音楽家、グラフィックデザイナー、映像作家として40数年にわたり活躍する立花ハジメが、初のオールタイムベストアルバム「hajimeht(ハジメ・エイチ・ティー)」を1月15日にリリースする。本作は1982年にアルファ / YENレーベルからリリースされたソロデビュー作「H」から、90年代にテイ・トウワを共同プロデュースに迎えた「BAMBI」、立花ハジメとLow Powersの楽曲、そして21世紀に発表された作品までレーベルの枠を超えて収録。カテゴリーに捉われず常に斬新な音楽を追求し続ける立花のヒストリーとして聴き応えのあるベストになっている。
音楽ナタリーでは、立花と、本作の総合監修を務めた高木完、選曲とリミックスに携わった小山田圭吾(Cornelius)の3人による鼎談を実施。1970年代末のテクノポップ黎明期にワールドワイドに活動したプラスチックス時代、サックスを手にソロに転じYellow Magic Orchestraの各メンバーと密に関わったYENレーベル期、バンド回帰した90年代後期の活動など、さまざまなトピックを通じて異才・立花ハジメの足跡と魅力を解き明かす。
取材・文 / 佐野郷子撮影 / 山口こすも
小山田の立案でスタートしたベスト盤企画
──初のオールタイムベストアルバム「hajimeht」は、40年以上にわたる立花ハジメさんの軌跡を総括する内容になりました。この作品に完さんと小山田さんが関わるようになった経緯は?
高木完 そもそもの発端は小山田くんじゃなかったっけ?
小山田圭吾 2024年に野宮真貴さんのBillboard Liveの公演にゲスト出演したとき、アルファのカタログを担当しているソニーのスタッフと会って、「ハジメさんの活動を網羅するようなベストアルバムを出しましょうよ」と言ったんです。そこから企画が動き始めたんだけど、実はその前からハジメさんと完さんとはよく会っていたんです。
高木 そう。けっこう頻繁に会っていたよね。
小山田 お互い近所同士というのもあって、ひと月に1回は近くのカフェで会って話すというのがここ数年続いていた。
立花ハジメ そうだね。僕も完ちゃんと小山田くんが選曲してくれるならいいなと思ってお願いしました。
高木 まず僕と小山田くんでそれぞれ選曲したんだけど、これがほとんど同じだった。その選曲案をハジメさんに投げて、協議していきました。
立花 現在は入手困難な12inchシングルの曲や2000年以降の自主レーベルの曲も入っていて、レーベルの枠を超えてまとめることができました。
──ハジメさんはプラスチックス解散後、アルファ内に設立されたYENレーベルから1982年にアルバム「H」でソロデビューしています。
高木 1982年ということは、もう42年前!
小山田 その頃に生まれた人はもう、まあまあ大きい子供がいるお父さんかもしれないね(笑)。でも今「H」を聴いてみても、まったく古さを感じない。
高木 どこにも属さない感じがあるからなんだろうね。ノンカテゴリー、ノンジャンルの強みというか。
小山田 僕はハジメさんのYEN時代のソロはリアルタイムでは聴いていなかったんだけど、プラスチックスはテレビで観て子供心に印象に残っている。
立花 テレビの音楽番組にも、ちょこちょこ出ていたからね。
小山田 小学校高学年の頃かな、NHKの子供向けの情報番組「600 こちら情報部」で観た記憶があるんですよ。
高木 ここに少しだけ世代の差がある。僕はプラスチックス、ヒカシュー、P-MODELはリアタイだから。
──完さんは、プラスチックス時代のハジメさんと交流があったんですよね。
高木 まあまあ知り合いだったかな。僕が高校のときに組んでいたFLESHというバンドでプラスチックスの前座をやったこともある。
立花 僕は残念ながら覚えてないんだよね。
高木 新宿LOFTでしたよ。僕はすでにプラスチックスのファンだったから、ライブもガンガン観に行っていたし、ハジメさんは若い子にも声をかけてくれて、話しやすかった。その頃からカッコいい人でしたね。ベスパに乗って、イヴ・サンローランのジャンパーを着ていたのを鮮明に覚えている。
立花 そのジャンパーなら僕も覚えている(笑)。
音楽をデザインするという意識
──プラスチックスとは異なるハジメさんのソロの音楽性をお二人は最初どう感じましたか?
高木 僕は「H」がリリースされる前にハジメさんのライブを観ているんですよ。ハジメさんはこういう音楽をやっていくんだ、とびっくりした。
立花 「H」バンドは、教授(坂本龍一)のB-2 Unitsというバンドとメンバーがほとんど同じだったんです。ロビン・トンプソン(Sax)も鈴木さえ子(Dr)さんも両方のバンドにいた。
高木 僕がライブを観た青山のクーリーズ・クリークという店は、ライブハウスじゃなくて普段はレストラン&バーだったんだけど、そういう場所でふらっとライブをやっちゃう感じは最近のハジメさんの活動にも近いんじゃないかな。
立花 近くのカフェにサックスだけ持っていって、知り合いのミュージシャンとセッションしたりしてね。
高木 そうそう。僕も客演したことがあるけど、客も友達とか周辺の若い子だけで。
小山田 その感じは40年前も今も変わらないんですね。
──細野晴臣さんと高橋幸宏さんが1982年に設立したYENレーベルからソロデビューした経緯は?
立花 YENレーベルには細野さんと幸宏が誘ってくれたんです。YENでは「H」「Hm」「Mr.TECHIE & MISS KIPPLE」の3枚をリリースしましたが、あの頃は毎年アルバムを出していたんですよ。
高木 だって、ハジメさん、すごく人気があったじゃないですか?
立花 いやいや(笑)。
小山田 今回のベストに収録されたライブ音源の「THE GIRL FROM IPANEMA(イパネマの娘)」を聴くと、「キャー!」っていう女の子たちの歓声がスゴい。
高木 そう。アイドル並みの人気だった。当時は男女問わず、立花ハジメ=カッコイイという認識があった。
小山田 僕はハジメさんが出演していた川崎製鉄のCMをよく覚えている。
立花 あれはSurvival Research Laboratoriesというサンフランシスコの前衛集団とコラボレーションしたんですよ。
──「H」のジャケットにも写っている自作楽器・アルプスもインパクトがありましたね。
立花 あれも僕のデザインワークの1つですね。自分のイメージする音が既成の楽器で出せないなら自分で作るしかないと。音楽をデザインするという意識があったからね。
小山田 サウンドスカルプチャーとか、アートの領域ですよね。アルプスが現存していないのが惜しまれる。
高木 そこが普通のミュージシャンとは違うクリエイターたるゆえんだよね。
ロックでもポップでもジャズでもないノンカテゴリーの音楽
小山田 あの時代はギターで象の鳴き声を真似ていたエイドリアン・ブリューがCMに起用されたりして、前衛的な音楽やアートが脚光を浴びる文化が今よりもっと共有されていたような気がするんですよね。
高木 PARCO、WAVEのセゾン文化を筆頭にね。その時代の寵児がハジメさんなんですよ。デザイン、音楽、アート、ファッションをつなぐポップスターだった。
小山田 今はそういう存在っていないですよね。
高木 いないね。最初に「H」を聴いたときは確かに驚いたけど、取っつきにくいとは感じなかった。80年代に入ると、だんだんポストパンクの時代になっていって、ジェームス・チャンスやThe Lounge Lizardsなんかも登場するんだけど、サックスが入ったそういう音楽の中でもハジメさんの音楽が一番カッコイイかもしれないと思った。
立花 僕もジェームス・チャンスはパンクで好きだったけどね。
小山田 ハジメさんの音楽は現代音楽やミニマルミュージックに近いものがあるんですよ。
立花 そこはちょっと違ったかもね。
高木 だからインストゥルメンタルでも聴きやすかったんだと思う。家で落ち着いてアルバムを聴くことができた。
小山田 ハジメさんがサックスを買ったのはプラスチックスの全米ツアーでLAに行ったときだったんですよね?
立花 その前にプラスチックスでニューヨークに行ったとき、いろんなバンドが出るイベントに招かれて、そこにサンフランシスコからPink Sectionというバンドも来ていた。その周辺にいたのがフェイクジャズのClub Foot Orchestraで、彼らのようなサクソフォンカルテットがすごく新鮮に思えたんだ。
小山田 ハジメさんの「H(THEME FROM CLUB FOOT)」という曲は、Club Foot Orchestraのカバーなんですよね。
高木 それをカバーするセンスがすごい!
立花 プラスチックスはポップミュージックのバンドだったから、Pちゃん(プラスチックス)のあとにどういう音楽をやっていこうか考えていたとき、ロックでもポップでもジャズでもないノンカテゴリーの音楽がいいなと思って。そんなときLAでたまたまセルマーのサックスを見つけたんです。
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“青の時代”に出会った高橋幸宏