じている。

「普遍化されることで、この悲しみは僕だけの悲しみじゃないし、あなただけの悲しみじゃないとわかって、癒やされていくということですよね。それって芸術全般が持っている力ですけど、舞台芸術は、決められた時間、場所で、かなりの人数と一緒に半強制的にそれを体験することになりますから、自分はハマらなくても(笑)、すごくハマっている隣の人を見るだけでも効果はあって。個人ではなくコミュニティとして経験するというのが、これだけ長く演劇がなくならない理由じゃないかと思います。言ってみれば、劇場は大切な避難場所。どうぞ劇場に逃げてきてください、というふうに思います」

常々、「演劇は特別なものではなく、日常にあるものだ」と語っている成河。その真意はここにあるのだろう。宮澤も、この作品には癒す力があるのではないかと話す。

「ベッカは最初、悲しみを箱にしまうことで次に進めると思っています。でも、感情や人生はそんなにきれいに詰め込むことはできなくて、アップしたりダウンしたりしながら日々を過ごしていく。今日は良かったけど、明日も続くとは限らない。でも、ダウンし続けるわけでもない。そんな姿を劇場のみんなで見守り、シェアできることが、1つのセラピーになると思うんです。わかりやすい物語ではないけれども、そんなリアルな姿と向き合わせてくれることが救いになる。わかりやすいカタルシスはないかもしれないけれども、何かを持って帰ってもらえる作品ではないかなと思います。浄化されるような瞬間が散らばっていて、心の健康につながる気もするので、重い作品だと身構えずに来てもらえたらうれしいです」

左から宮澤エマ、藤田俊太郎。(撮影:源賀津己)

左から宮澤エマ、藤田俊太郎。(撮影:源賀津己)

確かにこの戯曲には、藤田いわく、「具体的な答えやメッセージは書かれていない」。決してわかりやすくはない。でも、だからこそ、観客それぞれが自分の物語として考えることができるとも言える。

「答えを出さず、登場人物の思いだけを伝えている。だから、言葉を突き詰めるほど、役を掘るほど、自分たちの個やこのカンパニーの解釈を追求するほど、それが普遍化され社会化され、お客様自身の人生の物語になる。この登場人物たちは観る方の人生のどの瞬間にもいる人間であるというふうに思っています。俳優の皆さんには生々しく舞台上を生きていただきたいと思っています。また、希望や再生を感じるラストシーンにしたいと思って作っていますが、それを具体的に表現しないことがこの作品の生命線かなと思います。これでもう明日から生きていけるというようなことではなく、喜びのような悲しみや痛みのような、言葉の向こう側にあるものを、優しく手渡せたらなと。舞台では登場人物がものすごい分量をしゃべりますが、最後に残るのはその言葉の向こう側にあるものだと思うので。お客様に幸せな問いかけができたらなと思います」

再生の物語は数々ある。その中でも今回の「ラビット・ホール」は、とても真に迫るものになりそうである。ありふれた日常の中で見い出す、小さくてわかりにくいけれども確かにある希望。私たちに手の届く光がそこにある。

「ラビット・ホール」出演者。左からシルビア・グラブ、山﨑光、阿部顕嵐、土井ケイト、成河、宮澤エマ。

「ラビット・ホール」出演者。左からシルビア・グラブ、山﨑光、阿部顕嵐、土井ケイト、成河、宮澤エマ。

プロフィール

藤田俊太郎(フジタシュンタロウ)

1980年、秋田県生まれ。演出家。2005年、東京藝術大学美術学部先端芸術表現科卒業。在学中の2004年、ニナガワ・スタジオに入る。演出作にミュージカル「ザ・ビューティフル・ゲーム」、「美女音楽劇『人魚姫』」、ミュージカル「手紙」、ミュージカル「ジャージー・ボーイズ」、「sound theaterVI」「sound theaterⅦ」「Take Me Out」「ダニーと紺碧の海」「ミュージカル「ジャージー・ボーイズ」 イン コンサート」、ミュージカル「ピーターパン」、「LOVE LETTERS」、ミュージカル「VIOLET」(英国版 / 日本版)、「絢爛豪華 祝祭音楽劇『天保十二年のシェイクスピア』」、ミュージカル「NINE」、「東京ゴッドファーザーズ」「ミネオラ・ツインズ」「Sound Theater2023」などがある。読売演劇大賞第22回優秀演出家賞・杉村春子賞、第24回最優秀作品賞・優秀演出家賞、第28回優秀作品賞・最優秀演出家賞、第42回菊田一夫演劇賞、第42回松尾芸能賞優秀賞受賞。

宮澤エマ(ミヤザワエマ)

東京都出身。女優倶楽部では部長を務める。2013年、「メリリー・ウィー・ロール・アロング~それでも僕らは前へ進む~」に出演以降、ミュージカルを中心に舞台で活躍。近作にミュージカル「PIPPIN」、Amazon Originalドラマ「誰かが、見ている」、「女の一生」、NHK連続テレビ小説「おちょやん」、ミュージカル「ウェイトレス」、シス・カンパニー公演「日本の歴史」再演、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、関西テレビ「罠の戦争」など。4月よりNHK連続テレビ小説「らんまん」に出演。

成河(ソンハ)

1981年、東京都生まれ。大学時代に演劇を始める。平成20年度文化庁芸術祭演劇部門新人賞、第18回読売演劇大賞・優秀男優賞、2022年末に第57回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。近年の主な出演舞台に劇団☆新感線「髑髏城の七人」Season花、ミュージカル「エリザベート」、「子午線の祀り」、ミュージカル「スリル・ミー」、「森 フォレ」「冒険者たち」「導かれるように間違う」、ミュージカル「COLOR」、「建築家とアッシリア皇帝」、木ノ下歌舞伎「桜姫東文章」など。映像ではNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、映画「長ぐつをはいたネコと9つの命」(吹替出演)。