杏沙子|私だけの景色に向かって羽ばたくとき

“主観”の映像から生まれた「ファーストフライト」

──歌詞に「あなた」や「私」という人称を使ってないですよね。それはあえてですか?

杏沙子
杏沙子

あえてです。プロットを読んだときに浮かんだ曲のイメージが“主観”の映像だったんです。自分の目から見える映像だけが浮かんで。自分が雲の中を突っ切ったり、暗闇を通ってたりしてた。その景色を描きたいと思ったんです。私、地元の鳥取に帰るときはだいたい飛行機で、窓から空を見るのが好きなんです。飛行機の窓から見る空は、きれいな瞬間もあれば、曇ってて何も見えない瞬間もある。その、目の前でさまざまに移り変わっていく景色と自分の心の中の景色だけを描きたかった。夢を追いかけることってすごく孤独で、自分と目の前の景色しか見えないときもあると思うんです。それを歌詞にしました。

──風景というよりも視界ですよね。楽曲の主人公の視界だけが見えている曲というか。

そうですね。

──夢に向かってがんばっている人へのエールソングではありますが、歌詞では焦りや苦しさ、不安、迷い、孤独感を正面から描いてますね。

夢を追うというか、自分が目指してる場所に向かっていくことは素晴らしいことだし、夢があるだけでもすごいと思うんです。でも、それを追いかけている間に起きることは、苦しいことのほうが多いなと。そんなことを考えていたときに、イチロー選手が引退したんです。引退会見を観ていたときに現役時代、孤独で苦しんだことを話していて、それを聞いたときに孤独を書きたい、と思ったんです。「がんばれ! 行けるよ!」みたいな応援歌じゃなくて「苦しい!」と全力で歌うというか。

──イチロー選手の引退会見の言葉にも影響されたと。

アメリカですごく孤独だったけど、自分の限界を少しずつ超えていくことで新しい自分に出会えて、新しい景色にも出会えた。それを積み重ねていくことでしか景色は変わっていかないとおっしゃっていて。それと、誰よりも野球が好きで、誰よりも野球と向き合ってきたと話していたのも印象的でした。憧れや好きな気持ちがあるから、不安や苦しみを乗り越えられるし、がんばれるという。夢を追う人たちに対して、自分が今いる状況がどれほど憧れていたものかを忘れないでほしいという思いがあって、「この空は美しい」というポジティブな言葉で終わるようにしました。

──ちなみに杏沙子さんが見たい景色はどんなものですが?

具体的に目指してる場所はないんです。ただずっと自分がいいと思うものを作って、それが聴いてくれる人の生活の中で生きて、長く歌い続けられたらと思っています。でも、先ほどお話ししたように曲を書いてるときに正解にたどり着く感覚があるんですね。そういうことがあると、自分が何かを目指してるのかなと思う気もするし、いつか「ゴールに着いた」と思う瞬間が来るのかなと思ったり。でも、そもそも音楽って具体的なゴールがない世界だと思うんです。だからこそ苦しいこともある。不安な思いやマイナスな感情も多いけど、それを超えることによってこの曲で言う「目指す場所」に近付いていると思うんです。

──乗り越えることでちょっとずつ夢に近付いていく。

そう。だから不安とか、逃げたいとか、迷うとか、苦しいという思いは必要不可欠なんです。最初はそうは思えなかったですけど。この曲を書いたあとに、不安や焦りがあっても、「今、不安なのは未来を見てるから」みたいにマイナスからプラスのイメージに転換できるようになって、自分自身がこの曲の言葉に救われつつあるというか。この歌詞を書いたとき以上に、この言葉たちが自分の中で大きくなっていっています。

自分の指針になっていく1曲に

──レコーディングにはどういう思いで臨みましたか?

横山(裕章)さんからアレンジが送られてきたときに、自分に見えていた“視界”が横山さんにも見えてるんだなと思いました。風が吹いてるとか、雨がめちゃくちゃ降ってるとか、一瞬だけ光が見える感じとか。それを全部音で表現してくれたことにすごく感動して。初めて聴いたとき、ちょっと泣いちゃったくらい。レコーディングするときには、バンドメンバーの皆さんの音が、風になったり、光になったり、いろんな形になって……歌っているときには自分がイメージしてた視界がずっと見えていました。

──疾走感のあるサウンドも特徴です。

そうなんです。この曲は息継ぎができない感覚があるというか。歌詞に忠実に音を作ってくれた横山さんのアレンジもあるし、初めて参加していただいたドラムの柏倉さんのおかげでもあると思います。

──杏沙子さんもこれまでにない歌い方をしてますよね。

自分でもそう思います。柏倉(隆史)さんのドラムがずっと熱量が上がっていく感じなんです。それがすごくこの曲にぴったりだったんですけど、柏倉さんのドラムに合わせて夢中になって歌っていたら、レコーディング後はヘトヘトになっていました(笑)。柏倉さんをはじめバンドの演奏が追い風みたいになって、歌も最初から最後まで本当に全力疾走してる感じです。

──タイトルはどうして「ファーストフライト」にしたんですか?

ピンとくるものがなくてすごく悩んだんです。「ラストフライト」という案もあったんですけど、それだと希望がないじゃないですか。そこで、空は地図が書けないものだし、風が吹いたり、雨が吹けば、飛行機の飛び方も変わるし、同じフライトは二度とない。そういう意味で「いつだって飛ぶときは1回目だな」と思って「ファーストフライト」というタイトルにしました。もちろん、何かに初めて挑戦している人にエールとしてこの曲が響いてほしいという思いもありつつ、何かをあきらめかけている人、一度何かをあきらめてしまった人に、もう一度飛んでみようかなと思ってもらえたらという思いも込めました。

──カップリングにはインディーズ時代からライブで歌ってきた「青春という名の季節」が収録されていますね。

今、考えると「ファーストフライト」と「青春という名の季節」は似てるんです。どちらも勢いがあるし、いつか過ぎ去っていくものを歌ってる。「ファーストフライト」の主人公がもがいてる様子って、まさに青春なんですよね。そういう意味でつながりがあるし、相性がいいと思います。

──改めて、今回のシングルはご自身にとってどんな1枚になりましたか?

今の自分にピッタリというか、今出すべきシングルだなと思います。「ファーストフライト」は、誰かの“お守り”になってくれたらうれしいし、すでに自分にとって“お守り”になっているんです。これからの自分の指針になっていく曲なんじゃないかと思っています。

杏沙子

衣装協力
ワンピース: STAIR ¥38,000円(RICO.(株) 03-5465-2077)
イヤリング:THE Dallas ¥10,000(THE Dallas lab. 03-5491-7331)
デニム:原宿シカゴ 下北沢店 ¥4,900(原宿シカゴ 下北沢店 03-3419-2890)
シューズ:スタイリスト私物
※価格は税抜き