BLANKEY JET CITYとTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT──1990年代から2000年前半にかけての音楽シーンにおいて、欠かすことのできない稀代のロックバンド2組。どこか近い匂いを感じさせ、共通点を多く持ちながらも、決して交わりすぎることのなかった彼らが、今夏スタートする共同ポップアップストアの開催をきっかけに改めて注目を浴びている。
解散から20年以上を経てもなお新たなリスナーを獲得し続けている2組は、いかようにして結成され、キャリアを積み、それぞれの歴史に終止符を打ったのか。その足跡を、年表とそれぞれが解散するまで取材し続けてきた小野島大の解説を交えて振り返る。
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文 / 小野島大



1988
明治学院大学のバンドサークル「ソング・ライツ」内にて結成
1989
1990
2月
浅井健一(Vo, G)、照井利幸(B)、中村達也(Dr)によって東京で結成
8月
TBSテレビ「イカ天」にて「第6代目グランドイカ天キング」を獲得
11月
初の全国ツアー「Live Strangler」を開催
クハラカズユキ(Dr)、ウエノコウジ(B)が加入
1980年代後半は、それまで一部のマニアックなリスナー向けのマイナーなジャンルだとされていたロックが、日本の音楽シーンの主役へと上り詰めていった時代だった。
1970年代末のフリクション、LIZARD、INUといったバンドが形成した初期日本のパンクロックシーンはザ・スターリンやじゃがたらなどの強烈な個性を放つバンドの台頭を経て、1980年代半ばにはLAUGHIN' NOSE、THE WILLARD、有頂天のいわゆる“インディーズ御三家”が存在感を強めていた。それらのバンドが初めて地上波テレビで紹介された1985年8月放映の番組「インディーズの襲来」(NHK)で火が付いた爆発的なインディーズブームは、やがて日本の音楽史上空前のバンドブームへとつながっていく。レベッカ、BOØWY、米米CLUB、TM NETWORK、THE BLUE HEARTS、BUCK-TICK、プリンセス プリンセス、X、JUN SKY WALKER(S)、ユニコーンといったバンドが次々とスターダムにのし上がり、それまでニューミュージックやアイドルに夢中になっていた若者がライブハウスに殺到するようになった。世の中はバブル景気に沸き、豊富な資金が音楽業界に、バンド業界に流れ込んでいた。昭和天皇が崩御し昭和から平成へと変わり、「ザ・ベストテン」が終了して歌謡曲の女王美空ひばりが亡くなり、リクルート事件や天安門事件が起き、ベルリンの壁が崩壊した。まさに激動の時代だった。
そんな中、1988年4月に1人の若者が東京都の明治学院大学に入学する。若者はさっそくソングライツという音楽サークルに参加し、バンドを結成する。だが、いいメンバーがそろわず、活動はなかなか活発化しない。若者の名はチバユウスケ(Vo, G / 1968年生まれ)、バンドはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTといった。
一方、名古屋で一緒にバンドをやっていた浅井健一(Vo, G / 1964年生まれ)、照井利幸(B / 1964年生まれ)の2人は別々に上京し、改めて新しいバンドを組むことになった。当初はカリスマ的ハードコアバンドとして知られたGHOULのTETSUがドラムを担当したが、やがて短い期間ではあったが成り行きでバンドのマネジャー役を名乗り出ていた中村達也(Dr / 1965年生まれ)に代わる。「浅井の歌は自分がバックアップすべきだ」と直感したのだ。3人はいずれも名古屋出身で、名古屋パンクのオリジネイターであるTHE STAR CLUB周辺のパンクシーンに大なり小なり影響を受けていた。中村は若くしてザ・スターリン、the原爆オナニーズ、THE STAR CLUBと、日本の著名パンクバンドのメンバーを歴任したほどの実力の持ち主であり、3人の中で唯一プロとしての経験があった。
BLANKEY JET CITYと名乗るこのバンドは1990年8月に、バンドブームの象徴とも言えるバンドコンテスト番組「三宅裕司のいかすバンド天国」、通称「イカ天」に応募。これは一瞬でもマネージャーという立場に身を置いた中村の思いつきだったという。「イカ天」はそれまでFLYING KIDS、BEGIN、たま、マルコシアス・バンプ、LITTLE CREATURESといった実力派のバンドを送り出し、出演したバンドのライブ動員が激増するほどの影響力があった。一方で話題性だけを狙ったような色モノじみたバンドも多く、番組を嫌う向きも強かった中での出演の決断だった。すでに番組は放映末期に差しかかっていたが、ブランキーは圧倒的な強さで5週連続で勝ち抜き「6代目グランドイカ天キング」を獲得して、いきなり東芝EMIレコードと契約を果たす。結成してわずか半年余りのことだった。
この「イカ天」でのブランキー登場時の衝撃は大きく、いまだに語り草となっている。すでに番組を観なくなっていた筆者も、たまたま偶然彼らの出演回を見て、脳天を殴られるようなショックを受けた。こんなすごいバンドが日本にいたのかと。そして旧知の仲だった中村がメンバーにいることで、彼らが日本のパンクロックの系譜の末裔に位置する存在であることもわかった。当時の東芝のブランキー担当ディレクター井ノ口弘彦氏は「みんながBOØWYやTHE BLUE HEARTSを目指している中で、彼らはまったく異質の価値観を持っていた」と証言する。バンドブームは陰りを見せ始めていたが、その末期に登場した正真正銘の大物だった。
一方、大学3年生となったチバのバンドはまだくすぶっていた。しかし大学の学園祭で演奏していたミッシェルを見て、チバの2学年下だったクハラカズユキ(Dr)が「カッコいい! でも自分ならもっとうまく叩ける」と直感し、半ば強引にバンドに加入する。1990年も終わりに差しかかった11月だった。やがて脱退したベーシストの代わりに当時クハラの先輩だったウエノコウジ(B)が参加。公式サイトではミッシェルの結成年は1991年となっているが、実際は1990年だったとクハラは明言している。このときが、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの真のスタートだった。だがそれが花開き、ミッシェルのロックが世界を震撼させるまでには、まだまだ長い時間が必要だった。
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1991年-1995年