能や「ジゼル」、「サロメ」と現在の問いを結び付ける
相馬 “STILL ALIVE”に対するアプローチについて、「あいち2022」の片岡真実芸術監督がいくつかの筋道を作ってくれていて(参照:コンセプト | 国際芸術祭「あいち2022」)、私たちキュレーターはその筋道に則って企画を考えていきました。その1つが、過去の物語を再利用して、地域や現在のことを問い直すということです。その補助線に従って、過去に上演された歴史的なパフォーマンスや人類共通の財産と言えるような過去の物語……つまり「ジゼル」や「サロメ」、お能などからいかにドラマツルギーを紡ぎ出して、自分の現在の問いと結び付けるかということを、皆さん創意工夫なさっているのではないかと思います。先ほど今井さんは、お能のドラマツルギーについて、死者があの世からやって来て言いたいことを言って去っていくという、ある意味絶対に消化できない思いを消化するための儀式のようなものとおっしゃいましたが、そういったドラマツルギーを、今井さんは音楽という抽象的なものを使って、どのように表現されるのでしょうか?
今井 今回、3人の演奏家たちに演奏してほしいという思いがあり、彼女たちは本当に1人ひとり個性的な表現者なので、彼女たちの個性をパッと出してもらえるもの、彼女たちにとってチャレンジになるようなものということを意識して音楽を考えました。例えばお能の謡の節回しをソプラノ歌手が生かすとしたらどうなるのかなとか、能面のビジュアルとソプラノ歌手のデュオという感じにしようとか。先に述べたように、今回手がける「シネクドキズム 3 by music,photography and visual art」では自身の新旧6作品を上演しますが、その内の1つには、照明を変えながら1つの能面に対して何枚も写真撮影し、それを素材として制作した映像をプロジェクションすることで、まるで能面の表情が変わるように、例えばみすぼらしく見える状態から美しい女性へと変化する様を見せていくシーンがあります。その変化のタイミングを、私の音楽に合わせて考えたシナリオをベースに作っていて、作品のイメージを増幅するような映像となっています。なので、小野小町について触れましたが、彼女の生涯を物語として描いたというよりは、むしろビジュアル的なものとコラボレートしたときにバックに入ってしまいがちな音楽をどう生かすか、目から受け取るものと耳から受けるものの時差をどうカバーして、情報量をいかにバランス良く出していくかにチャレンジし、インターディシプリナリー的な表現を意識して制作に臨みました。
相馬 今回の「あいち2022」では、音楽がパフォーミングアーツ部門に入っていることが特徴的だなと思います。私はあらゆるものからナラティブを汲み取るのが仕事なので、その感度は鍛えられているんですが、先日のスティーヴ・ライヒのコンサート(参照:スティーヴ・ライヒ | 国際芸術祭「あいち2022」)のように、音楽のように抽象度が高いものを経験すると全然違う扉が開く感覚があり刺激を受けました。今回の今井さんの作品についても、お能の物語構造に入っていくというよりは、それをベースに立ち上がっていく空間を体験する作品になるということで、非常に楽しみです。それに対して、「ジゼル」と「サロメ」は物語をガッツリとベースにしていますね。特に「ジゼル」は、現代のフェミニズム的な目線で見ると男性に都合の良すぎる話だなあと思いますが(笑)、それを中村さんは見事に脱臼するチャレンジをされています。そもそもなぜ「ジゼル」を取り上げることにしたのでしょう?
中村 私は物語からダンスを作るのが好きで、例えばこれまでに松本清張「顔」や向田邦子「阿修羅のごとく」などをダンスにしてきました。物語に共感して踊りにしてみようという流れが多いのですが、松本清張や向田邦子が生きていた時代は、まだ想像ができる範囲で、それよりももうちょっとわからない世代、自分とは遠く想像がつかない時代のものに挑戦したいと思っていたときに、「ジゼル」があるな、と。バレエは3歳からやっているので刷り込まれたものがあり(笑)、また女性が怒り狂う物語が好きというところもあったので「ジゼル」をやってみようと思いました。
また私は普段、身近なところから構想を考えていくので、例えばあるシーンでアデルの「Take It All」を使っているんですけど、ジゼルがアルブレヒトに裏切られたあとカラオケに行くとしたら、熱唱するのはあの曲だなと思って(笑)。「全部あげる」「でも絶対振り返らないで」って、その思いは歌うことでしか解消できないだろうなと感じたんです。ヴァージニア・ウルフの言葉も本作のヒントになっていて、彼女自身は最終的に自殺してしまいますが、夫に書き遺した手紙の中で「自分は頭がおかしくなってきてもう死ぬんだけど、あなたが一緒にいてくれたことが私の最高の幸せでした」と言っているんですね。その言葉が、ジゼルがアルブレヒトに遺す言葉につながるような気がしたんです。自分がされたことは絶対に許せないんだけど、ジゼルのプライドやアルブレヒトに対するある種の当てつけと純粋な感謝として、自分の幸せはあなたといたときの楽しかった記憶だと言うんじゃないかと思うし、そんな言葉を受け取ったらアルブレヒトはどんなに死にそうになっても死ねないんじゃないかなと。そのように、どれだけ物語を自分に引っ張ってこられるかを「ジゼル」で挑戦しました。
相馬 「サロメ」については、百瀬さんはどういうところから着想が?
百瀬 実はこの作品は物語から着想したわけではなく、モーションキャプチャーという形式が気になっていて、そこから発想した作品でした。モーションキャプチャースーツを着て踊ると、踊る骨組みみたいなデータが生まれるんですが、この踊りの骨組みを元に踊るCGキャラクターと、ダンサーの自己同一性のありかみたいなことが面白いなと思って。あるシーンでダンサーが自分を抱きしめるところがあるんですけど、彼はCGキャラクターそのものを抱きしめることはできないわけで。そこから、見つめてほしかったけど見つめてもらえなかった、という絶望的なすれ違いの状況が生まれる物語を探していたときに「サロメ」を思いついたんです。
実際、「サロメ」って矛盾だらけなのが面白くて、愛しているのに殺してしまうとか、死んでいるのに見つめてほしいとか、その整合性のなさみたいなものがすごく魅力的なんですよね。かつ、サロメが典型的にヒステリックな存在、狂った女として描かれているところがあり、その女性像をどう現代で再解釈していくかということがCGならできるなと思いました。例えばサロメの動きの元が男性ダンサーの動きだったら、サロメは“そういう女性”として男性に欲望されていたことになるのではないか、とか、スクリーンの中でなら、自己同一性がブレ続けている状態でサロメを存在させることができるかもしれないとか。先ほどお話しした通り、今作では最初は男性ダンサーの動きとCGキャラクターの動きが同期しているので、最初はCGが実写の影のようにも見えるんですけど、途中からそれぞれの動きに変わっていって、後半は男性のほうがヨカナーンの“眼差されること”に対する苦悩の動き、CGキャラクターのほうは激情に取り憑かれたようなサロメの動きへと乖離していくんですね。本来サロメの動きの主体だった男性ダンサーの動きが、錯覚によってヨカナーンの動きに見えてくるんです。すると「サロメ」の物語が内側から解体されるというか。元々のオペラ「サロメ」では、お皿の上にヨカナーンの生首が置かれていて、サロメはそれに向かって思いを独白するんですけど、私の映像作品ではお皿は空っぽで、ただ血溜まりみたいなものがある状態になっています。そのように死を宙吊りにした状態にすることで、ヨカナーンももしかしたらサロメの影だったのかもしれないし、サロメとヨカナーンが二重に重なったまま、踊り続ける身体だけが浮遊している状態に見えるのではないかと思っています。
中村 わあ、楽しみ!
今井 以前拝見したときに、サロメの動きはけっこう軽い動きで、そのサラッとした動きからシニカルな印象を受けました。すごく激情的なことが書いてある作品なのに、動きはサラッとしている。さらにCGキャラクターは全身が白くて、サイコティックな感じが強いんですね。片や男性ダンサーの方は土着的なダンスで、その対比がすごくインパクトがありました。
百瀬 色のコントラストは意識しました。CGキャラクターは色が塗られる前のフィギュアのように人工的な白、ダンサーの方は生々しい肌が映える黒を基調としています。
今井 今回の「あいち2022」で展示されている作品にはAIやテクノロジーとの向き合い方ということを共通して感じたのですが、百瀬さんの作品はそこがある意味、壊れている感じがして(笑)。モーションキャプチャーの使われ方にも、あえてその利便性を問うている感じがしました。
アートが“Alive”していくために
相馬 身体という問題について、さらに伺います。コロナの問題は今も続いていて、誰しもが病を内在化しており、自分の病に他者を巻き込んでしまう恐れを抱えながら生きていくという状況が、コロナによって顕在化しました。ただそれを恐れるあまり、これまで当たり前のように行われてきた人間同士の接触はタブーになり、この2・3年は外国との往来もビザがないとできないというような状態が続いていて、でもそんなコロナを契機に作られる社会に、私たち自身が慣らされてしまってきています。その一方で、コロナ禍で今まで見えなくされていたものが見えてきたということもあって、例えば医療従事者の方やデリバリーの人、エッセンシャルワーカーの方たちなど、ケアを提供する人たちの存在が再認識されたと同時に、ケアにまつわる社会的な問題も改めて意識されたのではないかと思います。皆さんはそのような現在の状況を、身体という視点からどのように感じていますか?
中村 個人的なことになってしまいますが、2020年は本当に自分の身体に対する発見がありました。私はそれまであまり即興では動かなくて、きちんと振付を作って練習し込んで舞台に立つ感じだったんです。でもコロナによって公演がなくなると振付を考える機会が減って、踊らなくなったんですね。なので「これから私はどうなるんだろう」と思っていたら、振付がなくても身体が動き出したというか。「ああ、私は振付がないと動けないと思っていたけど、ガラガラの東京駅でやっぱり踊り出したくなるんだ。まだ動きたいんだ」と、自分の意識というより身体の細胞が動き出した感覚があり、そのことに納得させられたところがあるんです。むしろそれまでは、常に「こういう作品を作って、ああいう振付を作って……」と頭をいっぱい使って考えすぎていたけど、1回フラットになって、何もなくなったときに自分に踊りたい気持ちがあるってことを確認できたのは良かったです。
それから、学生とワークショップすることがよくあるんですけれど、以前は相手に触ってどうにか伝えられていたところ、今は触れられないので、会話や目線でのやり取りや振付を通じて伝えることが主になっているんですね。大変さはあるのですが、でも通じたときの喜びはとても大きくて、スキルアップさせてもらっていると感じます。
百瀬 コロナ禍になって私が怖かったのは、コロナにかかること自体より、こういうことによって自分の中の社会規範が書き換えられていって、どんどん新しいルールが身体に刻み込まれていくことでした。今よりコロナについての情報がなかったときはみんな怯えていて、マスクをしていない人を避けたり、接触自体が一気に“悪”とされたり、そういう新しい差別意識が自分の中にも生まれたことも、個別の身体の事情を無視して“いっせーのーせ”で全体主義的な感じで社会規範が変わっていくことも怖かった。そういうときだからこそ、接触を伴う、かつそれが治癒にもなるような作品がやりたいと思い、コロナ禍の真っ最中に「シアターコモンズ’21」で「鍼を打つ」(参照:「シアターコモンズ’21」今回のテーマは“孵化/潜伏するからだ”)というパフォーマンスをやりました。私は問診票を作成したのですが、一般的な「最近頭が痛いですか」というような設問から、普通の問診票にはないような内面に踏み込んでくるような設問もたくさんあるんですね。鍼師の人はその問診票の回答を“解釈”して、実際にお客さんに鍼を打つんです。鍼って面白くて、実際に打った場所と作用する場所が違っていたりするんですよね。つまり私たちは自分の身体を本当には把握できていなくて、でも外部からの侵入によって変わっていくのだと。相馬さんにも体験してもらったのですが、相馬さんは「身体が劇場になる」と表現されていました(笑)。
相馬 私の体験を報告しますと、私としては全身に100箇所くらい鍼が刺さって、全身を血が巡っているような感じを受け、パフォーマンス後、スッキリと同時にぐったりしたんですね。それで鍼師さんに「何本くらい打っていたんですか」と聞いたら「相馬さんには1本しか打っていません」と。それ以外の鍼は皮膚を刺激するために当てているだけだったのに、私は自分の脳内で勝手に経験を作って気持ち良くなってしまっていたんです(笑)。テクノロジーって本当に人間を騙せるんですよね。鍼1本しか刺さっていないのに、全身に鍼が刺さっているように私の知覚や身体感覚は書き換えられちゃったわけなので。それによって勝手に癒やされるという面があると同時に危ない面もある訳です。という点で、先ほどの今井さんのお話にも通じてきますが、テクノロジーとどう向き合うのか、ということが今後私たちが“STILL ALIVE”していくうえで重要になってくると思います。
今井 音楽とテクノロジーの問題は100年も前からずっと続いている事柄だと思うんですね。とりわけコンピューターが1つの部屋くらいに大きかった時代から、手元で操れるようになった現在まで、人間はいろいろな罪を犯してきたと感じますが、百瀬さんもおっしゃっていた通り、一番の罪は、人間の知覚を混乱させたこと。ある意味、脳に刺激を与えなくなったことじゃないかと私は思っていて。私はこれまで電子音楽などさまざまな音楽をやってきましたが、コンピューターってとても複雑なことが容易にできるんですけど、それは誰かがプログラミングしたシステムを使ってコントロールしているという事実を見ると、創造性という点で疑問が残ります。もちろんそのテクノロジーの利点を自分の中に取り込んでクリエイティブにしてしまっている方も見えますが、私はその歪みを埋めることができなかったのと、想像した世界をコントロールしたいタイプなので、そんな私が一番興味があるのは生身の人間が演奏すること、人間そのものです。
また私は愛知を拠点に活動していますが、地域の人と話をしているとよく、「アートで町おこし」という要望が挙がります。そこで求められるのはエンタテインメントな商業施設を作るというような意味合いでのアートで、でも私が思うアートは、ある社会を違う角度から突き、本質的なところに目を向けて作品を生み出すというもの。なので「アートで町おこし」と言われたときには、まずアートとは何かということを相手の方とよく話し合うことにしています。その例1つとっても、日本でアーティストが“STILL ALIVE”していくことの難しさを感じますし、芸術大学で学んだ人たちが卒業後、力を発揮できるような社会、国、世界の作り方をしないといけないと思っています。
百瀬 アートがサービスとして捉えられすぎているのではないかということは私も感じています。芸術ってもっと元々は怖いものだと思うんですよね。ジョン・ケージの何がすごいかって、私たちがあれを音楽として捉える新しい耳、新しい身体を手に入れたことだと思っていて、それは自分が書き換えられてしまうような体験だと思うんです。だからただ受け身で、気持ちの良いシャワーを浴びることだけがアートではない、ということはよく考えます。特にコロナ禍で、世の中に“刺激物”があふれかえり、誰もがNetflix中毒のような状態になっているから、逆に私はいろいろな視覚的刺激を削ぎ落としたくなってしまうというか。いかに自分たちの身体感覚を取り戻すかというようなことを考えています。
今井 そうですね。音楽でも映像でもフェードアウトするとき、デジタルを使うとシュッと直線的に終わっていくんですが、人間が演奏するとカーブを描きながら終わっていく。そのことからも、私は人間のオーガズムにグッと入りこめるのはやっぱり手作業でしかないんじゃないかと思うので人間の知覚にこだわるんですけど、デジタルに慣れていくと、シュッと終わるのが当たり前という感覚に書き換えられてしまうかもしれません。
中村 生身の人間がやることの大切さは、私はものすごく共感します。私の場合はテクノロジーと比較した結果、生身の身体を選んだわけではなく最初から身体から出るものを信じてやってきたのですが、振付を考えながら「これはいけるかどうか」を考えるときに、まず踊ってみて、何か情景が見えてきたら振付としてOK、何も変わらなければそれは体操、と思っているんですね。自分の身体が動いて心の中に起きたことを身体で判断する、その判断基準は誰にも渡さないと思っていて。
またダンスは地域のアート活動の中によく組み込まれ、私自身のキャラクター的にもよく声がかかるのですが(笑)、私としては「ダンスを経験したら、大変な扉を開けちゃうかもよ? 大丈夫?」と思いながら毎回教えています。それは、快楽かもしれないし、もっと身体を知りたいと思ってしまう感覚かもしれませんけど、仕事を辞めちゃおうかなと思うくらい、新しい発見をもたらす、怖いものかもしれない。関わってくれた地域の人からよく「ダンスって意外と大変なんですね」って言われることがあるんですけど、確かにダンスはそんなに簡単にできるものではなく、ある種の代償も伴うし、そのぶん、発見もある。ダンスを介して、そんな怖さと発見をもたらすような人間になりたいなと思っています。
プロフィール
今井智景(イマイチカゲ)
1979年、愛知県生まれ。作曲家。愛知県立芸術大学で学位、アムステルダム音楽院で学士と修士を取得。これまでに湯浅譲二、松井昭彦、ウィム・ヘンドリクス、ファビオ・ニーダーに師事。これまでの主な作品に「Vectorial projection IV」「Masque」「Morphing - state of matter」など。
中村蓉(ナカムラヨウ)
1988年、東京都生まれ。ダンサー、振付家。早稲田大学モダンダンスクラブにてコンテンポラリーダンスを始める。2010年より自身の創作をスタート。これまでの主な作品に「別れの詩」「顔」「理の行方vol.1-6」「ジゼル」、東京二期会ニューウェーブ・オペラ劇場「セルセ」(演出・振付)など。
中村蓉 (@YoNakamura0621) | Twitter
百瀬文(モモセアヤ)
1988年、東京都生まれ。武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業、同大学大学院造形研究美術専攻油絵コース修了。これまでの主な作品に個展「サンプルボイス」「アーティスト・ファイル 2015 隣の部屋─日本と韓国の作家たち」「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」「鍼を打つ」など。