東京スカパラダイスオーケストラ|「まだまだ面白いことがあるかもしれない」未知数なスカパラの30年と向かう先

歌モノ誕生の経緯

──「リボン」はスカパラがずっと作り続けてきた歌モノ楽曲の1つの頂点のように思います。2001年の「めくれたオレンジ」以来、作ってきた歌モノはもう数十曲になりますね。

谷中 まず「歌モノ」って言い方がすごいですよね。

NARGO 僕ら以外に歌モノって言ってる人います? そもそも歌モノって言われてる時点で僕らはインストバンドだってことだから。

──確かにインストバンドとしてのアイデンティティを保ちながら、でもボーカル曲がこんなにたくさんあって多くの人に受け入れられている状況は……。

NARGO 不思議ですよね。でもインストと歌モノは、僕らの中では意識として分かれてなくて。曲を作るときに「この曲どっちかね」みたいな話をよくするんです。ホーンでメロディをとるか、ボーカリストが歌うか。曲の持ってる生命というか、そういうものを大事にしてるだけなんで。

谷中 デビュー当時も、ボーカリストとは呼んでなかったけど、ギムラさん(クリーンヘッド・ギムラ)がいましたし。普通の歌を歌おうって感覚はギムラさんの中にはたぶんなくて、でもスカパラの中でのボーカルのあり方みたいなものを彼なりにすごく考えて、結果あの世界観だとか常軌を逸した雰囲気だとかを作り上げたんだと思うんです。

──じゃあそのあと「普通の歌をやろう」と思ったきっかけは?

谷中 もともと我々が模範にしていたThe Skatalitesというグループも、いろんなボーカリストを呼んでコンピレーションアルバムを作ってるし、1960年代のリズム&ブルースのバンドでもボーカリストを呼んでいるケースは多いんですよね。スカパラとしては1995年に「GRAND PRIX」というアルバムを作って、その中で竹中直人さんにラップしてもらったり、石川さゆりさんや小沢健二くんに歌ってもらったり。それがボーカリストとのコラボレーションの始まりかな。

──そういう流れがあって、「めくれたオレンジ」「カナリヤ鳴く空」「美しく燃える森」という最初の歌モノ3部作につながるんですね。

谷中 「GRAND PRIX」はカバーが多かったし、メンバーは歌詞を書いてなかったんで、「めくれたオレンジ」で田島貴男(ORIGINAL LOVE)くんが参加するときにはすごく話し合った覚えがある。

NARGO うん、けっこう意見が分かれた。

谷中 誤解されるんじゃないか、とか。

NARGO その結果、谷中さんが歌詞を書くことになって、あの曲はバンドの30年の歴史の中でもすごく大きなポイントになったと思います。

茂木 だってデビューして10年以上経ってさ、メンバーの中に作詞家が誕生したって、そんなのすごい革命だよね(笑)。

NARGO 谷中さんの歌詞は僕らにとって大きな宝物を発掘した感覚で、バンド内にこんな宝があったんだ?って改めて思いましたね。

左から谷中敦(Baritone Sax)、茂木欣一(Dr)、NARGO(Tp)。

歌詞がバンドの気持ちを代弁する

──谷中さんは歌詞を書く際に“スカパラらしさ”みたいなものは意識しますか?

谷中 もちろん意識して、スカパラのために書いてます。僕がずっと感じてきたスカパラの中にある宝物を言葉で表現しないといけない。みんなそれぞれインタビューで話したりとか、いろんなタイミングでスカパラの歴史を語るときがあるかもしれないけど、そうじゃなくて表現として、言葉で残していくのは僕がやらなきゃいけないことなのかなって。そういう使命感みたいな気持ちがありますね。

茂木 確かに谷中さんの歌詞に、自分たちの気分を代弁してもらってると感じることはすごく多いね。

NARGO 歌詞を読むと、あの時代のあのときの気持ちだよなって。僕らにはわかることがたくさんあります。

──スカパラの歌詞にロマンチックなフレーズが多いのは、谷中さん個人の資質だけじゃないわけですね。

谷中 (NARGOと茂木を指して)だって見てくださいよ、この2人。すごくキラキラしてる。こんな人たちと一緒にいたらロマンチックな歌詞を書くしかないじゃないですか(笑)。

茂木 たまんないこと言うね(笑)。

谷中 GAMOさんが飲んでるとき「まだやってる店があるかもしれない。まだもっと楽しいことがあるかも」って言って朝まで歩き回ってるのもGAMOさんなりのロマンだしね。

茂木 でもホントにそんな感じ。「まだまだ面白いことがあるかもしれない」って、そういう気分で毎日過ごしてるんだよね。なんか未知数なんだよ。完成しない。

NARGO 到達したと思ったことないよね。同じような感じでやってる人が前にいないからなのかな。

左からNARGO(Tp)、谷中敦(Baritone Sax)、茂木欣一(Dr)。

最初からずっと続くと思ってた

──ここからは30年間の活動を振り返ってみたいと思います。月並みな質問ですが、バンドを始めたときに30年も続くと思っていましたか?

NARGO 谷中さんは思ってたんですよね。

谷中 そう、続くって言ってたんだよね、俺(笑)。

──え、ホントですか?

谷中 けっこうマジで。最初にスタジオ入ったとき、こんなにキャラ立ちがいいバンドはいないと思って。ずっと一緒にやれる、どんな可能性もあるなって。

NARGO 僕もむちゃくちゃ面白い人たちが集まったし、行けるところまで行こうと思ってましたね。

谷中 当時ギムラさんがよく言ってたのは、「俺はソロもやりたかったけどスカパラがあればそれでいいんだ」って。なぜならスカパラならジャズもスカもファンクもできる。「スカパラでできないことはないんだ」と言ってて、今もその通りだなと思ってます。

──バンドが船出したあと、ターニングポイントになった出来事があれば教えてください。

谷中 それで言えば、まずはギムラさんが亡くなったのが大きいですね。あれが1995年。

──ギムラさんは初期のスカパラにとってすごく大きな存在でしたよね。

谷中 うん、アイデアマンだったし。

NARGO 道しるべっていうか、「スカパラはどうあるべきなんだ」っていう問いを僕らに投げかけてくるんですよ。そのときは意味がわからないんだけど、あとからわかることもたくさんあったりして。あとはやっぱりASA-CHANGが脱退したのも大きい出来事だったかな。

谷中 ASA-CHANG脱退が何年だろう? アルバム「PIONEERS」のあとだから1993年くらいかな。

──案外早いんですね。

谷中 リーダーのくせにすぐ辞めやがってね(笑)。

──初期スカパラを引っ張っていたギムラさんやASA-CHANGがいなくなって以降、バンドの方向性に迷いは生まれなかったですか?

NARGO そうですね、迷ったりはしなかったかな。

谷中 うん、とにかくずっと続けていこうというのが強くて。

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バンドを止めるな


2019年8月14日更新