inseparable「変半身(かわりみ)」麿赤兒×松井周 対談│言葉は身体を裏切る、身体は言葉を裏切る

動かしているのではなく、動いているだけではないか

──ここまで人間の内面についてお話いただきましたが、身体についても伺いたいです。松井さんはサンプル立ち上げ当初、よく身体の捉え方を“ゾンビ的”と表現されていました。

松井 そうですね。そもそも人間は、そんなに深く考えて1つひとつの動作をしているわけではないと思っていて。昔観たあるゾンビ映画で、ゾンビたちがショッピングセンターに行き、何も商品をつかんだりはできないんだけど、カゴに商品を入れる仕草をしたり、意味なくエスカレーターに乗ったり降りたりするシーンがあったんです。それと同じで、実は人間が自分の意志で身体を動かして“動作”しているのではなく、なんだかもっとよくわからないもの……例えば人間の欲望がそのまま表に出ちゃった結果、日常の動作がただ繰り返されている、癖みたいなものじゃないかと思ったんです。そう捉えると人間ってかわいいし、自我とか意志という考えからもっと楽になれるんじゃないかと思っていて。

麿 肉体論として、それは面白いんじゃないかな。ある振りを踊るとして、「なぜ今、手を上げるのか」を考えることが踊りだったりするんだよね。あるいは、物を取るときに手を使うって誰が決めたのか、とか。つまり、人間は習慣という踊りを踊っていると考えることができるし、振りには仕草の片鱗がある。僕の踊りはそこから始まっていますね。例えばあるものを取ろうとして手を伸ばすのも、ある“ウイルス”による習慣というか(笑)。ウイルスによってやらされていることなのではないかと思うんだよね。

松井 やるのではなく、やらされている、ということですよね。

松井周

麿 そう、だから全部フィクションだろうと。

松井 例えば“物をつかむ”という動作は、人間が自分の意思でやっているのではなく、ある環境の中で進化してきた、指や肘など身体のいろんなパーツが物をつかむのに一番やりやすい動かし方をただ繰り返しているだけ。つまりそれが総じて“習慣”なのではないかと思うんです。その意味で、麿さんのアプローチは非常に面白いです。

麿 まあゾンビも空っぽといえば空っぽで、ただ習慣という形骸だけが身体に残っていて、インプットされた経験だけで動いているわけですからね。

窮屈な枠組みから解放できれば(松井)

──今回松井さんはサンプルとは別の活動として、作家の村田沙耶香さんとのユニット・inseparableを立ち上げられました。始動から約2年半、神津島、台湾の緑島、三重の神島などで取材を行ったほか、2018年1月には兵庫・城崎国際アートセンターにてリーディング試演(参照:松井周&村田沙耶香の初共作をリーディング試演「思い描いた島の風景が見えた」)もされましたね。そこで生まれた作品の“土台”をベースに、村田さんは小説版「変半身」を、松井さんは舞台版「変半身」を発表されます。

松井 2017年に村田沙耶香さんと僕の劇団で作っている雑誌「サンプル」で対談する機会があって、自分の中ではドッペルゲンガーに出会うような体験だったんです。僕は「人間の偽物を作りたい」と思っていますが、村田さんの小説にも人間の偽物とか、あるいは「人間ってこうやって生きていくのかな」ということを学習しようとして失敗している人たちがたくさん出てくる。その感覚がすごく似ているな、村田さんて本当に変な人だなと思ったんです。それで一緒に“偽物の儀式”を作ろうということになったのですが、一緒に取材を重ねるうちに、架空の島を舞台にした架空の祭の話にしましょうということになり、村田さんは小説、僕は演劇を作ることになって。結果、すごくパラレルワールド的になりました。3Dメガネで普通の世界を見ると赤と青がちょっとずれて見えると思うんですけど、あんな感じで小説版と舞台版を重ねると気持ち悪い世界が立ち上がる感じになっています(笑)。

──舞台版では、“海のもん”“山のもん”の対立が描かれ、また奇祭や神様といったワードが飛び出します。

松井 村田さんと話す中で、海と山では違う文化があるだろうということでそのような設定が生まれてきました。

麿赤兒

麿 海彦山彦じゃないけど、当然生活の習慣みたいなものが全部違うだろうしね。精神分析的に言うと、海に行くと躁鬱の躁が少し弱まるらしく、逆に山に行くと鬱の人が躁になるらしいよ。

松井 そうなんですか! 確かに山はそういうところがありますね。

麿 そうやって人間は少しずつ進化というか、自身の作った環境に応じて自分自身を変えていっているのではないかというのはありますね。ただ爬虫類なんてもっと速いスピードで自然環境に対応しますよね。餌がなくなれば、自分が小さくなるとか。

松井 確かに進化ってその場その場に適応するような感じで、そんなに計画的に考えられてるわけではない部分があるなと思います。

麿 だからある意味、環境に適応していく爬虫類とか魚類などのような地球上の古い生物のほうが人間より偉いと思ったりするわけだ(笑)。人間は自分たちで作った環境なのに文句ばかり言ってて、ちょっと幸福度が低いとも言えるね。

松井 性別を自在に変えられる魚っていますよね。例えば女が多くなってきたから一部が変わって男になるとか。人間じゃ考えられないですけど、すごいなって。

麿 「ウイルス」(2012年)を作ったときは、そういう本を一生懸命読んだね。ということを、あなたは今回、「変半身」で考えようとしているわけでしょ。

松井 そうですね。倫理的な問題はあると思うんですけど、人間がそうやって環境に適応していったら面白いかもなってやっぱり思いますし、逆に「男はこうでなければいけない、女はこうでなければいけない」という枠に閉じ込められて人間は窮屈になっている部分がたくさんあると思うので、その枠組みを、せめてフィクションを観ている間は脱げればいいんじゃないかなと。

麿 昔、唐(十郎)の芝居で、“俺の体は義手義足、義心、義脳に義歯、義糞。”って俺の持ち歌があって……。

松井 「少女仮面」ですね。その歌詞、すごくよく覚えています! 生で聴けるなんて感動しました(笑)。

麿 そのときはよくわからなかったけど、今まさに自分が“義心義脳に義歯”でサイボーグ化していってるなって。“おまけにチンポも義コーガン”ってあたりもさ(笑)。今から40・50年くらい前だから当時はサイボーグなんてまだ言われてない時代だったけど、改めてすごいなって、あいつ(唐)の才能を見直したりして。

左から松井周、麿赤兒。

松井 確かに義眼や義足に誰かの記憶が残っているって、今のテクノロジーで考えるとすごくフィットしていると思います。

麿 今はリアルだよね。ハリウッド映画はまさにそういうことを一生懸命取り入れて作ってますけど。

松井 近年のハリウッド映画はすべてがCGで、もう俳優が必要なのかどうか、というところまでいきそうですね。

麿 それこそAIの美空ひばりもできたしね。「まだちょっと本物っぽくはないな、機械だな」と思ったりするけど(笑)、美空ひばりファンは歌声を聴いて泣いているんだから面白いよね。それと、さっきの祭の話につながるんだけど、インドのヨーニ(女性器)とリンガ(男性器)では、坊さんが修行の一環として、とにかく一生懸命、石に女陰を彫っているらしいんだよ。意外と図式的で、リアルじゃないんだけど(笑)。

松井 修行なんですか! 面白いですね。

麿 でもそういったことを、民俗学的に解釈したくないんだよね。解釈するとつまらない、わかってしまったような感じになるから。その点、あなたの作品では解釈を裏切ろうとする展開で、そこが面白いんじゃないですかね。

松井 読み込んでくださってありがとうございます!

松井周
麿赤兒

言葉と身体の結びつきを再確認する

──麿さんは現在、種田山頭火をモチーフにした新作「のたれ●」の稽古中です。2018年に麿さんは、第1回種田山頭火賞を受賞されました。

麿 (種田山頭火賞の選考委員でもある)作家の嵐山光三郎に言われて、公演することになって。「今の僕の流れと少し違うんだよな……」と思いながら取り組み始めたら、結局山頭火という個から類を覗き見るようなことになりました。いっぱい、山頭火“もどき”が出てくるんです。お客さんはそれぞれ山頭火のことを知ってるでしょうから「あれは山頭火じゃない」と思うかもしれませんが、当たり前です。うちの役者ですから(笑)。そんなふうに逃げ道をいっぱい作りながら、でも彼の生き様の1つひとつを描いてみようと。

松井 もどきって面白いですね。

麿 その点で言葉は強いですよね。一言「これは山頭火だ」と言えば山頭火になるわけですから。ただ言葉は共同体の中でのコンセンサスが必要なんだよね。

松井 そういう意味では、踊りのほうが強いのではないでしょうか。

麿 まあ「言説不可能、肉体可能」って自分で標語を作ってるんだけど、いくら説明してもわからないものはわからないし、でも身体がただ立ってるだけでわかってしまうものもある。身体があればいかようにも見ることができてしまう部分はありますね。

松井 最近、SNSなどを通じて、誰でも言葉だけで情報を伝え合って、その情報で頭でっかちになっている状態があると思うんです。しかもその情報には嘘もいっぱい含まれているはずなのに、字面だけが本当になってしまっている気がするんですね。その一方で、踊りや演劇などのパフォーミングアーツでは、例えば身体が言葉を裏切ったり、言葉が身体を裏切ったりすることがよくあると思うんです。舞台を通して、そういった言葉と身体の関係をもう一度体験する、再確認することができたらなって。

麿 そうだね。僕らが踊りを作るときはほとんど(イメージを)言葉で伝えるんだけど、面倒臭くなると(紙をぐちゃぐちゃに丸めてポンっと床に投げる仕草をして)「こういう踊りだよ」って伝えることがあって。

松井 ああ、僕も結局、そういうことになります。役の感情とかを説明したりはしないですね。

麿 しかもそれでちゃんと伝わるんだよね。

松井 今度その伝え方、やってみよう(笑)。ああ、もうこのまま麿さんと飲みに行きたいです!

左から松井周、麿赤兒。