“青の時代”に出会った高橋幸宏
小山田 ハジメさんはプラスチックスではギター担当でしたが、以前からサックスに興味があったんですか?
立花 全然(笑)。それまでは触ったことすらなかった。LAでサックスを買って、半年くらい練習してアルバムを作ることになったんだ。
高木 デヴィッド・ボウイもサックスを演奏するし、Roxy Musicにもサックス&オーボエ担当のアンディ・マッケイがいたり、なんとなくハジメさんにサックスが似合うイメージはあるけど。
立花 ただ、アンディ・マッケイはウマウマの人だけど、僕はヘタウマだからね。そんなヘタウマのまま作っちゃったのが1stの「H」と2ndの「Hm」でした。
小山田 「H」と「Hm」のプロデューサーの幸宏さんはどんな感じでしたか?
立花 ありがたいことに、幸宏は好きにやらしてくれたね。今回、完ちゃんと小山田くんがリミックスしてくれた「MA TICARICA」は幸宏がドラムを叩いていて、僕が遠慮がちにね、「ドラム、叩いてくれない?」って頼んだら、さらっと「いいよ」って。
小山田 幸宏さんらしいドラムがカッコいいんですよ。幸宏さんとハジメさんの出会いはYMO以前の70年代ですよね。
高木 そのあたりは有名な逸話があって。
立花 僕は70年代にレコードジャケットをたくさん手がけていたWORKSHOP MU!!というデザイン集団に師事していたんですが、幸宏がいたサディスティック・ミカ・バンドのジャケットを僕の師匠が担当することになり、アシスタントとして撮影のお手伝いをしたのが最初。ミカ・バンドの1stアルバム(「SADISTIC MIKA BAND」)のジャケット中面に掲載されているビーチでメンバーが戯れている写真、あの砂浜に見立てた、おがくずを敷き詰めていたのが、“青の時代”の僕です。
小山田 ハジメさんがロンドンから帰って来た頃ですか? 初来日したデヴィッド・ボウイと偶然同じ船に乗り合わせて渡欧したんですよね。
立花 そう。「行ってくるよ!」って友達に手を振って、ふと横を見たらボウイがいた。
高木 すごい話ですよね、それ(笑)。
立花 そうだね(笑)。ただ、当時の僕はまだアシスタントで、長髪にジーンズの使い走りの若者だったから、ミカ・バンドのメンバーと話す機会もなかったけど。幸宏はその頃すでにカシミアのセーターを着ていた。
高木 さすが!
立花 だから、プラスチックスを始めてからですね、幸宏と話したり、家に遊びにいくようになったのは。その後も幸宏のツアーに参加したり、舞台美術や衣装を手がけたりするようになった。
高木 僕はライブで幸宏さんとハジメさんがタップダンスを踊っていたのを覚えている。
立花 Pちゃん時代は楽しいことばかりではなかったけど、幸宏とのツアーは楽しかったという記憶しかないんですよ。
高木 女の子たちの歓声が幸宏さん以上だったという噂もある。
小山田 当時のライブ映像を観ると、幸宏さんのファンは「幸宏!」って声を出すような男性が多くて、ハジメさんは女性ファンが多かった。
ロック界の芥川龍之介
──その頃のハジメさんは「ロック界の芥川龍之介」と呼ばれていました。
高木 そうそう(笑)。あの芥川の顎に指をくっつけるおなじみのポーズ、ハジメさんもシングル「ハッピー」のジャケで真似していましたよね?
立花 あのポーズはテイくん(TOWA TEI)が引き継いだんだよね(笑)。
小山田 ハジメさんのアルバムには細野さんも参加していますよね。
立花 細野さんは「H」の「THE BASSMAN FROM LDK」という曲でベースを弾いてくれたし、「PIANO PILLOWS」のピアノは教授ですね。
小山田 「Hm」に収録されている「ARRANGEMENT」も教授の曲ですよね。坂本龍一&ロビン・スコットの名義で発表している。
高木 ハジメさんがソロデビューした1982年はYMOの活動がひと段落したタイミングで、それぞれがソロ活動やYENレーベルをスタートした時期だった。
立花 YENレーベルにはゲルニカの上野耕路くんとか独特の才能を持ったミュージシャンも多かったね。
高木 あの界隈で、「ゴジラ」の劇中音楽で知られる伊福部昭さんの再評価が起きたのは僕も刺激になりましたよ。
立花 教授とのB-2 Unitsも面白かったしね。
高木 その後、ハジメさんは教授と映画「ラストエンペラー」でも共演。ハジメさんの通訳の役も僕らにはインパクトありましたよ。
小山田 僕はハジメさんのソロやYMO関連は90年代にまりん(砂原良徳)と仲よくなって、その頃からさかのぼって聴くようになったんです。
高木 なるほどね。小山田くんはどう思ったの?
小山田 ハジメさんのアルバムは一聴して大好きになりましたね。
高木 今思えば、ノンカテゴリーの前衛的な音楽を当時の若い子がこぞって聴いていたんだから、面白い時代だったと言えるよね。
小山田 ガチの現代音楽とは違って、ハジメさんの作る音楽はグラムロックからパンクに至るバックグラウンドとのミクスチャー具合が面白いし、今、聴いても新鮮なんですよね。
高木 ロックからそういうアプローチになった人は世界的にも珍しいかも。教授はその反対だし。
小山田 しかも、デザインまで手がける人っていないですよ。
立花 ロゴ1つとってもMacがなかった時代は大変だったんですよ。すべて手作業だから。
高木 アイデアはどういうときに思い浮かぶんですか?
立花 うーん、言葉ではうまく言えないから、僕は音楽やデザインの世界に行ったわけだからね。
高木 「説明できたら本を書くよ」ってハジメさんは言ってましたもんね。
立花 そういうこと(笑)。
改めて驚かされた嗅覚の鋭さ
高木 改めてハジメさんの曲を発表順に聴き直すと、「Mr. TECHIE & MISS KIPPLE」で音楽性が変わっていくんだけど、今で言うラウンジミュージックっぽい曲もあって、ハジメさんの嗅覚の鋭さに驚いた。
小山田 電子音楽の先駆者のジャン=ジャック・ペリーとか、そういう音楽が再発見されるよりずっと前ですよね。
高木 そうそう。僕がヒップホップ経由でペリー&キングスレイを聴いたり、レコードを探したりするようになるのは80年代後半から90年代だから、今さらながらハジメさんの嗅覚の鋭さに改めて驚いた。
立花 その頃はまったく流行ってなかったけど、Kraftwerkみたいなテクノじゃない電子音楽を探して聴いていた時期があったんだ。
小山田 それらがモンドミュージックと呼ばれるようになったのは90年代半ばでしたもんね。僕もそのあたりから聴くようになった。
高木 ハジメさんとプラスチックスで一緒だったトシちゃん(中西俊夫)は、WATER MELON GROUPでヤン(富田)さんとマーティン・デニーのエキゾチックサウンドを追求したり、一部ではあったけど面白い動きがあった。
小山田 ピテカンの時代ですね。
──原宿にあった伝説のクラブ、ピテカントロプス・エレクトスもハジメさんのソロデビューと同じ1982年にオープンしていますね。
高木 プラスチックスの元メンバーで言えば、僕はトシちゃん、(佐藤)チカちゃんといったMELON周りのピテカンチームと仲がよかったから、YMO周辺で、YENレーベルにいたハジメさんとは当時少し距離があった気がしますね。
立花 そうだね。完ちゃんはピテカン派だったもんね。
小山田 そのあたりは微妙にグループが分かれていたんですね。
立花 ピテカンでライブをやったことはあるんだけど、あそこは中西たちのホームグラウンドだったから。
高木 僕も当時所属していたバンド・東京ブラボーで出たこともあるけど、MELON、WATER MELON GROUPは毎週のようにライブをやっていましたからね。その後、僕もDJを始めてツバキハウス(新宿にあったクラブ)でハジメさんの「MODERN THINGS」をよくかけていましたよ。
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