電波ソングが土着の歌
──最後のインタビューなので、ここからはちょっとグループの歴史を振り返ってみたいと思います。秋葉原ディアステージで働いていたみりんさんが2008年、もふくちゃんに「グループアイドルをやりたい」と直談判したのがでんぱ組の始まりでしたよね。
みりん もふくちゃんが言ってた“電波ソングを歌うアイドル”っていうアイデアに当時の私はビビッときたんです。私はSPEEDみたいなボーカルダンスユニットをやりたかったけど、確かにそっちのほうが新しいし売れるかもしれないぞ!と思って。
もふく 自分は“土地マニア”だから、デトロイトでテクノが生まれて沖縄からSPEEDが出てきて川崎ではヒップホップ、みたいにその土地と結び付いた音楽をやらないと嘘になると思ってたの。だから秋葉原でお店やっててみりんちゃんがアイドルやりたいってなったら電波ソングとかアニソンとかエロゲの曲とか、そういうのが土着の歌だよなって。電波ソングを選んだのは自然な流れでしたね。
──みりんさんは初期の楽曲についてどんなふうに感じてました?
みりん あの頃は曲への思い入れみたいのはまだ特になかったかも。それより「アイドルが与えられた曲に対してああだこうだ言うのは違う。とにかくこの曲を150%でやるしかない!」みたいな気持ちでしたね。
もふく 当時はまだ素人なのに妙なプロ意識みたいのがあったんだよね(笑)。
みりん とにかくなんにも知らなかったんで、電波ソングも渋谷系もサブカルもよく知らんし、もふくちゃんの話もほとんど何言ってるかわかんなくて、でも私は理解する必要はないと思ってた。私が自我を出すとおしゃれじゃなくなるからクリエイティブは人に任せて、もらったものを全力でやろうって、それは初期からずっと思ってました。
もふく ほかの子たちが「そんなのやりたくないです」って言いそうなことも全部150%でやってくれたからね。普通は言うよ、「エロゲの歌はやだ」「こんな服着たくない」って(笑)。
みりん だってまずプロデューサーがいること自体がぜいたくだと思ってたから。それまでの人生で誰かに何かを期待されたこともなかったし、自分たちのために何かを考えて作ってくれる人がいるっていう、その状況がうれしかったんです。
もふく みりんちゃんのそういう純粋さというか余計なことを考えない性格に助けられてたかもしれない。私が好き放題やってることに対して文句を言わず全力で打ち返してきて、ほかのメンバーもそれにならってくれて、そんなふうについてきてくれたから、でんぱ組.incができたんですね。
音楽好きに見つけてもらうまで
──でんぱ組.incは1stアルバム(2011年発表の「ねぇきいて?宇宙を救うのは、きっとお寿司…ではなく、でんぱ組.inc!」)の頃から一貫して「宇宙を救う」という壮大なテーマを掲げていますが、これはやはりP-FUNKにインスパイアされてるんですよね。
もふく もちろんP-FUNKと、あとは「マクロス」とかを含め、アニメの影響もあるかな。アイドルが歌を歌うと兵士が武器を捨てるみたいな、「ちょっと、そんなバカな」と思えることが、大きな感動につながるファンタジーさが最高だなって。それで言うとマイケル・ジャクソンとかも同じような世界観を持ってたと思うし、自分は音楽の何が好きかって黒人と宇宙、個人と宇宙、ミクロとマクロがバシッとくっつく瞬間みたいのが好きなんですよね。そこにエモさを感じてる。
──秋葉原、宇宙、電波ソングといったコンセプトは若干マニアックな気もしますが、売れる予感はあったんですか?
もふく そりゃありましたよ!
みりん もちろんもちろん!
もふく こんなにいいんだから売れないわけないと思ってた。黒人と宇宙がつながって売れなかったことなんて一度もないんだから(笑)。でも今思うと「でんぱれーどJAPAN」を出したときは「なんだこの曲」って既存のファンに叩かれたよね、一瞬だったけど。
──でも「でんぱれーどJAPAN」は今もライブの定番曲ですし、あの曲のカオスな音楽性は今のでんぱ組.incと地続きですよね。
もふく うん、まさにその通りで「でんぱれーどJAPAN」が音楽シーンと初めて接触した記念の曲なんです。Wiennersっていうインディーズのバンドがアイドルに楽曲提供して演奏もするという、そんな形はまだあんまりなかったし、音楽好きな人から見つけてもらうきっかけになった。オタクからは変な曲だって言われたけど。
みりん 確かに。初披露のときにシーンとしたのは覚えてる。
もふく あそこまで歌詞がぶっ飛んだ曲もなかったしね。いきなり「♪ニッポン・デンパ・スケット・ボーイ」だから(笑)。今でこそ「何歌ってんのかわかんないのがでんぱ組.inc」みたいなのが定説だけど、当時は普通に「わけわかんない」って野次られて、私たちは「これ世界一いい曲なのに! なんでわかんないんだ!」って憤ってた。
──すぐに理解されなくても自分たちは間違ってないと信じてた?
もふく 信じてた。藝大で4年間いろんな国のいろんな土地のいろんな音楽を勉強して、それを踏まえて「やっと自分の考える最適解が出せた」と思えた曲だったから、とにかく自信はあったんです。それで「もっとやってやる、殺してやる!」ってなって「Sabotage」や「でんでんぱっしょん」が生まれたから結果よかったんだけど(笑)。
──みりんさんは逆風を肌で感じて不安になったりはしなかったんですか?
みりん なかったです。売れるためにはディアステージだけじゃなく外の世界の知らない人に見てもらわなきゃと思ってたから。でも結局ディアステージのお客さんもわけわかんないままついてきてくれたんですけどね。
もふく そこから「くちづけキボンヌ」とか「強い気持ち・強い愛」があって、渋谷系の人たちも話題にしてくれたんだよね。
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自分の人生を武器にする