バンドを止めるな
NARGO 谷中さんの歌詞にもあるけど「悲しいことを振り切りたくて 走り続けているだけ」というか、とにかく止めちゃダメなんだという意識がある。
谷中 一番象徴的だったのが1999年に青木達之が亡くなって、そのときのミーティングかな。
NARGO 青木さんが亡くなったのがツアー開始の10日前くらい。最終リハやってるくらいのときだったんですけど。
──キツいですね。
NARGO 全員「うーん……」となって、そのときに緊急ミーティングして、普通だったらツアー全部中止。それが普通じゃないですか。当たり前ですよね、メンバーの1人が亡くなって。
──バンド自体しばらく活動休止になると思います。
NARGO それが普通のバンドだと思うんです。だけど「いや、ダメだ」「今止めちゃダメだ」ってみんなで話して。
谷中 NARGOが強く言ったんだよね。「止めちゃいけないと思います」みたいなことを言い始めて、ドラムがいないのにどうするつもりなんだよって。
──NARGOさんはなぜそう思えたんですか?
NARGO その前にギムラさんが亡くなってたから、その遺志を途絶えさせるわけにいかないというのと、このまま止めちゃったらたぶん急激に失速すると思ったんです、スカパラっていうものが。だから僕はリズムマシン使ってでもなんでもいいから、とにかくツアーをやろうって話した。
谷中 言ってたね。
NARGO どうなるかわからないし、無謀だと言われるだろうけど、だけどバンドの生命を絶たないように。そうしなきゃダメだと思ってました。
──そんな思いに応えて、中村達也さんが急遽ツアーで叩いてくれることになって。
NARGO そうですね。あの急場を助けてくれる人は達也さんしかいなかったです。
──もしそのタイミングでバンドが止まっていたら、今こうやって青木さんのことを振り返ることもできなかったかもしれませんね。
NARGO ぶっちゃけつい最近ですよ、ちゃんと話せるようになってきたのは。それまでは自分たちの中でも触れられないというか、心にしまっておきたい領域だったので。
谷中 青木自身が生前ずっと嫌がってたんだよね。死んじゃった人の話をするのは湿っぽいし嫌だとか言って。それで自分たちも「まあ確かにそうだな」って納得してたところもあった。でももうあれから20年も経つし、そろそろいいのかなって。
この人がスカを叩いたらどうなるか
──その後は茂木さんがサポートメンバーとしてバンドを支えて、2001年に正式加入するんですね。
NARGO 欣ちゃんはサトちゃん(佐藤伸治 / フィッシュマンズ)が亡くなったばかりでね。時期がちょうど重なってた。
茂木 そうだね。
NARGO お互い「どうする?」という状態だったときに、沖さん(沖祐市)が「スカパラのドラマーはこの人しかいない」って言い出して、「じゃあ行こう」ってことでみんなで欣ちゃんに会いに行ったんだよね。
茂木 あのときはびっくりしたよね。青木さんが亡くなって、その前にルイくん(杉村ルイ)も脱退してたから、「これはスカパラちょっと休んだほうがいいよ」と普通思うじゃないですか。でもツアーやるって話を聞いて本当に驚いて、どういうグループなんだろうって。
──青木さんと達也さんのあとを継いでスカパラで叩くのは、かなりの覚悟が必要だったのでは?
茂木 最初はもちろん無理だと思ったけど、でも自分もフィッシュマンズの活動が止まって、これからどうなるんだろうっていう時期だったからね。ダメだったらダメでしょうがないじゃん、当たって砕けろみたいな感じでスカパラのみんなのところに飛び込んでいこうと。
──自分は1990年代のフィッシュマンズのライブもよく観ていましたが、当時と今では茂木さんのプレイスタイルはだいぶ違いますね。
茂木 うん、全然違うよね(笑)。
NARGO みんなでフィッシュマンズを観に行ったときに「この人がスカを叩いたらどうなるかな」とずっと想像してたんだけど、「うーん、わからん」って(笑)。やってみないとわからんって思った。でもすごいドラマーだっていうのはすぐにわかったし、ものすごいポテンシャルを感じたので絶対大丈夫だと思いましたけど。
谷中 最初の頃、冷牟田(竜之)さんが欣ちゃんにすごいムチャぶりしてたよね。
茂木 うん、それまでの自分からは想像もつかない演奏というか。曲の全然関係ないところで「ここにもフィル入れてくれ」みたいな。
NARGO 1曲ずっとドラムソロみたいになってた(笑)。
茂木 そうそう。「切り込んでいくんだ!」って言われてね(笑)。
新たなバンドを立ち上げる
──茂木さんはスカパラに入った当時どんな心境だったんでしょうか?
茂木 入ってすぐにツアーが始まって、とにかくがむしゃらでした。でも新たなバンドを立ち上げていくっていうのはそういうことだからね。
──新たなバンドを立ち上げるという意識だったんですね。
茂木 うん、名前はスカパラなんだけど、これはもう1回新しくバンドを作るということなんだって感じてた。俺が入って初めてのレコーディングのとき、演奏が始まった瞬間に「完全にみんなの音の出し方が変わった」と思ったんだよ。サウンドがもう、それまで自分が90年代に聴いてきたスカパラの音とは違ってて、新しいものをみんなで作り出そうとしてるのが、もう1音目からビシビシ感じられたっつうか。もう本当にこの人たち前しか見てないなって。音からその意志の強さを感じた。
──NARGOさんはその頃のことは覚えていますか?
NARGO どうだろう。とにかく必死だったから。無我夢中でもう戦のようでした(笑)。関ヶ原の戦いとかの戦場にいたら、とにかく目の前の人を斬るしかないわけで。メンバー全員そのくらいの感じでしたね。
──その後2001年に茂木さんがバンドに正式加入して、現在のメンバーがそろいます。
茂木 そうだね。「めくれたオレンジ」のとき。
NARGO そうだ、「めくれたオレンジ」のミュージックビデオの撮影日に、欣ちゃんが「メンバーにしてください!」って言ってくれたんだ。うれしかったな、あのとき。
谷中 みんなジャンプして喜んでたもんね。「やったー!」って(笑)。
──茂木さんはそのとき一生スカパラでやっていくことを決めたんですね。
茂木 それまで2年間サポートで一緒にやらせてもらって、全国ツアーやヨーロッパツアーで100本以上ライブしてたからね。
谷中 冬のヨーロッパツアー行ったね。
NARGO ベルリンで正月を迎えて。忘れられない、花火がバンバンバンって。
谷中 21世紀の幕開けはベルリンだった。
NARGO でも気が付けば、30年のうち20年は欣ちゃんがドラムなんですよ。
茂木 ホントだ。びっくりだね、あっという間だったな。
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「こんないいもの撮れねえよ」海外での初の手応え
2019年8月14日更新