筋肉少女帯&三柴理デビュー35周年記念!大槻ケンヂ×内田雄一郎×三柴理ロング鼎談

筋肉少女帯がメジャーデビュー35周年を記念したオールタイムベストアルバム「一瞬!」を6月14日にリリース。さらに同じ日に、筋少のメジャーデビュー時のピアニストであり現在もサポートメンバーを務めているエディこと三柴理も、35周年記念ベストアルバム「LA PASSION」をリリースした。

筋少の「一瞬!」には新曲「50を過ぎたらバンドはアイドル」や、既発曲「サンフランシスコ」「高円寺心中」の新録版を含む32曲を収録。三柴の「LA PASSION」には「キノコパワー」「夜歩く」などの筋少曲、Queen「LOVE OF MY LIFE」やToto「CHILD'S ANTHEM」のカバーなどが収められている。

そこでこの記事では、筋少の大槻ケンヂ(Vo)と内田雄一郎(B)、そして三柴理による鼎談を企画。互いの35周年アルバムについての話にとどまらず、筋少と三柴の出会いのエピソードや、メジャーデビューアルバム「仏陀L」制作時の思い出など、貴重な話をたっぷりと語り合ってもらった。

取材・文 / 秦野邦彦

幻の名盤解放同盟に入るような曲を集めたのが「UFOと恋人」でした

──メジャーデビュー35周年おめでとうございます! まずは先日横浜と川崎で開催された「UFOと恋人」30周年再現ライブの感想から(参照:筋肉少女帯が「UFOと恋人」をライブで再現、疲れ知らずでライブをする方法に気付く)。これも35周年企画の一環ということですが、いかがでしたか?

内田雄一郎(B) レコーディングしてる頃のことをいろいろ思い出しましたね。当時、木目のきれいなベースを買いまして。これにお経を書いたら耳なし芳一ベースができるなと思って写経の本を片手に筆ペンでベースにお経をずっと書いていたんですけど、途中で気持ち悪いなと思ってやめました(笑)。完成していたら新崎人生(全身に写経を施したプロレスラー)より早かったかもしれない。

──大槻さんはライブ後に「オレ今日一度もライブ中に座らなかった! なるほど重要なのはセトリと気候だなと」とツイートされてましたね。

大槻ケンヂ(Vo) 学ぶべきところが多いライブでしたね。ライブにおける体力の配分は近年非常に気にかけているところで。これまでは矢継ぎ早に盛り上げることのみ考えてセトリを組んでいたんですけれども、今回はアルバム再現ライブということで曲順が決まっていたので体力の配分がしやすかったです。しかも、これだけバラエティに富んだ曲順でもお客さんは楽しんでくれることがわかって、とても興味深いライブでした。

三柴理 僕は「UFOと恋人」の頃はすでにメンバーではなかったので、もしも僕がレコーディングに参加していたらこういうピアノを入れたよね的なことが実験できてすごく楽しかったです。内田さんと橘高(文彦)さんも「完全再現ってわけじゃないから好きに弾いていいよ」と言ってくれたので。

内田 当時エディは「UFOと恋人」を聴いて、びっくりしたんだよね?

三柴 1曲目が「おサル音頭 ~BORN TO BE WILD」というロックにあるまじき音楽だったもんだから、僕の友達でかつて筋肉少女帯のメンバーだったムー(中村ムー哲夫)から「三柴くん大変だ! 大槻がおかしくなっちゃった!」と聞かされて(笑)。

大槻 根本敬さん、湯浅学さんが作ってた「幻の名盤解放同盟」という60~70年代の奇妙な歌謡曲を集めたコンピレーションアルバムに僕は当時ものすごく影響を受けていて。筋少で幻の名盤解放同盟に入るような奇妙な曲ばかりを集めたアルバムを作れないかなと思って制作したのが「UFOと恋人」でした。

筋肉少女帯「UFOと恋人」ジャケット

筋肉少女帯「UFOと恋人」ジャケット

新東京正義乃士と筋肉少女帯が出会った日のこと

──三柴さんはインディーズ時代、新東京正義乃士というバンドに在籍していたときに大槻さん、内田さんと出会ったそうですね。

三柴 空手バカボンと新東京の対バンが最初です。もともと僕はその対バン以前に観た空手バカボンのパフォーマンスに衝撃を受けて、レコード(「バカボンのススメ」)も買ったんです。ただ、クレジットを見ても内田さんは“ハヤブサのユウ”と書いてあるだけで、実態がまるでわからなくて。このハヤブサのユウって人はきっと影の番長的な怖い人だろうと思ってました(笑)。

内田 こちらこそ新東京を見て衝撃を受けました。新東京の人はみんな服装が地味だったから、音大を出た30代ぐらいの人だと僕らは思ってた。観に来てくれても「あの人また来てるよ、どうしよう」って(笑)。

三柴 それから筋肉少女帯を知って、渋谷屋根裏(2013年に営業休止したライブハウス)に観に行ったんです。最初に観たときは大槻さんが体中にガムテープとか包帯を巻いてて、「燃えよドラゴン」みたいな怪鳥音をずっと発しながら歌ってると、それがどんどん剥がれてくるんです。これはすごいぞと思って友達を誘ってまた行ったら、その日は普通の格好で出てきて(笑)。いい意味で裏切りがあるバンドだなって興奮したのを覚えてますね。日本にこんなバンドがあったのかって観点で見てました。

80年代の大槻ケンヂ(Vo)。

80年代の大槻ケンヂ(Vo)。

大槻 その頃、おいちゃん(本城聡章)とはもう知り合いだったんじゃないの?

三柴 KERAさんとおいちゃんは知ってましたね。新東京で「あつまり」というオムニバスアルバムに参加したとき、レコーディングを有頂天のタボさんがやってくれたんです。そのタボさんから本城くんとつながりができて。僕がやっているTHE金鶴っていう映画音楽のユニットも最初はタボさんと2人でやっていて、本城くんも三味線で参加してくれてたんです。

内田 おいちゃんは筋少と有頂天を同時にやってて、「今度、三柴を連れてくるよ」って言ってたんだよ。

大槻 あるときスタジオに行ったらエディが筋少のリハにいて、ピアノでフレーズを両手でババッと弾いてるのを見て、すごいなと思った記憶がある。

内田 「とろろの脳髄伝説」(1985年発表の筋少のアルバム)のレコーディングには三柴くんがゲスト参加したんだけど、おいちゃんはそこで辞めたんだよね。新東京は僕も大好きで、シンフォニックロックをやってたんだけど、本人たちはロックはあまり知らなくて。子供の頃からクラシックを勉強していた人たちがロックをやったらこうなった、っていうのがすごく面白かったです。

三柴 僕はそれまでクラシック一辺倒でロックをほとんど知らなかったので、筋少に入ってからいろんな曲を内田さんに教えてもらいました。インディーズの頃の筋少は大槻さんがメンバーに電話をかけて「この日リハーサルやるんだけど空いてる?」とか、ブッキングの作業を全部やられてたんですよね。それを新東京では僕がやってたんですけど、最後のほうはすごくつらくなってバンドは解散となりました。

──今回の三柴さんのベストアルバム「LA PASSION」に収録されている「Period」という曲は、もともと新東京の楽曲だったそうですね。

三柴 新東京が終わるときに、ここで一旦けじめをつけようという意味を込めて作った曲です。そういう事情があった曲なので、再始動1作目のアルバム「新人」のときに内田さんからこの曲を入れてほしいって言われて、また新しくやっていこうというイメージで「Period」と「黎明」を入れたんです。

内田 そうだったんだ? すっかり忘れてた。すごく好きな曲だったので。

三柴理「LA PASSION」ジャケット

三柴理「LA PASSION」ジャケット

近年になって「なるほど! エディの言ってた通りだ」と思った

──35周年の起点となるメジャーデビューアルバム「仏陀L」のお話もぜひ。オリジナリティあふれる音楽性と超絶テクニックによる演奏で、名盤の誉れ高い1枚です。

大槻 たいして売れなかったですけどね。改めて聴き直して、僕のボーカルに関して言うと、これは歌ではないです。ただの若者のシャウトです(笑)。よくこれをOKテイクにしたなと驚いてしまいますね。

──大槻さん、三柴さんがおばあさんに囲まれたジャケット写真もインパクトありました。

大槻 筋肉少女帯のジャケットは僕が「こんな雰囲気で」と言って作ったものがけっこうあるんです。「仏陀L」は僕が最初に“おばあさんたちの中で困惑しているオーケン”みたいなラフ画を描いて。当時22歳のオーケンの心象風景ですね。

筋肉少女帯「仏陀L」ジャケット

筋肉少女帯「仏陀L」ジャケット

三柴 撮影場所が「憩いの家」なんです。お金持ちのお年寄りが集まって遊ぶ場所。そこでジャケット撮影に参加したい人を募集したら、みんなものすごくおめかしして来たんです。

大槻 「無表情とか険しい表情をした老人たちの中で困惑している自分」をイメージしていたんだけど、おばあちゃんたちがニコニコ笑ってくださって、ほんわかしたジャケットになったんだよね。それはそれで今となればいい作品だと思ってます。

三柴 僕が先にメイクが終わって、おばあさん方と和気あいあいとしゃべってたら、すごく好かれちゃって。「乃木将軍のような立派なお髭ね」とか言われて(笑)。それで記念写真状態になったんだと思います。「スーツも玉虫色で」って。

大槻 あの服、俺は原宿のダブルデッカーってお店で作ってもらった記憶があるな。そういえば筋少ってデビュー時にアー写を撮ってないんだよね。信じられないことに。しばらくして日清パワーステーション(1998年に閉鎖された新宿のライブハウス)の階段の踊り場で「アー写がないからここで写真撮らせてよ」ってレコード会社の人がカメラを持って来たんだよ。同時にTOY'S FACTORYでデビューしたJUN SKY WALKER(S)はアー写があったから、よっぽど僕らは期待されてなかったんじゃないかと思うんだけど。

三柴 たぶんそれまでになかった音楽性と詞の世界だから、レコード会社の人もこれが売れるかどうか手探りの状態だったんでしょうね。僕はメジャーデビューしようがしまいが、大槻さんの詞の世界はすごいなと思っていたので、それを音楽でどう表そうかということばかり考えてました。歌い方も特殊じゃないですか?「それに耐えうるだけの音楽を作ろう。それが認められるかどうかわからないけど、やってみたい」という実験でもあったんです。

左から三柴理、大槻ケンヂ。1988年7月24日に行われた兵庫・チキンジョージ公演の模様。

左から三柴理、大槻ケンヂ。1988年7月24日に行われた兵庫・チキンジョージ公演の模様。

大槻 当時エディがよく「大槻のボーカルはThe Pop Groupのマーク・スチュワートみたいだ」と言ってたよね。

三柴 一発でそう思いました。政治色のないThe Pop Groupだって。

大槻 でも、僕はその頃マーク・スチュワートのことをよく知らなくて。近年観たり聴いたりするようになって「なるほど! エディの言ってた通りだ。この路線で35年やってもよかったな」と思ったんだよね。遅いよって話だけど(笑)。

三柴 大槻さんの詞の世界は僕にとって非常にデカいんです。弱い立場の人とか、心が非常に繊細な人たちの生き方。体制側につけば楽だろうけど、それができない人だっているんだ──そういうところに共感して歌や詞が僕に刺さったんでしょうね。しかも同じことを違う人が真似して言っても伝わってこない。その世界をインストでも表せる音楽力がなきゃダメだと思ったんです。それで必死でがんばったんだけど、残念ながら2枚目(「SISTER STRAWBERRY」)までやって力尽きました……。