折坂悠太「朝顔」インタビュー|あらゆる隔たりを越えて、鳴り響く願いの歌

体が勝手に動いて完成した曲

──本作には「安里屋ユンタ」という沖縄の民謡も収録されています。こちらは以前から折坂さんのライブでは定番になっていた曲ですが、なぜ今回アルバムに収録しようと思ったのですか?

もともと「朝顔」を配信リリースしたときに、カップリングにこの曲を収録しようと思っていたんです。僕が「朝顔」で歌いたかったことが、より穏やかにより普遍的に歌われた曲だと思っていて。「マタハーリヌ ツィンダラ カヌシャマヨ」という歌詞は「また会いましょう 美しい人よ」という意味で、恋愛の曲にも聴こえるし、もっと大きな別れをテーマにしている感じもある。「朝顔」もそういうテーマで作った曲なので、僕の中ではすごくリンクするところがあったんですよね。

──折坂さんはこれまで民謡や浪曲、ラテン、ブラジル音楽など古今東西の音楽からの影響を感じさせる曲を発表してきましたが、沖縄民謡から受けた影響も大きいですか?

沖縄民謡というくくりだと、僕は全然詳しくないと思います。この曲も、ライブで競演したときにオオルタイチさんが「これ歌ったら面白いんじゃない?」と提案してくれて、そのときに初めて知ったんですよ。沖縄民謡を歌いたいというよりは、単純にこの曲が好きだから歌っているというか。ブラジル音楽なんかもそうですけど、意外とその音楽の文化的な背景はそこまで見ていなくて、もっとシンプルに音から入ることが多いです。

折坂悠太

──「安里屋ユンタ」は細野晴臣さんや、最近だと寺尾紗穂さんも歌っていますね。

寺尾さんはたぶん僕の影響です(笑)。

──そうなんですね!

以前ライブで競演したときに、僕が歌っているのを聴いて「すごくいいですね」と言ってくれて。寺尾さんのほうが先にCD化してますけど(笑)。細野さんのカバーは、自分が歌い始めてから知りました。アプローチがまったく違っていて面白いですよね。

──いろんな人が歌っている曲を歌うにあたって、自分の色を出すために意識したことはありますか?

「安里屋ユンタ」に関しては、「こういうふうにしよう」みたいなことはほとんど考えずに作ったんですよね。考える前に、いつの間にかコードを爪弾いていた感じで。自分の心の芯の部分に触れるものがあったのか、勝手に体が動いてできた感覚があって、完成した日を鮮明に覚えています。

淡々とした日々への祝福

──「安里屋ユンタ」の次には「のこされた者のワルツ」というワルツの楽曲が入っていて、折坂さんの音楽性の幅広さを感じさせられます。

実はこれ、レコーディングの前の日にできた曲なんです。リハーサルからものすごく疲れた状態で帰って来て、鏡に映る死んだような自分の顔を見たら突然思い浮かんで。そこから一気にデモを作って、「すみません、これもレコーディングしたいんですけど……」とお願いして、その場で波多野さんとあだちさんに合わせてもらいました。

──そんな急ピッチで作られた曲だったんですね。

そこまで疲れていた理由の1つに、アルバムが1つの作品としてまとまっていないような感覚があったんですよ。このアルバムはさっき言ったように「朝顔」の対句のような楽曲を作りたいというテーマがあったんですけど、「安里屋ユンタ」も「鶫」も全然違うタイプの曲なので、その間を埋めるつなぎのようなものが必要だと思って。ハンバーグでいうところのパン粉のようなものですよね(笑)。それがないなと思っていたんです。でも「のこされた者のワルツ」がうまくその役割を果たしてくれたと思います。

──確かに「安里屋ユンタ」から「鶫」のつなぎとして、「のこされた者のワルツ」はバッチリですよね。

あと、僕の中でワルツって生きていることを祝福する音楽というイメージなんです。今回のアルバムは、いなくなってしまった人に対して歌っている曲が全体的に多くて。「監察医 朝顔」は亡くなったお母さんがストーリーの中心にはあるんですけど、あくまでそこに生きている人たちの姿を淡々と描いているんですね。自分もこのアルバムの中で、そういう人の姿をフラットに描きたかった。去っていった人のことが心の中心にありながらも、変わらずに毎日を過ごしていく。そんな淡々とした日々を祝福するような音楽を聴きたいと思ったんですよね。この曲にはそういう気持ちも込められています。

確かなことだけを歌いたかった

──歌詞についてもお聞きします。初期の「あけぼの」や「たむけ」の頃は、具体的な風景描写が独特で、そこが折坂さんの作家性の1つでもあったと思うんですが、今回は歌詞の抽象度が上がっている印象がありました。歌詞の作り方や、自分が歌いたいことに変化があったのでしょうか。

変化があると言えばあるんですけど、やろうとしていること自体はそんなに変わっていないつもりなんですよ。確かに「あけぼの」や「たむけ」の頃は、具体的な風景を描いて何かを表すということをしていたんですが、それってある意味すごく抽象的なことだとも思っていて。

──というと?

折坂悠太

目の前の風景を使って何かを表すという手法では、逆に言えば自分の見えているままの景色は届かないという感覚があって。自分の気持ちに目を向けながら、それを間接的に描くことで、聴く人の心象に置き換えるというやり方だと思うんです。「朝顔」で歌われる「願う」という言葉は、一見そこをストレートに歌っているように見えて、気持ちの表現としてはやっぱり抽象的なんですよね。そういう意味では初期の頃も今も、根っこの部分は変わらないのかなと思います。

──表題曲「朝顔」や「鶫」では、“朝”や“夜明け”がテーマになっていますが、過去には「芍薬」という曲に「朝は来ぬ」というフレーズがありました。「針の穴」の歌詞には「櫂」というほかの楽曲のタイトルにも冠した言葉が出てきますし、昨年「春」という楽曲をリリースされましたが、今作を締めくくる言葉は「次の春へ」です。こういった形で、折坂さんが大事にされている言葉が全体を通してちりばめられている印象があったんですが、こういう言葉を何度も用いることで折坂さんが描きたいことはなんなのでしょうか。

やっぱり僕は最終的には希望を歌いたいんですけど、自分が思う希望と人が思う希望は違うと思うんです。だけど、ただ1つ絶対的に間違いないことは、天変地異が起きて太陽がどっかに行ってしまわない限り夜が明けて朝が来る。そこに希望を見出す人がいれば絶望を抱く人もいるかもしれない。それでも夜明けというものは世界中の誰にでも等しく起こるものなので、そこにどういう意味を見出すかは僕にはわからないけど、そういう確かなことだけを歌いたかった。そうすると自然と「朝」や「春」という言葉が入ってくるんだと思います。

──なるほど。

「針の穴」もデモの段階では最後に「それでも生きていたい」みたいな歌詞が入っていたんですよ。ただ、もちろん自分は「それでも生きていたい」と思っているけど、そう思えない人もいるだろうなと思って。そういう人に「生きていたい」なんて言っても「ああそうですか」という感じだと思うんですよね。なので、「針の穴」では生きられるかどうかわからないという不安定な気持ちを歌いつつ、アルバム全体では夜が明けて次の春へ行くという事実を描きたかったんです。