筋肉少女帯インタビュー|「レティクル座妄想」から30年、あのとき筋少に何があったのか? (2/3)

バンドとしては勝負時だったから、「レティクル座妄想」は覚悟を決めて作った

──「医者にオカルトを止められた男」にはカップリングで、アルバム「レティクル~」より「さらば桃子」と「ノゾミ・カナエ・タマエ」の2曲が新録音のリメイクで収録されています。「ノゾミ・カナエ・タマエ」はさかのぼるとナゴムレコード時代にリリースしたアルバム(1987年3月リリース)のタイトルが初出です。

大槻 当時「ノゾミ・カナエ・タマエ」は草案みたいにアイデアを練ったんだけど、そこからうまくまとまらなくて、なかなか楽曲にならなかったんです。そこから「レティクル~」を作るときにようやく形が見えて。改めて何十年ぶりかで録音し直したんですけど、これは名曲ですね! 僕もたくさん楽曲を作ってきたけれど、筋肉少女帯の代表曲をいくつか挙げろと言ったら、そんなに目立つ曲ではないけれど、これは自信を持って世代を超えてみんなに……ある一定層には必ず響く曲だなとしみじみ思いました。特に大サビのところとかいいね! 素晴らしい!

一同 ハハハハハ。

大槻 昭和歌謡かと思うぐらい、すさまじいよさがありますね。

──1987年の時点ではレコーディングされませんでしたが、ライブでは何度か披露されてましたよね(「80年代の筋肉少女帯」に1987年7月のライブ音源を収録)。

大槻 あっ、そう? 僕は記憶ないや。

内田 やってました。最初はタイトルだけだったんですけど、オーケンが「作ってきたよ」って。それで何回かやったんだけど、いまいちパッとしなくて。その段階ではまだレティクルって言葉も全然ないし、そもそも歌詞が全然違ってましたね。

大槻 そうか……。この「ノゾミ・カナエ・タマエ」は僕、弾き語りでよくやってるんです。それも、ここぞってときにやる曲として。これは僕の中では自慢なんだけど、谷山浩子さんにすごく褒めていただいたんです。「あの曲いいわね」って。その頃、弾き語りを始めたばかりであんまりうまくできなかったから、ちょっと部分的にカットして歌ったら、「あら大槻さん、曲ちょっと短くしてたわよね?」って言われて。

内田 ハハハ。

大槻 うわ、ちゃんと聴いててくれてるんだ!と思って。あれはうれしかったな。

──「レティクル~」は「ノゾミ・カナエ・タマエ」という楽曲を核に制作をスタートしたアルバムだったんでしょうか?

大槻 いや、それはないよね。

橘高 もともとは移籍先のMCAビクターの新しいスタッフを含めた会議で最初にキャッチを決めて、「精神電波ヲ受信セヨ」っていうタイトルで日本武道館公演(1993年11月2日開催)をやったの。「レティクル~」リリース前に、まず。

大槻 そうなんだ? 前にやったの?

橘高 そう。まず武道館公演をやって、それを引き継ぐ形で「精神電波ヲ受信セヨ」というものを具現化したニューアルバムとして「レティクル~」を作ったの。

大槻 じゃあ、その「精神電波ヲ受信セヨ」っていう武道館のライブでは「レティクル~」の曲はやってないんだ?

橘高  やってない。「UFOと恋人」(1993年4月リリース)が最新アルバムだから。

内田 「俺の罪」とかやってたよ。

大槻 全然覚えてない……。

橘高 我々はレコード会社をMCAビクターに移籍して、マネジメントも変えて。ある意味バンドとしてはあそこが勝負時だったんだよね。バンドブームで出てきたバンドの数がだんだん少なくなって、音楽雑誌もちょっと減ってきて。ロックバンドはこれから淘汰されていくかもしれないという時期のリリースで、実際に我々の売り上げも一時よりはちょっと下がってきてたんだけど、結果的に蓋を開けてみれば「レティクル~」でセールスもまた回復して。ここから新しい体制で筋少は行こうとなったんだけど……そのあと2年の活動休止をすることになるという(笑)。だから35周年もそうだけど、筋少らしさをこの勝負のタイミングで徹底的に出さないことには、バンドとしては最後のアルバムになるかもわかんないわけじゃない? そんな時期だから覚悟を決めて作ったアルバムだっていうのは覚えてる。

橘高文彦(G)

橘高文彦(G)

大槻 なるほどー。

橘高 ほかのバンドには作れないであろうアルバムをこのタイミングで出せたっていう手応えはあったね。あと当時はまだタイアップ至上主義の時代で、メーカーもタイアップばっかりコンペに出してたんだよね。今回カップリングに入れた「さらば桃子」も「ストリートファイターIIターボ」のCM曲(歌詞をCM用に変更して「1,000,000人の少女」に改題)だし、「蜘蛛の糸」は「進研ゼミ中学講座」、「香菜、頭をよくしてあげよう」も大槻くんが司会してたテレビ番組のオープニングテーマ曲で。

大槻 あー、「ボイズンガルズ」(1994年4月から1995年3月までテレビ朝日系にて放送)か!

橘高 とにかくコンペが多くて、長くて30秒のデモ曲を提出するの。逆に言うと、その30秒でリスナーをキャッチできる強い楽曲をいっぱい書いてたの。その30秒が4分の曲になったとしても筋少の楽曲の力強さにつながったから、タイアップの作業も悪いことばかりでもないなってこの頃は思ってた。一瞬でキャッチしなきゃいけないのは世の常だから、これ以降もタイアップ関係なく楽曲の書き方としては必ず強いフックを楽曲に入れる癖が付いたね。

大槻 「蜘蛛の糸」は歌い出しが「大丈夫 大丈夫 大丈夫だよねぇ」。

橘高 そう。そこでプレゼンした。

大槻 僕あんまりタイアップを気にしてなくて。進研ゼミのCMの曲って言われて、その頃は“がんばれソング”みたいのがまだ流行っていたから、「がんばれ」って励まされないような、クラスの隅にいる中高生たちに共感してもらえる曲を作りたいと思って、その場でバババッと歌詞を書いてディレクターさんに見せたのを思い出した。

橘高 「蜘蛛の糸」もCMで使われるところは「大丈夫 大丈夫 大丈夫 大丈夫」だけど、ちゃんとフルで聴いてもらったら「ああ、こういうことか」とわかる(笑)。さっきのオカルト50年史のトラウマみたいに、ここから筋少に衝撃を受けた人は多かったと思う。フルで聴けば、自分をないがしろにしたやつらを「燃やして焼き尽くしてやる」んだと。

大槻 非常にルサンチマンに満ちた曲だよね。

橘高 CMを観た人はそうだと思ってないだろうから。そこはうまくいったなと思ってました。当時から。

あのさ、これだけははっきり言っておきたい

大槻 ……今思い出した、いろいろ。「レティクル~」を作る前に、こんなコンセプトで作りたいってメンバーに映画を観てもらったんです。石井輝男監督の「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」(1969年公開)という日本映画の中でもカルト中のカルトって言われてる作品があるんですけど、それをみんなに映画館に観に行ってくれって頼んだんだよね。

橘高 それを観てから制作に入ろうって大槻くんが提案したから、行きましたよ。

大槻 ちょうど新宿でやってたんですよ。今のJR新宿駅東南口を出たタワーレコードのあたりにあったシネマアルゴ新宿。懐かしいなあ。

──江戸川乱歩の「孤島の鬼」をベースにした猟奇的な作品ですが、ご覧になられていかがでしたか?

内田 余計混乱しましたね。どう作ればいいんだろうって(笑)。

大槻 狂気性っていうか、ダークな世界観だね。いやー、よくあんな時期にアングラの最たるものを作ろうと提案して、メンバーの皆さんもノッてくださったと思う。でも、あの頃のこと何も覚えてないんだよなあ。ツアーとか何ひとつ覚えてなくて、イヤんなっちゃう。

内田 オーケン、ちょっと病んでた時期だから。

橘高 このあと、筋少としては2年休むことになり、ソロ活動期間に入るのよ(1994年に橘高がバンド・Euphoriaを結成。翌1995年、大槻がアルバム「ONLY YOU」でソロデビュー)。

大槻 あのさ、これだけははっきり言っておきたい。「レティクル~」は僕のメンタルがよくなかった時期に作ったアルバムだと思われてるけど、実際はそのあとなんだよね。医者にオカルトを止められるのも、さらにもっとあとの話だから。

内田 「レティクル~」を作ったせいだよ。

橘高 効果が現れるまでに時間差があるからね(笑)。

大槻 「レティクル~」は楽しく作った記憶があるなあ。

橘高 当時、移籍先のMCAビクターからすごく歓迎されて、青山のビクタースタジオの4階にある、オーケストラも入るような一番広いスタジオを2カ月貸し切って録ってたもんね。あんなにアングラ感の漂うアルバムが、日本でも有数の超メジャーなスタジオで生まれたという。締め切り間際に時間が足りなくて、ビクターのほかのスタジオも押さえて、上でおいちゃん(本城)と大槻くんと作業してる間、俺が下の別スタジオでオーケストレーションを入れてたことを今でも覚えてます。とにかくいい環境で録らせてもらいました。

大槻 ビクターのレストランはおいしかったな。ミスター・スポックの髪型のおばちゃんがいたよね?

橘高 いた! いたって言っていいかどうかわからないけど(笑)。だんだん飽きてきて勝手な組み合わせで注文すると、チャーハンにカレーかけてくれたりしたね。

大槻 懐かしいなあ。

橘高 さっきバンドブームが終わり始めた頃だって言ったけど、実際はそのあとにヴィジュアル系ブームが来たんだよね。MCAビクターに我々が移籍したときのレーベルメイトも、X JAPANのhideちゃんと、LUNA SEA。ディレクターも一緒で。もともと筋少ってインディーズブームの火付け役的なところもあれば、バンドブームもあり、「レティクル~」以降はヴィジュアル系雑誌の表紙もやらせてもらったし。長いことやってるといろんな波が来るものだけど、振り返ると筋肉少女帯はどんな波にも付かず離れず来たところがあったなと思う。どっぷりじゃなかったところがまたよかったね。

大槻 あと、「レティクル~」のジャケットは、僕の小学校の同級生・占部克也くん──うらっこって呼んでたんだけど、彼がデザインしてくれたことも、とても思い出深いな。もう亡くなってしまったんだけど。素晴らしいジャケットですよね。

橘高 何案か持ってきた中で、大槻くんが「これだ」って即言ったのを覚えてる。全部ちょっと癖のあるやつだったけど、あのぐるぐるが、まさにこれだって。それが友達の作品だから、なおさらすごいね。

大槻 うらっこはMCAビクターを移籍するときに出したベスト盤(「筋少MCAビクター在籍時 BEST&CULT」)のジャケットも手がけてくれたんだけど、事前に見せてくれたジャケ案が箱のパッケージだったのね。そこに豚が描いてあって、うらっこがひと言「豚箱(留置場の俗語)だよ」って(笑)。「うらっこ、ちょっとそれはトンガリすぎだからやめてくれ」って言ったのを覚えてる。そういうトンガったアーティストとのコラボだったんだよね。

橘高 「レティクル~」のツアーはジャケットイラストが立体化されたステージセットで、ステージに2つの円柱が立っていて、いろんなところがぐるぐる、うねうねするの。照明のチェックを映像で見ながら「気持ち悪っ!」と思ったけど(笑)、アルバムの世界とリンクして、いいステージセットだったね。

大槻 「レティクル」のツアーは、とても盛り上がった印象だけはある。

橘高 どこも盛況だったし、追加も中野サンプラザホール2DAYSだから。さっき言った通りバンドとして勝負の時期にこのアルバムを出して、リリースの成績もよく、ツアーも盛況だったんで、今思えばここを乗り越えたことで35周年を迎えられたと思う。

大槻 おいちゃんの書いた「香菜、頭をよくしてあげよう」も素晴らしい曲だよね。ぶっちゃけ、最初はまあこういう曲もあっていいんじゃないかぐらいの気持ちだったけど、歌詞を書いて、キーボードが加わったら大名曲になったから、魔法がかかった気分。

橘高 大槻くんが歌詞で書いてる世界観があるし、我々は我々で楽曲のアレンジの世界観があって。おのずとゴールの想像はついてるけど、形になるまでメンバーすら最終形態がどこに行くのかわからない。それがこのバンドの面白いとこでもあったね。最初にきっちりデモテープを作ってその通りにやるんじゃなく、さっきの内田くんと俺みたいに思う方向が違うこともあるけど、それが筋少の作品としてできあがったときに驚きがあって。それがまた新しい曲を作るときのエネルギーにもなったと思う。