鼎談:立花ハジメ×高木完×小山田圭吾|時代の先端を40数年にわたり駆け抜けてきた異才の足跡 (3/3)

タイニー・パンクスとのライブで飛び出した名言

──YEN卒業後はMIDIに移籍して、1985~87年には「TAIYO・SUN」「BEAUTY & HAPPY」を発表されています。

立花 MIDIには教授が誘ってくれたんです。

高木 その頃から歌モノが増えてきましたよね。その変化にも驚いた。ダンス養成ギプス(立花ハジメ考案のコンピュータ制御されたシリンダーで強制的にダンスをさせるギプス)の導入もこの時期ですよね。

立花 そうだね。僕も歌いたかったし、ツアーでダンス養成ギプスを付けて「HOGONOMO(FOR GO NO MORE)」とか「BEAUTY」を歌っていたんだけど、やっぱりインスト曲を続けて、最後に歌モノがあると盛り上がるんですよ。

高木 ダンス養成ギプスといえば、「巨人の星」の「大リーグボール養成ギブス」を思い出すんだけど、ハジメさんは星飛雄馬というより、ライバルの花形満のイメージなんだよなー(笑)。そういうおしゃれなユーモア感も大事。

立花 12inchシングルに収録されていた「THE GIRL FROM IPANEMA」は、今回のベストに入れたかった曲で、途中に入る「現代社会において音楽というものは……」という語りが自分でもけっこう気に入っているんです。

立花ハジメ

立花ハジメ

小山田 肝は語りなんですね(笑)。あと、女の子たちの歓声。

高木 80年代半ばくらいからダンスミュージックが隆盛して、12inchがブームになり、その流れをこの時期のハジメさんも独自の感覚でキャッチしている。

立花 完ちゃんと藤原ヒロシくんが結成したタイニー・パンクスと一緒にライブするようになったのもその頃だよね。完ちゃんの髪もまだ黒々とした長髪で(笑)、すごくカッコよかった。

高木 確かにあの頃は黒々とした長髪でした(笑)。

立花 タイニー・パンクスのステージで完ちゃんがラップ、ヒロシくんがDJで、僕がギターを弾いたこともあったね。

高木 そこでハジメさんから出た名言が、「ラップは誰でもできるけど、誰もがやるもんじゃないね」。それ、今でも通用しますよ。

小山田 そんな名言をさらっと言っちゃうんですね。

高木 その名言を聞いたのは、プラスチックスが1988年に期間限定でインクスティック芝浦ファクトリーで再結成したとき。ちょうど僕がMAJOR FORCE(高木が藤原ヒロシ、屋敷豪太、工藤昌之、中西俊夫と1988年に設立した日本初のクラブミュージックレーベル)を始める前夜で、タイニー・パンクスとTYCOON TO$H & TERMINATOR TROOPSがサポートしたんだ。そのときの映像を観ると、僕らは電気グルーヴみたいで、言ってみれば俺がピエール瀧(笑)。

小山田 ラップとDJにギターが入るというのも、時代を先駆けていますね。

高木 そうなんだよ。ただ、ハジメさんは時代を先駆けていながら軸がブレない。だから、どの時代のアルバムにもハジメさんらしいアイコンがあるんだと思う。

高木完

高木完

グラフィックデザイナーとしてADC最高賞を受賞

小山田 「TAIYO・SUN」と「BEAUTY & HAPPY」にはDEVOのマーク・マザーズボーが参加していますけど、ハジメさんとDEVOの関係も70年代からなんですね。

立花 DEVOをLAで初めて観たのはPちゃんがまだちゃんと形になっていなかった1977年。彼らから受けた衝撃はすごく大きかったし、世界に出て行くには普通のパンクバンドじゃダメだろうと思わされたんだよね。

小山田 この前、ツアーでLAに行ったときに中古レコード店で、プラスチックスの記事が掲載されていた「Interview Magazine」(アンディ・ウォーホールが1969年に創刊したカルチャー誌)を買ったんですよ。そしたら、店の主人に「昔、Whisky a Go Goでプラスチックスのライブを観たよ」って話しかけられて。

高木 80年代初頭に日本のバンドでワールドツアーに出たのはプラスチックスとYMOくらいだったからね。

小山田 YMOはプロジェクトとして大がかりだったけど、プラスチックスはイギリスのインディーレーベル、ラフトレードからデビューして、海外のミュージシャンやシーンと自然とつながった感じがありますよね。

立花 The B-52'sやTalking Headsとはアメリカでのマネージメントが一緒だったんですよ。DEVOのマークとはその後も交流が続いて、僕のソロでも一緒に曲を作ったし、彼独自のセンスには刺激を受けました。

1980年に撮影されたプラスチックスのライブ写真。右から2人目が立花ハジメ。(Photo by Kaoru IZIMA 1980)

1980年に撮影されたプラスチックスのライブ写真。右から2人目が立花ハジメ。(Photo by Kaoru IZIMA 1980)

小山田圭吾に引き継ぎたい変則チューニング

──その後、しばらく作品のリリースは空いて、1991年にテイ・トウワさんとの共同プロデュースでアルバム「BAMBI」を発表、90年代後半はバンドに回帰して、Low Powersで活動を展開されました。

高木 とはいえハジメさんは、その間もグラフィックデザイナーとして最前線で活躍してADC最高賞を受賞したり、ずっと音楽とデザインを両立させながら活動していたわけだからね。

小山田 テイさんと知り合ったのはいつ頃ですか?

立花 いつだったかは忘れちゃったけど、テイくんはいつの間にかDeee-Liteのメンバーになっていて、中野裕之くんが「Groove Is In the Heart」のミュージックビデオを撮っていたという感じだったな。

高木 90年代頭はサンプリング全盛期ですよね。「BAMBI」はサブスクで配信されていないから今回ベストでカッコよさをぜひ確認してほしい。ハジメさんは90年代後半にLow Powersを結成して、僕のソロ「ARTMAN」でギターを弾いてもらったり、ライブにも参加してもらいましたね。

小山田 90年代半ばからはオルタナティブの時代に入る。

高木 そう。小山田くんもそうだったじゃない? Low Powersには大野(由美子)さんも参加していたし、Buffallo Daughterもハジメさんのサックスをフィーチャーした「Sax,Drugs,and Rock'n roll」を出したり。

立花 やっぱり、ギターのシールドをアンプに突っ込んでシンプルにでっかい音を出すのが気持ちいいと、ひさしぶりに思い出してね。

小山田 ハジメさんのギターは変則チューニングなんですよね。

立花 そう。Pちゃんでツアーしているときに、B-52'sのリッキー・ウィルソンに教えてもらったんです。リッキーの残した特異なチューニングを引き継ぎたくて、Low Powersでも、その後に結成したTHE CHILLでもずっと変則チューニング。

小山田 実は僕もフリッパーズ・ギターより前に井上由紀子さんと組んでいたPee Wee 60'sで、プラスチックスの「PATE」のカバーをやったことがあるんですよ。

小山田圭吾

小山田圭吾

高木 マジで? シングル(「Good」)のB面をカバーするなんてマニアックだね。ハジメさんはそのリッキー直伝の変則チューニングを小山田くんに継承してもらいたいんですよね。

立花 そう。小山田くんとは「伝承式」までしたよね(笑)。

小山田 リッキー・ウィルソン亡き後、そのチューニングで演奏しているのはハジメさんだけになってしまったんですよね。

立花 だから僕より若い小山田くんに受け継いでもらいたいと思って。

小山田 ヤバいな。練習しなきゃ(笑)。

──「hajimeht」には小山田さんと完さんによるリミックス「MA TICARICA」(2025 Remix)も収録されます。ちなみに限定盤のボーナストラックに収録された「永遠のアイドル」のカバーを演奏しているのは、完さんがYouTubeで発見したブラジル人だとか?

高木 たまたま僕が見つけたんだけど、ハジメさんは知っていたんですよね。

立花 僕のFacebookに「次のLow Powerのアルバムはいつ出るんですか?」って連絡してきたのが彼だった。どこかで聴いてファンになったらしくて。

小山田 オリジナルはウーリッツァーのインストなんだけど、それをアコースティックギターでカバーしているのがいい感じで、僕も今回のマスタリングを手がけたまりんもすぐに気に入って。こういうふうにハジメさんの音楽が遠くブラジルにまで届いているんだなと思ったんですよ。

左から小山田圭吾、立花ハジメ、高木完。

左から小山田圭吾、立花ハジメ、高木完。

高木 胸にキュンとくるようなメロディの切なさもハジメさんの音楽にはずっとあって、この機会に若い世代や海外の音楽ファンにもさらに広がってほしいよね。

小山田 そうですね。40曲を超えるかなり聴き応えのあるオールタイムベストになったので、改めてハジメさんの音楽の面白さを発見してもらいたいです。

──大阪と東京で開催されるリリース記念ライブが楽しみです。

高木 立花ハジメ&Hm、立花ハジメとLow Powersという2つのバンドで、今のハジメさんを観てもらいたいし、小山田くんやまりん、ヤン富田さんといったゲストも加わり面白いことになりそうな予感しかない。僕はライブのディレクターとして見守ります。

立花 僕はHmではサックス、Low Powersではギターと歌で参加する予定です。

小山田 いろいろ盛りだくさんな内容になりそうですよね。

高木 そうだね。ヤンさんのブルーノート東京でのライブにハジメさんが登場したこともあるので今回も楽しみなんだよね。

小山田 ハジメさん、今回のジャケットの撮影とスキューバダイビングで、中東のドバイまで行っているんですよね。元気だなあ。

立花ハジメ「hajimeht」完全生産限定盤ジャケット

立花ハジメ「hajimeht」完全生産限定盤ジャケット

立花 スキューバは趣味だけどね。ドバイは今、世界一の都市だっていうから一度行ってみたかったんだよ。

高木 そういう旺盛な好奇心と行動力もカッコイイ。やっぱり、ハジメさんは永遠の花形満なんですよ!

立花ハジメら多くの個性的なアーティストを輩出したYENレーベルとは?

YENレーベル ロゴ

YENレーベル ロゴ

細野晴臣と高橋幸宏によって、1982年にアルファレコード内の独立レーベルとして設立されたYENレーベル。Yellow Magic Orchestraの結成以前からプロデューサー志向を強めていた細野にとってはプロデューサーとアーティストが牽引する待望のレーベルの発足であり、高橋にとっても自身のプロデュースワークを充実させる同レーベルからは、細野、高橋のソロにとどまらず、数多くの個性的なアーティストがデビューした。YENレーベルの第1弾としてリリースされたのは、「はらいそ」以来4年ぶりのソロ作品となる細野晴臣の「フィルハーモニー」と立花ハジメの「H」。以降も戸川純、上野耕路、太田螢一によるユニット・ゲルニカ、ワールドワイドに活動した久保田麻琴率いるサンディー&ザ・サンセッツ、シンガーソングライターから耽美的テクノに変貌したコシミハル、幻のテクノ歌姫・小池玉緒、アンビエントとして再評価著しいインテリア、テストパターンが在籍し、先鋭的な作品を送り出した。また、世界初のゲームミュージックのサントラ「ビデオ・ゲーム・ミュージック」、雑誌「ビックリハウス」と連動した「音版ビックリハウス」、クリスマスアルバム「We Wish You A Merry Christmas」などの企画ものも積極的にリリースされた。レーベルは1985年に終了したが、アーティストが主導するレーベルの先駆けとして、その独創的な作品群とともに今も音楽シーンに影響を与え続けている。

公演情報

「ハジメヨケレバスベテヨシ」

2025年1月15日(水)大阪府 梅田CLUB QUATTRO
<出演者>
立花ハジメ&Hm / 立花ハジメとLow Powers
ゲスト:小山田圭吾 / 砂原良徳 / Ozaki Soho


「Lost New Wave 100% Vol.2 ハジメヨケレバスベテヨシ」

2025年1月22日(水)東京都 渋谷CLUB QUATTRO
<出演者>
立花ハジメ&Hm / 立花ハジメとLow Powers
ゲスト:ヤン富田 / 小山田圭吾 / eri

プロフィール

立花ハジメ(タチバナハジメ)

1951年、東京生まれの音楽家 / グラフィックデザイナー / 映像作家。1975年、中西俊夫らとプラスチックスを結成。1979年にイギリスのインディーズレーベル、ラフトレードレコードからシングル「Copy / Robot」を発表する。翌1980年にアルバム「WELCOME PLASTICS」で日本デビューを果たし、テクノポップブームの一翼を担う。82年のソロデビュー以降も、さまざまなバンド / ユニットで活動、デザイナーとして多くのアーティストのレコードジャケットやミュージックビデオを手がけ、1991年にADC賞最高賞を受賞するなどマルチな活躍を続ける。

高木完(タカギカン)

1961年、神奈川県出身。FLESHや東京ブラボーといったバンドでの活動を経て、1984年にDJ活動を開始。1985年、藤原ヒロシとタイニー・パンクスを結成。1988年に日本初のクラブミュージックレーベル・MAJOR FORCEを設立。2000年に入ってからはNIGOと音楽レーベル・APESOUNDSを立ち上げ、UNDERCOVERのサウンド、香港のストリートブランド・SILLYTHINGのクリエイティブディレクションなどを手がける。2018年に30周年を迎えたMAJOR FORCEを再始動。

小山田圭吾(オヤマダケイゴ)

1969年、東京都出身。1989年にフリッパーズ・ギターのメンバーとしてデビュー。1991年の解散後、1993年からCornelius名義で音楽活動を開始する。現在まで7枚のオリジナルアルバムをリリース。自身の活動以外にも、国内外多数のアーティストとのコラボレーションやリミックス、プロデュースなど幅広く活動を展開している。最新アルバムは2023年6月リリースの「夢中夢 -Dream In Dream-」。