森山開次演出「ラ・ボエーム」稽古場レポート&キャストが語る新制作の楽しみ

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」が9月から11月にかけて東京・宮城・京都・兵庫・熊本・石川・神奈川にて上演される。全国共同制作オペラは、全国の劇場・音楽堂、芸術団体などが、文化庁の助成を得て、高いレベルのオペラを新演出で制作するプロジェクト。2024年度は井上道義の指揮、森山開次の演出・振付・美術・衣裳によりプッチーニの代表作の1つ「ラ・ボエーム」が上演される。なお本公演は、2024年度末に引退を表明している井上にとって“最後のオペラ”となり、井上と森山にとっては2019年の「ドン・ジョヴァンニ」以来の、オペラでのタッグとなる。

ステージナタリーでは9月上旬、東京都内で行われた稽古の様子をレポート。またミミ役をルザン・マンタシャンとWキャストで演じる中川郁文、ロドルフォ役の工藤和真、マルチェッロ役の池内響に、稽古の様子や役に対する思いを聞いた。

取材・文 / 熊井玲撮影 / 藤田亜弓

井上道義と森山開次が本作に懸ける思い

2009年にスタートした全国共同制作オペラでは、2021年度は岡田利規、2022年度は上田久美子、2023年度は野村萬斎というように、これまでも多彩な演出家がオペラに新風を吹き込んできた。2024年度の演出を担うのは、ダンサー・振付家・演出家の森山開次。森山と本作の指揮者・井上道義は、2019年にオペラ「ドン・ジョヴァンニ」で最初に協働しており、今回が3度目の顔合わせとなる。

森山開次©︎Sadato Ishizuka

森山開次©︎Sadato Ishizuka

公演に向けて4月、本作の記者発表会が行われ、井上と森山のほかキャスト数名が登壇した(参照:「“感無量”という言葉を使いたい」井上道義が現役最後の新制作オペラ 歌劇「ラ・ボエーム」へ思い語る)。冒頭で井上は「こういうとき、感無量っていう言葉を使うんでしょうけど、僕も今回、その言葉を使いたい」とあいさつ。続けて「60年前、中学生のときに“自分はどう生きていったら良いのかな”と考え始め、そこからいろいろなことがあって……。僕はもともと、音楽家になりたくて指揮者になったわけではなく、舞台で一生を終えたいと思っていました。世の中は虚偽に満ちているから、それなら思い切り嘘ついてやろうと(笑)。ですから今回、おもいっきり素晴らしい“嘘”を舞台で作ることができ、こんなにうれしいことはないです」と思いを語った。「ラ・ボエーム」を最後のオペラに選んだことについては、「青春に戻りたい、という単なる憧れですよ(笑)」と冗談めかしつつ「今回はなるべく自分に正直にやりたいと思って。であれば、日本語かイタリア語のオペラが良いなと思い、『ラ・ボエーム』にしました」と作品への思いを語った。

井上道義©︎Yuriko Takagi

井上道義©︎Yuriko Takagi

一方、森山は「僕は舞踊家なので、『ラ・ボエーム』がオペラの方たちにとってどれだけ大きな意味を持つか想像ができないところがありますが、大きな作品であるということだけは、ひしひしと伝わってきます」と言い、「ではなぜ『ラ・ボエーム』はこんなにも大事にされているのか……もちろん、どのシーンも素晴らしく美しい音楽が奏でられるのですが、この作品には屋根裏部屋で暮らす若き芸術家たちが、いろいろな夢と共に愛の言葉を語る、そこに美しさがあるのではないかと思います。危うくも熱い言葉たちを載せた『ラ・ボエーム』の音楽が僕の中にはとても美しく響いていますので、この作品が持つ言葉と音楽をしっかり届けたいです」と意気込みを語った。また森山は、会見時に演出について2つ具体的なポイントを語っており、まずは身体表現について「今回4人のダンサーに出演してもらいますが、単なるダンスということではなく、皆さんが持っている身体性をしっかり届けていきたい。ダンサーも『ラ・ボエーム』の芸術家たちの一員に加えさせていただけたら」と話す。またもう1つのポイントとして、「視点を観客の皆さんに与えたい、ということです」と言い、「逆からの視点、お客様の視点、作る側の視点……などいろいろな視点が考えられますが、そこに1つ、“日本人から見たパリ”という視点を加えたく、その1人として、渡仏した日本人画家の藤田嗣治の視点を画家のマルチェッロに掛け合わせてみたいと思っています」と構想を語った。稽古が本格始動したのは、この会見から4カ月半後となる。

いよいよ稽古が本格始動、活気に満ちたやり取りが展開

9月上旬に「ラ・ボエーム」の稽古場を訪れた。中に入るとちょうど1幕の通しが終わったところで、休憩中のキャストが和やかに談笑を繰り広げていた。稽古場いっぱいにアクティングスペースを取っているため、休憩できるスペースも限られ、キャストやスタッフの距離も自然と近くなる。そのせいか、終始にぎやかな笑い声が聞こえてきて、カンパニーの温かな雰囲気が早くも伝わってきた。

取材に訪れた日は、海外キャストが合流して二日目の稽古。今年1月に英国ロイヤルオペラで同役を演じたばかりの、ミミ役ルザン・マンタシャン(中川郁文とWキャスト)、ムゼッタ役のイローナ・レヴォルスカヤらに全体の流れや動きを共有しながら稽古が進められた。なおその日は演出が中心の稽古だったため、指揮の井上道義はお休みで、森山を中心に複数のスタッフが連携し合い、稽古が進められた。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。

休憩後は1幕の稽古からスタート。アクティングエリアの上手には粗末なストーブと質素なテーブル、下手にはモーセの紅海を描いた大きなキャンバスが置かれ、稽古場には質素な屋根裏部屋の一室が出来上がった。若き芸術家たちが暮らすその部屋には詩人のロドルフォ(工藤和真)、画家のマルチェッロ(池内響)、哲学者のコッリーネ(杉尾真吾)がいて、3人はあまりの寒さにストーブの前で身を寄せ合っている。とそこへ、仕事が見つかった音楽家のショナール(ヴィタリ・ユシュマノフ)が意気揚々と帰って来た。ショナールが纏う“陽”の空気に乗って、ダンサーたちも燃料や食料を掲げて部屋に入ってくる。ショナールが紙幣や金貨をばら撒き、「フランス銀行は君たちのせいで」と4人が高らかに歌い上げると、待ってましたとばかりに家主のベノア(晴雅彦)が現れ、滞納した家賃を取り立てに来る。すると4人は、チームワークでベノアを煙に巻き、部屋から追い出してしまうのだった。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から池内響演じるマルチェッロ、杉尾真吾演じるコッリーネ、工藤和真演じるロドルフォ、ヴィタリ・ユシュマノフ演じるショナール。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から池内響演じるマルチェッロ、杉尾真吾演じるコッリーネ、工藤和真演じるロドルフォ、ヴィタリ・ユシュマノフ演じるショナール。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から晴雅彦演じるベノア、池内響演じるマルチェッロ、杉尾真吾演じるコッリーネ、ヴィタリ・ユシュマノフ演じるショナール、工藤和真演じるロドルフォ。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から晴雅彦演じるベノア、池内響演じるマルチェッロ、杉尾真吾演じるコッリーネ、ヴィタリ・ユシュマノフ演じるショナール、工藤和真演じるロドルフォ。

貧しさに不平を溢しつつも、芸術家たち4人がどこかのんきに見えるのは、彼らが若いからなのか、芸術への思いが激っているからなのか、それともボヘミアンという共通点があるからなのか。実直で感性豊かなロドルフォ、人間味あふれるマルチェッロ、冷静さと情熱を併せ持つコッリーネ、希望に胸膨らませるショナールを、工藤、池内、杉尾、ユシュマノフは生き生きと演じる。そして4人のチームワークが演技のうえだけではないことは、演出家の言葉を具現化していく際に、4人がそれぞれ意見を出し合って一緒に検討している様子からもよく伝わってきた。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から工藤和真演じるロドルフォ、中川郁文演じるミミ。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から工藤和真演じるロドルフォ、中川郁文演じるミミ。

そうしてベノアを部屋から追い出すと、ロドルフォ以外の3人はショナールが持ってきた金を手に、クリスマスの街へと繰り出していく。残ったロドルフォが1人原稿を書いていると、戸口をノックする音が。隣室に住むお針子のミミが火を借りに来たのだ。ミミを演じる中川郁文は、可憐さと儚さを滲ませるような澄んだ歌声で登場。そして暗闇の中、落とした鍵を2人で探すうちに、ロドルフォとミミの距離は一気に縮まる。工藤はアリア「冷たい手を」を情熱的に歌い上げ、中川は「私の名はミミ」を伸びやかに披露。特に印象的だったのは、戸口で出会ったときは緊張しているようなぎこちなさがあった2人が、声を重ねるうちにみるみると柔らかな空気をまとい始めたことで、2人の声を聴いているだけで、恋の始まりが伝わってきた。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から中川郁文演じるミミ、工藤和真演じるロドルフォ。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から中川郁文演じるミミ、工藤和真演じるロドルフォ。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から中川郁文演じるミミ、工藤和真演じるロドルフォ。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から中川郁文演じるミミ、工藤和真演じるロドルフォ。

1幕の通しが終わると、森山はまず「ありがとうございます!」と拍手でキャストを称え、続けてキャストの側へ近づき、動線の確認や登場人物の心情、仕草について、細かな調整を加えていく。例えばベノアを追い出そうとするシーンで、「椅子を掲げる仕草にあまりに強さが出てしまうと、本気で危害を加えようとしているように見えて、動きの意味合いが変わってしまう。ここでは冗談っぽく椅子を持ち上げることにしてはどうでしょう」と森山が提案し、そのシーンに出ているキャスト全員で、どうすれば自然に見えるかを即座に試し、検証した。また動きの面と同時に音楽的な側面でも、演出助手がそれぞれのキャストにアドバイスを加え、キャストは小さな声で歌いながら同時に動きを確認していった。その日はまだ稽古序盤ということもあり、シーンを通す時間以上に調整と検証、確認の時間がかかったが、稽古場の空気は終始和やかで、誰かのふとした動きや発見に時折笑いが起きつつ、粛々と稽古が進んでいった。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。

2人のミミが見せる、2通りの魅力

再び休憩を挟み、今度は3幕の稽古が始まった。3幕は、マルチェッロと恋人のムゼッタが雇われている居酒屋のシーンからスタート。店の前で絵を描いているマルチェッロの周りにはダンサーたちがいて、風なのか、それとも彼の絵筆の軌跡なのか、軽やかな動きを見せる。そこへ咳き込みながらミミが登場。ロドルフォが冷たい態度を取ることに悩んだミミは、マルチェッロに相談に来たのだ。……と、そのときロドルフォが店から出てきて、ミミが物陰にいるとも知らず、マルチェッロにミミが重病であること、貧しい自分では彼女を救えないのでミミと別れたいと思っていることを明かす。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から池内響演じるマルチェッロ、工藤和真演じるロドルフォ。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から池内響演じるマルチェッロ、工藤和真演じるロドルフォ。

稽古ではまず、中川がミミ役を演じた。中川は1幕のときよりも弱々しい様子で咳き込みながら登場し、マルチェッロにすがるように、、ロドルフォへの愛を語る。しかしそんな弱々しい様子でありながら、切々と訴える声には揺るぎない芯があって、それはちょうど、マントから伸びたミミの白い腕が、細いけれども強い力でマルチェッロの腕を掴んでいる必死な様子と重なった。続けて同じシーンを、今度はルザン・マンタシャンのミミで通す。マンタシャンは病身の様子を見せつつも、その内に迸る思いをすべて歌声に乗せたような力強さで、マルチェッロにロドルフォへの愛を訴える。その必死さはミミの一途さそのもので、中川演じるミミとはまた違う魅力を感じさせた。

共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左からルザン・マンタシャン演じるミミ、池内響演じるマルチェッロ。

共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左からルザン・マンタシャン演じるミミ、池内響演じるマルチェッロ。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左からルザン・マンタシャン演じるミミ、工藤和真演じるロドルフォ。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左からルザン・マンタシャン演じるミミ、工藤和真演じるロドルフォ。

お互いを愛していながらも、悲しい現実を前に“別れ”を選択するロドルフォとミミ。そんな彼らとは対照的に、愛憎入り混じった口論を繰り広げ“別れ”に突き進んでいくのはマルチェッロとムゼッタだ。マルチェッロはムゼッタの浮気ぐせが許せず、彼女を咎めるが、ムゼッタもまたマルチェッロを挑発し続けて、2人は激しくぶつかり合う。池内は、仲間といるときの落ち着いた雰囲気とは裏腹に、嫉妬心に駆られるマルチェッロを表情や声の1つひとつを変化させ、細やかな演技で表現。対するムゼッタ役のイローナ・レヴォルスカヤは、鋭く相手を突き放すような激しい言動でムゼッタの魅力を打ち出した。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左からイローナ・レヴォルスカヤ演じるムゼッタ、池内響演じるマルチェッロ。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左からイローナ・レヴォルスカヤ演じるムゼッタ、池内響演じるマルチェッロ。

2組の恋人はそれぞれ違った様相を見せつつも、「それでは本当におしまいなんだな」と歌声を絡ませながら、同じ結末に向かっていく。4人の声が大きなうねりを見せた3幕のラストに、稽古場にいた全員が思わず拍手。森山も拍手でキャストを称え、笑顔を見せた。ただ、“良かったからこそ”さらに森山のイメージが膨らんだようで、「最後の、歌のミックスで動きにもミックス感が出るようにしたいです」と、2組の恋人の関係性が交錯する動きに、再び調整を加えた。ふと森山の演出席に目をやると、誰よりも使い込まれて少し膨れ上がった様子の、分厚いスコアが置かれていた。しかし、あの分厚いスコアに書かれた情報以上の“アイデアの原石”が森山の頭の中にはあって、それを今、稽古場でみんなで磨いているのだ……そう思うと、稽古は果てしない宝石採掘のようにも感じられる。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子、森山開次。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子、森山開次。

森山開次の使い込まれたスコア。

森山開次の使い込まれたスコア。

それにしてもこの「ラ・ボエーム」カンパニーは、なんとポジティブな空気に包まれていることか。俳優たちによれば、それは指揮の井上道義や森山の創作姿勢によるところが大きいようだが、作品へのリスペクトを大前提として、演出家のアイデアをスタッフとキャストが一緒になって膨らませたり、休憩時間には俳優やダンサー、スタッフも言葉を交わし関係性を築いたりと、それぞれが本作を全員で面白いものにしようと真摯に取り組んでいる。このような環境から生まれる「ラ・ボエーム」が、刺激と挑戦に満ちた作品になることは間違いないだろう。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から工藤和真演じるロドルフォ、ルザン・マンタシャン演じるミミ、演出助手の奥村啓吾、森山開次。

全国共同制作オペラ「ラ・ボエーム」稽古の様子。左から工藤和真演じるロドルフォ、ルザン・マンタシャン演じるミミ、演出助手の奥村啓吾、森山開次。