KANが17枚目のオリジナルアルバム「23歳」を11月25日に発表した。今作には彼が音楽に情熱を燃やし毎日を懸命に生きていた23歳の頃の記憶を歌った表題曲をはじめ、ディスコ、ハードロック、スウィングジャズ、ピアノバラード、テクノポップといった多彩なジャンルの楽曲10曲を収録。かねてより親交の深いTRICERATOPS、秦基博がゲストアーティストとして参加しているほか、昨年急逝したヨースケ@HOMEとのコライト曲も今作で初めて音源化された。音楽ナタリーではアルバム発売を記念してKANにインタビュー。自身の原点でもある23歳の頃に過ごした日々や、収録曲にまつわるエピソード、また楽曲制作を共にした親愛なる仲間たちについてたっぷり語ってもらった。
取材 / 成田邦洋 文 / 瀬下裕理 インタビュー撮影 / 朝岡英輔
あれもこれもやるのが僕
──おひさしぶりです。前作「6×9=53」から約4年9カ月ぶりのアルバムリリースとなりました。
この歳になってくると新作を出すのは大変です。でも前のアルバムを出したときに比べると、かなりハイペースですよ(笑)。僕はデビュー直後2年でアルバムを3枚出したりしていましたが、今はあの頃とは音楽業界のムードも違いますし、僕自身がそう簡単に新しい作品を出せないということもある。曲を発表するたびに、自分の中で作品に対するハードルが上がっていくんですよね……。
──しかし待望の新作、とても素晴らしかったです。コンセプトは「10曲10ジャンルのノン・フェイドアウト・アルバム」というものでしたが、全曲まったく異なるジャンルの楽曲にするというのは最初から意識されていたんですか?
それは今作に限らず、昔から常に意識していることですね。僕自身、いろいろなタイプの曲をアルバムに入れたほうが作っていて楽しいから。ポップスなので、“◯◯風”な曲をいくら作ったっていいじゃないかと。歌詞も曲もアレンジも全部僕1人で作っているわけですから、よほど手を広げないとこぢんまりしちゃうんです。もちろん同じ曲調だからこそその人の世界観が成り立つ場合もあると思いますが、僕の場合はいろいろやるほうが好き。「あれもこれもやるのが僕です」という。
──それはKANさんのルーツであるビリー・ジョエルやThe Beatlesの作品にも通じるものがあるように感じます。
2組ともアルバムによって全然毛色が違いますからね。でも「ノン・フェイドアウト・アルバム」と謳っているのは、結果的にただそうなったからです(笑)。例えばアルバム発売に先駆けてリリースした「ポップミュージック」なんかは、20年前だったらサビを繰り返してフェードアウトで終わらせていたと思うんです。でも自然とそうはならなかった。そんな感じでアルバムができあがってから、「あ、全曲終わり方がフェードアウトじゃないや。やった!」みたいな(笑)。明確にいつからか変わったかはわからないですが、だんだんと曲のエンディングまで意識して作ろうと考えるようになりましたね。
僕が23歳だった頃
──さて、今作の表題曲「23歳」はご自身の実体験がもとになっているという話ですが、まずはKANさんが23歳だった頃、どんなふうに過ごされていたのか聞かせてください。当時、KANさんは大学5年生だったんですよね?
はい。1985年、僕は23歳で大学5年生でした。というのも、当時僕が通っていた法政大学はまだ学生運動の名残があって、いわゆるロックアウトというやつが行われてたんです。校舎が鉄板で閉鎖されて誰も出入りできないようになっていて、そういう運動をしている人たちが常に校門の前にいて。そのせいでテストはなくなったんですけど、その代わりとしてレポートの課題が鉄板に貼り出されて、各自レポートを郵送して単位を取るという仕組みだったんです。で、その頃僕はバイトとバンドばかりしていて、大学にもほとんど行かず友達も少なかった。でもその中に1人、すごく頼れる人がいて。彼は僕がやっていたアマチュアバンドの歌詞も書いてくれてたんですが、さらにレポート課題をどう書けば単位がもらえるか、全部僕に教えてくれたんです。でも唯一、僕が取っていたフランス語だけ彼にとっては専門外で……それで僕はフランス語の単位を落として留年しました(笑)。
──KANさんは大学生の頃からフランス語を勉強されていたんですね。
第2外国語で履修してました。でも、そのときはフランス語って素敵だなと思ったから取っていただけですよ(笑)。
──当時のバイト生活はいかがでしたか?
最初はカントリーウエスタンバー、次は原宿にあったパブ、そのあとはディスコで働いていました。一時は銀座のイタリアンレストランのバイトも掛け持ちしていたんですが、料理にすごく興味があったので、真剣に料理人になろうか迷った時期もありました。
──そんな中、当時ディスコで流れていた音楽がご自身の礎になったという。
今考えるとそうだと思います。音楽的な話をすると、僕は大学に入ってからしばらく自分中心のバンドをやっていたんですが、そこではアレンジのことはあまり考えずに適当にみんなに合わせていたんです。それで、そのバンドを解散することになってすぐ、青山学院大学でフュージョンのバンドをやってる先輩に「今度はうちに入ってくれ」と言われて。加入してみたら、フュージョンをやってる人たちは「もっとベースをこうしたほうがいいんじゃないか」「だったらキーボードはこうしよう」とか、アレンジのことをいちいち考えるんですよ(笑)。最初は慣れなかったんですけど、次第に自分でもそういうことを考えるのが楽しくなってきて。
──新たな考え方が芽生えてきたんですね。
しかもちょうどQX7(シーケンサー)と、今でも使っているヤマハのRX11(ドラムマシーン)とDX7(シンセサイザー)を買った頃だったんです。まだCP80(エレクトリックグランドピアノ)のローンが残っているというのに、40万円以上かけてその3つを購入して。そういう打ち込み機材を使い始めたり、フュージョンバンドに入ったことによって、アレンジをするという発想がだんだん芽生えてきた。それでイチから、すべてのフレーズを自分で作り始めた頃、ディスコでバイトをして、毎日最新の洋楽を6時間大音量で聴き続けた。当時はイギリスのニューウェイブやニューロマンティックスのようなデジタルになりかけの音楽が主流だったので、すべての曲をそういう視点で聴くようになったんです。
──自分で作曲やアレンジをするときに、どう生かすかという視点ですか?
そう。どこにどんなフレーズが入っているかとか、楽器はどんなことをしているかとか。僕のアレンジの方向性というか、そういうもののルーツがあの頃にあります。あと僕は作曲するときに、全体を譜面というより“表”に置き換えて考えることが多くて。例えば1小節を横16マス、上下の軸は音程と考えて、どこにどう音符を入れていくかというように。これも学生時代にやったことが基礎になっていて、それこそアルバムの「ポップミュージック」「メモトキレナガール」や、過去作の「桜ナイトフィーバー」や「REGIKOSTAR ~レジ子スターの刺激~」(2010年発表)なんかもそういう作り方をしています。
──なるほど。音楽の聴き方は当時と今とでは変わりましたか?
変わったと思います。23歳のときはパブのマスターから不要になったレコードをもらったり、ディスコでDJに教えてもらった曲を貸しレコード屋で探して、自分でカセットに落として聴いたりしてました。レコード1枚を買うのも大変だったから、入手した曲はとにかく聴き込んだし、そういうものが今も自分の中に強く刻み込まれています。
──具体的には、その頃はどんなアーティストを聴かれていたんですか?
やっぱりThe Beatles、ビリー・ジョエル、スティービー・ワンダーはたくさん聴きましたね。あとディスコやパブで知ったハワード・ジョーンズ、Duran Duran、Culture Club、Wham!、ABCあたりはアルバム最低1、2枚聴きました。ああ、The Style Councilも特によく聴いたかな。ライブも観に行ったんですよ。あとは80年代に日本でヒットしたアーティストの作品は必ず聴いていたと思います。
──なるほど。表題曲には、そのあたりの要素がたくさんちりばめられていますよね。細部まで作り込まれたグルーヴィーなトラックにうねったメロディが乗せられていて、聴いていて楽しかったです。
ありがとうございます。これは2018年から常に頭の中で改良を加えながら作っていた曲なんです。約2年間、ずっと考え続けて、やっと5月にレコーディングできました。全体的な音は当時も聴いていたスティーヴィー・ワンダーを意識して作っていて、コーラスもスティーヴィーのライブでコーラス隊が3人並んでいるようなイメージで入れました。とはいえ僕はあくまでもポップスとして作っているので、一部の人が「あ、これはスティーヴィーだ」って気付いてくれればいいな、くらいの気持ちですけど(笑)。
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20年以上ぶりに踊る57歳