日本のピアニストを通して、現代日本の風を吹き込む
──今回の日本公演では、イスラエルさんと共に作品を立ち上げてきたクルボアジェさん、コリー・スマイスさんの渡航が、新型コロナウイルス感染拡大の影響で困難となり、日本人の若手ピアニスト・片山柊さんと増田達斗さんが代役を務めることになりました。それに伴い、演奏やダンスにも変更が生じることになりますね。
このパンデミックの時代に、ストラヴィンスキーの作品は、距離があっても物事を共有し団結すること、そして芸術が生きていることを教えてくれます。なので、誰が演奏し、誰が踊るかということは問題ではなく、重要なのは「春の祭典」を伝え続けるということです。いろいろと困難はありますが、ストラヴィンスキーは生き続けていると感じます。
──確かにそうですね。今回参加する日本のピアニストとは、どんな取り組みをしたいと思われていますか?
楽譜があっても人間は機械ではないし、それぞれ生まれ育った土地の文化的背景も異なります。例えば私が生まれる前からすでに、日本のフラメンコ界の巨匠である小島章司師匠は、セビリアのタブラオ(フラメンコ・バル)で踊っていましたから。今、私と日本をつないでくれているのは、“フラメンコの日本人ミュージシャン”ではなく“ストラヴィンスキーを演奏するピアニスト”だと捉えています。そして今回、日本人の演奏家が加わってくれることは、とても魅力的なことだなと思っています。というのも、作品の中に現代の日本の文化を取り入れることができるからです。さらにこの作品を通して、日本とスペインの間に、音楽的な対話が成立するのも面白いなと思います。
──リハーサルはどのように進めていく予定ですか?
リハーサルではまず彼らの音楽に親しみ、理解し、対話したいと思っています。その過程で、即興的なものや自由な表現が生まれてくると思うので、観客の皆さんは今回新たに生まれたものをご覧になる、ということになると思います。それは温泉に浸かるようなもので……というのも、日本では温泉に入ることを、単に身体に洗うためだけでなくある種の儀式として行っている部分があると思うんですね。つまり温泉に入ると身体だけがクリーンな状態になるのではなく、スピリットも正常な状態になると。それと同様に、私は今回、日本の音楽家たちの演奏に浸り、つながることで、自分の踊りを発見することになるのではないかと思います。
──即興性を取り入れるというのは意外でした。これまで日本で上演されてきたソロ作品では、即興的な要素があまりありませんでしたよね?
そうですね。これまで長いキャリアの中では、フィックスした振りで踊る機会が多かったのですが、今は新しい動きや新しいことに目を向けています。今回初めてご一緒する日本のピアニストたちとは、「春の祭典」を通じて、アートという言語を介し、お互いに意見交換したり対話したりすることができると思うので、ある意味、一緒に旅をするような感じで作っていきたいなと思います。さらに作品を通じて観客ともつながることで、ファミリーのような一体感が生まれれば良いなと思います。
コロナ禍で感じた、観客と場の重要性
──イスラエルさんの「春の祭典」は2019年にスイスのローザンヌで初演され、その後フランス・パリでの公演を最後に、コロナによって上演ができなくなっていました。イスラエルさんは現在の状況をどのように考え、ダンスと向き合っていますか?
部屋に閉じこもって踊っているときに、観客と会話したり、場を共有することがやはり踊りにとって必要だ、と感じました。踊ることはギフトだと思っていますし、人と接することの大切さも実感しています。映像技術は人類や芸術の進化にとって良いことですが、人間は最終的に、祝祭の場に行って踊ったり、セレモニーの感覚に身を浸すことを必要とするのではないかと思います。
──コロナ禍で製作された映像作品「Maestro de Barra」では、屋外やカフェなど、街の中にある音に共鳴していく身体が捉えられ、そこにイスラエルさんのフラメンコと音楽の真髄を見たように感じました。
あの作品のコンセプトは、踊り続けること。劇場が閉ざされた状況でもダンスを踊り続けることでした。新しい空間で踊ることは、観客の身体感覚や空間感覚も変化させ、環境音さえも違った響き方に聞こえてくるものです。そもそもフラメンコは、みんなが顔見知りの地元のバルで踊られていたもの。そういった伝統が、フラメンコの個性として感じられるのではないかと思います。
フラメンコという伝統に、命を吹き込む存在として
──イスラエルさんは家族全員がダンサーという環境で育ち、伝統的なフラメンコの世界で頂点を極められたのち、早い段階で伝統的なフラメンコの形式や理念を覆す、数々の実験的な作品を創作して来ました。ご自身の創作を始めることになった転機はあったのでしょうか?
1998年に開催されたセビリアの「ビエナル・デ・フラメンコ」で、ディレクターのマヌエル・エレーラさんが私に自由に踊る機会を与えてくれました。私はそれまでフラメンコの賞をいくつか受賞しており、大会で勝つためにうまく踊ろう、観客や批評家に向けて踊ろうと思っていたのですが、そのときに初めて、自分の身体言語を観客と共有したいと思い、それを探求するようになって今に至ります。
──2016年に来日された際は、伝統的なフラメンコ界の方やご家族から、ご自身の作品に対する理解を得るのが難しいとおっしゃっていました。しかしその後、世界中の芸術祭で公演したり、闘牛場で凱旋公演を行ったりするなど、活躍の場をさらに広げていて、イスラエルさんを取り巻く状況が変わってきたのではないかと思います。これまで20年の歩みについて、ご自身はどのように感じていらっしゃいますか?
2018年に行ったセビリアのマエストランサ闘牛場でのパフォーマンスでは、6つのダンスをソロで踊ったのですが、それまで感じたことがない強さを感じました。少年時代に両親とタブラオで踊っていた子供が、大人になって闘牛場にやって来たような感覚を覚えたんです。自由な表現を突き詰めて来た結果、まさか自分が闘牛場で踊ることになるとは想像もしていませんでしたが、最終的には伝統とつながり、渾身の力で踊ることになったんです。この体験を通して、自分自身に正直に踊るということを知り、それは最高のご褒美だと思いました。
──改めて、イスラエルさんにとってフラメンコとはどんな存在ですか?
一緒に仕事していたインド人のパーカッショニストが、私のことをよく“FLA”と呼んでいたんですね。その人によると、「あなたはリズムの中で、とても自由だから」と。フラメンコはアフリカ・アラブ・インドなどの踊りと親和性が高く、フランケンシュタインのようにつぎはぎで構成されています。フランケンシュタインは生命がない存在ですが、電気を通すとそこに生命が宿りますよね。それと同様に、フラメンコのアーティストたちは、ダンサーにしろ、シンガーやミュージシャンにしろ、フラメンコに電気……つまり命を吹き込む存在だと思っていて。フラメンコはあらゆる芸術を糧にして生き続ける、ウイルスのようなものだと思います。そのうえで今回、遠い地である日本に旅すること、そこで踊ることは、最初にお話しした通りギフトだと思いますし、それは少し不思議な思いもしますが、願わくばこれからも踊り続けて、スペインと日本の架け橋で在り続けられたら、と思います。