梶浦由記デビュー30周年&FictionJunction「PARADE」発売記念インタビュー

劇伴作家としても広く知られる梶浦由記が、自身のソロプロジェクトFictionJunctionのニューアルバム「PARADE」をリリースした。

オリコンアルバムランキング週間チャート7位にランクインし、CDの品切れ店が続出するなど大きな盛り上がりを見せている今作。FictionJunctionとしては実に9年ぶりのアルバムとなるこのアルバムには、FictionJunction feat. LiSA名義による「from the edge」や、藍井エイル、ASCA、ReoNaがボーカルで参加した新曲「蒼穹のファンファーレ」、Aimerをボーカリストとしてフィーチャーした「櫂」など、梶浦節を感じさせる濃密な12曲が収録されている。

See-Sawとしてメジャーデビューしてから30年。これまでさまざまなボーカリストやクリエイターたちと、多種多様な作品を作り上げてきた梶浦に、30周年を迎える心境や「PARADE」の制作にまつわるエピソード、年長者としての現在地を聞いた。「まだまだパレードは続きます」。そう軽やかな笑みを浮かべながら語ってくれた梶浦の思いとは──。

取材・文 / 須藤輝

「やりたいことを全部やっちゃおう!」と続けていたら30年

──梶浦さんは今年の7月に音楽活動30周年を迎えます。具体的にはご自身が在籍したバンド、See-Sawが1993年にメジャーデビューしてから30年が経つわけですが、キャリアを振り返ってターニングポイントになった出来事を挙げるとすれば?

一番のターニングポイントは、映画「東京兄妹」(1995年公開)の劇伴を手がけたことですね。もともと私は映画はほとんど観ていなくて、最初に「映画の音楽を作りませんか?」と打診されたとき、「そういえば、映画には音楽が流れていたかもしれない」と思ったぐらいで。だから劇伴の仕事は自分で選んだものではなくて……See-Sawというバンドでデビューしたもののさっぱり売れず、その後、当時の所属レーベルでインストゥルメンタルの曲を集めたコンピレーションアルバムを出す企画があって、そこで私は初めてインスト曲を3曲レコーディングしたんです。そのうち1曲はコンピレーションに収録されて、残った2曲を、事務所のスタッフが「よい曲だから」と市川準監督に聴いていただいたんですよ。

──へええ。

ちょうどそのとき市川監督は新作映画、つまり「東京兄妹」の中で、恋人たちが街をさまよう3分ぐらいのシーンでかける曲を探していたらしくて。そこで「梶浦さんの曲を使いたい」「どうせならサントラ全部やらないか?」という話になり、私自身はポカーンとしているうちに映画の音楽を作ることになったんです。そしたら、映画を観てくださった方から「アニメの音楽をやりませんか?」というお話をいただきまして。でも、私はアニメも、幼稚園のときに「ムーミン」にハマって以来そんなに縁はなかったので「アニメというものも、この世にありましたね」ぐらいのところからスタートしているんです。そういう意味では、出会った方々に引っ張られてこの世界に来たようなもので。

──梶浦さんの経歴を拝見するに、「狙ってそうはならないですよね?」と思っていましたが……。

本当に巡り合わせていただいて。私が若い頃は、アニメーションの音楽は作曲家にとってまだプライオリティが低い時代だった印象があるんです。だから、私みたいな劇伴の経験がほとんどない人間にも、声をかけてくださる方がいらした。初めてのテレビアニメの仕事は真下耕一監督の「EAT-MAN」(1997年放送)という作品だったんですが、当時の私はアニメの「ア」の文字も知らないし、背景音楽とはどういうものかもわかっていなかったので、バッチンバッチンに音が詰まった曲も書いていて。それを真下監督に面白がっていただきつつ、逆に「そうじゃない音楽も必要だよ」ということも教えていただいて。今はもうそんなのは無理というか、アニメの音楽は人気がありますから、経験も技術もない人にいきなり話がくることは難しいと思います。だから、すごくツイていたんですよ。

──ツイていたとして、そこで結果を残せないと次につながりませんよね。

なんだかんだでアニメの劇伴は自分に合っていたと思うんです。もともと私は、子供の頃からオペラとか大袈裟な音楽が好きで。クラシック音楽が大好きな家庭で育っていて、特に父は自分でも歌うので、小学校の低学年からピアノで歌曲の伴奏をさせられたり、毎月オペラの公演にも連れていってもらったり、すごくありがたい音楽教育を受けていたんですね。でも、私がSee-Sawでデビューした90年代前半はいわゆるガールポップがブームで。それこそオペラだったり、あるいは当時好きで聴いていたニューエイジやワールドミュージックの要素は、バンドのメインにはしていなかったし、デビューする際に削られた部分も大きかったです。

──ありましたね、ガールポップブーム。

ところがアニメの仕事をやってみたら、自分が好きだった音楽がぴったり合うんですよ。アニメの世界では人がバタバタ死ぬし、悪役が高笑いする。たぶん、悪役が高笑いするのはオペラとハリウッド映画とアニメぐらいで、そういうシーンでかける大袈裟な音楽が求められて「あ、ここではやりたかったことができる」と。ただ、私は音大を出ているわけでもないので、当時は「今は面白がってもらえてるけど、あと何本できるかわからない」と考えていて。「アニメの仕事をもらえてる間に、やりたいことを全部やっちゃおう!」と必死になっているうちに30年経ってしまったというか。偶然、連れてきてもらった場所がとても居心地よくて、「この場にい続けられるものならい続けたい」と思っていたら「いいよ」と言われたような感覚ですね。

梶浦由記

梶浦由記

「あ、売れなきゃ好きなことなんてできないんだ」

──先ほどオペラやニューエイジの話が出ましたが、梶浦さんの音楽的なバックグラウンドって、どうなっているんですか?

私の世代って、自然といろんな音楽が耳に入ってきたと思うんですよ。もちろん最初にクラシックに触れたという点で両親の影響はものすごく大きいんですけど、私は小学3年生から中学2年生まで、年代でいうと1970年代後半はドイツにいたんですね。だから環境的にオペラも身近だったし、クラシック以外では兄の影響でまずThe BeatlesとWingsを聴いていたんです。あと、ドイツのヒットチャートはほぼUKチャートだったんですよ。当時はAbbaが絶頂期を迎える頃で、さらにQueenやThe Policeといった魅力的なバンドが山ほど出てきていて。

──うらやましい環境ですね。

それから高校に入学した80年代初頭に、今度は第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンが始まるんですよ。要は、シンセサイザーのピコピコした音がどんな曲にも入ってくる。そのあとはワールドミュージックやアンビエント、ニューエイジが流行って、それらが普通にチャートインする時代だったんですよね。だから、いろんなものをごちゃ混ぜにすることに抵抗がないんじゃないかな。例えばループにワールドミュージックが乗っかっていて、そこにクラシックが被さっていることを不自然に思わないみたいな。私も何か策略があったわけじゃなくて、あまり考えずに曲を作っていたらこうなった感じはあります。

──See-Sawは1995年に一旦活動を休止しますが、2001年に活動を再開させて以降、ニューエイジやワールドミュージックの色が濃くなっていると思います。

See-Sawは、実はアマチュア時代はわりとマニアックなことをやっていたんです。でも、メジャーデビューするにあたって「そういうのは日本では受けないから」と、プロのアレンジャーさんに全部ポップな感じに直されまして。内心「うわ……」と思いつつ「なるほど、プロになるってこういうことなんだな」と、今思うと間違った認識なんですけど、納得はしていたんです。で、活動休止中に劇伴をやり始めたら、今度はアニメの制作側から「歌モノもやってみない?」と言ってもらえたんですよ。しかも特に規制もなく、「女の子のバンドはこうあるべき」みたいな決め付けもなかったので、アマチュアの頃に戻ったような気分でした。

──それが、「EAT-MAN」の真下監督が手がけたアニメ「ノワール」(2001年放送)の挿入歌「indio」ですか?

はい。今「アマチュアの頃に戻った」と言いましたけど、デビュー当時の私に「indio」のようなアレンジができたかというと、できなかったと思うんですよ。技術も知識も足りていなかったので。だから、あのときいろんな方にSee-Sawの曲をアレンジしていただいたことは決してマイナスではなく、むしろいい経験になっていて。それを経ていろんな劇伴のお仕事をいただいて、自分なりに勉強したことでやっと「こうすれば、自分が目指していたサウンドに近付けるんだな」とわかったんです。そういう意味ではタイミング的にもよかったし、環境的にも自分の好きなことをやっても誰も怒る人がいなかったので、すごく伸び伸びとできた感じはありましたね。

──伸び伸びとやった結果、「機動戦士ガンダムSEED」(2002年~2003年放送)のエンディングテーマ「あんなに一緒だったのに」が大ヒットした……という言い方は品がないかもしれませんが。

いやいや、大事なことです。デビューが決まったミュージシャンは、たぶん10人いたら9人は「売れなくてもいいから、好きなことやろう」と考えるものだと思うんですよ。もちろん私たちもそうだったんですけど、だいたいデビューした直後に「あ、売れなきゃ好きなことなんてできないんだ」と気付くんです。結局、仕事で音楽を作るということは、誰かにお金を出してもらうということだから、好き勝手やるには好き勝手やるだけの力がないと、お金を出している人たちに「うん」と言わせられない。私はたまたま劇伴のほうである程度認知されていたので、「歌も好きにやっていいよ」とお許しが出ただけなんです。しかも「ガンダム」というビッグタイトルに関われたことで、See-Sawという、どちらかというと聴く人を選ぶような音楽をやっていたバンドにとってちょっとあり得ないぐらいのヒットが生まれ、今度は「梶浦って、歌も作るんだ?」と認識してもらえた。なので、本当にありがたかったですね。