香川照之が主演を務めた「災 劇場版」が2月20日に全国で公開される。アルノー・デプレシャンやエドワード・ベルガーら名匠たちの作品とともに第73回サンセバスチャン国際映画祭のコンペティション部門に正式招待された本作は、WOWOWで放送・配信された「連続ドラマW 災」を大胆に再構築し、ドラマ版とはまったく異なる恐怖の形を描いた群像劇だ。劇中では、罪なき人々の日常に、香川演じる“男”がいつの間にか紛れ込み、やがて彼らの人生に“災い”が降りかかる。
不可解な事件を追う刑事に中村アンが扮したほか、竹原ピストル、宮近海斗(Travis Japan)、中島セナ、松田龍平、内田慈、藤原季節、じろう(シソンヌ)、坂井真紀ら豪華俳優陣が集結。新進気鋭の監督集団「5月」の関友太郎と平瀬謙太朗が監督・脚本・編集を担った。
映画ナタリーでは「災 劇場版」の公開を記念し、ライター渡邉ひかるによるコラムで“映画だけでも楽しめる”本作の魅力を紹介。さらに単著「映画と残酷」で知られるライターで評論家の氏家譲寿(ナマニク)にレビューを依頼し、本作が表現した“耐えがたい恐怖”を紐解いてもらった。
コラム / 渡邉ひかるレビュー / 氏家譲寿(ナマニク)
香川照之が怪演「災 劇場版」本予告公開中
描かれるのは常識や想像を超えた新しい“恐怖”
例えばクライム映画の中の殺人鬼が人を殺めたとして、それが常人には理解しがたい無差別なものだったとしても、殺人鬼には殺人鬼なりの動機や理由がある。ホラー映画の幽霊ですらもそうで、呪い殺すターゲットを絞るにあたってはそれなりのルールが。だが、悩み深いながらも各々の人生を送る人々の前に現れ、突如として災いや死をもたらす本作の「男」は、ルールや動機、理由といったものの枠組みに収まりきらない存在。ある意味、理不尽に振る舞っているかに見える「男」の猛威が、抗えない恐怖を生み出していく。では、殺人鬼よりも恐ろしく、幽霊よりも厄介な「男」に、人はどう立ち向かえばいいのか? その答えが示されないまま、どうしようもない絶望を湛えながら進む物語の先にあるものは何か? 不穏で息苦しい音楽や映像の冷淡な質感、緻密な構成といった映画的試みと共に、常識や想像を超えた恐怖が迫り来る1作となっている。
監督集団「5月」がドラマを大胆に解体!映画だけでも楽しめる1本に
監督・脚本・編集を担った関友太郎と平瀬謙太朗は気鋭の監督集団「5月」のメンバーであり、関は数々のドラマ演出、平瀬は大ヒット映画「8番出口」の共同脚本でも知られるところ。NHKドラマ「あれからどうした」、サンセバスチャン国際映画祭New Directors部門に正式招待された「宮松と山下」などで映画・映像界の耳目を集める「5月」の2人が、斬新な映像表現を駆使し、唯一無二の作品世界へといざなう。同じく香川照之が主演を務め、今や揺るぎない信頼関係で結ばれる香川と「5月」の第1章ともなった「宮松と山下」に続き、本作もサンセバスチャン国際映画祭のコンペティション部門に正式招待されて話題に。また、元々はWOWOW「連続ドラマW 災」として放送され、日本民間放送連盟賞を受賞した全6話を大胆に解体し、ドラマとは違った印象を放つ1本の独立した映画に再構築しているのも作り手の挑戦だろう。時間軸を交錯させつつ、登場人物たちが紡ぐ物語とその顛末を思わせぶりに積み上げていくことで、手触りも後味も異なる恐怖へと導いている。
香川照之の怪演、日本映画界に欠かせない俳優たちの共演に注目
不可解な死に絡め取られていく人のそばには、常に彼の姿あり。物語の中で異様な存在感を放つ「男」を香川照之が怪演。そのキャラクター像は「ゆれる」や「クリーピー 偽りの隣人」で演じた役柄の系譜にも連なっているかのようで、恐怖や謎の“仕掛け人”として深遠なテーマを突きつける香川照之の進化形とも言えるもの。何とも言いがたい不気味さを醸しつつ、ある時は田舎町の漁師、またある時は生徒想いの塾講師へと姿形を変えていく「男」を巧みに演じ分け、テーマの担い手と化している。また、不可解な事態の連続性を疑い、捜査を進める刑事を中村アンが体当たりで演じ、観る者が希望を託したくなるような存在に。そのほか、松田龍平、藤原季節ら日本映画界に欠かせない俳優から、Travis Japanのメンバーとしても活躍する宮近海斗、お笑い芸人のじろう(シソンヌ)まで。バラエティ豊かな面々が集結し、恐怖の物語を生み出している。
ある「男」(演:香川照之)
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気付いたらいつも“災”の周辺にいる男。あらゆる場所、職業、立場で人々の日常に紛れ込む。
堂本翠(演:中村アン)
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神奈川県警捜査一課の警部補。事故や自殺として処理される一連の事件に唯一疑問を抱き、連続殺人犯の存在を信じて真相究明に執着していく。
飯田剛(演:竹原ピストル)
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神奈川県警捜査一課のベテラン警部。刑事は勘だといい、堂本と対立することもしばしば。
菊池大貴(演:宮近海斗 / Travis Japan)
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神奈川県警捜査一課の若手刑事。事件に執着する堂本に理解を示しながらも、連続殺人犯の存在については懐疑的。
北川祐里(演:中島セナ)
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家族関係や進路に悩む高校生。両親に受験の相談に乗ってもらえず孤独を感じている。友人と、悩みを相談できる塾講師だけが心のよりどころ。
倉本慎一郎(演:松田龍平)
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とある過去を持つ運送業の男。寡黙な性格で、別居中の妻との再会を望んでいる。
崎山伊織(演:内田慈)
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代わり映えしない毎日に辟易しているショッピングモールの清掃員。趣味は苔の収集。ゴミ置き場で注意したことがきっかけで皆川と知り合いになる。
皆川慎(演:藤原季節)
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崎山と同じショッピングモールの理髪店に勤務している理容師。前の職場でトラブルを起こした過去がある。
岸文也(演:じろう / シソンヌ)
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負債を抱えた旅館を、先代の父親から引き継いだ支配人。別れた妻に未練がある。
岡橋美佐江(演:坂井真紀)
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主婦。平凡で退屈な日々に不満を抱いていたところ友人から市民プールに誘われる。
絶望と共に生きる感覚を、冷ややかに、しかし鮮烈に突きつける
「災 劇場版」は、いわゆる“邦画ホラー”の文法から静かに、しかし決定的に逸脱していく作品だ。驚かせるための音響や説明過多の台詞に頼らず、観客の知覚そのものをじわじわと歪ませていくこの映画は、「何が起きているのか」を理解したいという欲望そのものを恐怖へと変換していく。監督集団「5月」の関友太郎・平瀬謙太朗による映像設計は、WOWOWドラマ版の再編集でありながら、むしろ“分断”によって新しい物語を生み出している点が決定的だ。エピソードがばらばらに配置されることで、観客は連続性を勝手に補完しはじめる。だがその補完こそが、この映画の罠なのである。
まず、画面の感触が異様だ。“見たいものが見られない”と観客を集中させたと思ったら、“見えたとしても不安だ”と感じさせ視線をフレームへ逃がす。容易に人物を真正面から捉えないカメラは、常に「見えていない何か」を匂わせ、“よくない”を創造させる。アングルの奇妙さは単なるスタイルではなく、物語の構造と直結している。観客は“足りない情報”を前提に置かれ、そこから推測するしかない。にもかかわらず編集は間を与えない。余白で考える暇を奪われたまま、複数のエピソードが畳みかけるように提示される。その結果、理解の追いつかなさが緊張へと転化し、やがて不安そのものが映像体験へと変質していく。
この不安の中心にいるのが、香川照之が演じる“ある男”である。彼は、倉本慎一郎(松田龍平)の前に現れる茶髪の運転手・多田であり、北川祐里(中島セナ)を導く優しい塾講師であり、皆川慎(藤原季節)の同僚である理容師シム(志村)であり、岡橋美佐江(坂井真紀)に近づく歴島であり、岸文也(じろう / シソンヌ)に薬を渡す酒屋業者であり、警察署の清掃員・大門宏樹でもある。同一人物なのか、別人なのか、それともそもそも人間なのか。香川の振り幅の大きさは、役の多面性を超えて、存在そのものの不確かさを体現している。彼が現れるたびに場の空気はわずかに歪み、取り返しのつかない方向へと傾き始める。だがその変化は、善悪の軸では測れない。彼には明確な悪意があるようで、同時に事故のようでもある。まるで人の心に入り込み、ほんのわずかなズレを増幅させて破局へと導く、擬人化された“災厄”のようだ。
エピソードごとに配置された俳優たちの演技が、その不気味さをさらに研ぎ澄ます。運送業の男・倉本慎一郎を演じる松田龍平のアルコール依存の描写は、飲むか飲まないかの駆け引きだけで観る者を追い詰める。グラスに手が伸びる、その一瞬の躊躇がサスペンスになるのだ。女子高生の北川祐里を演じる中島セナは、悩みを受け容れられた瞬間に見せる恍惚の表情が忘れがたい。救済と破滅が同時に訪れるような、その一瞬の輝きこそが“災”の入口であることを示している。
ショッピングモールの清掃員・崎山伊織(内田慈)と理容師・皆川慎(藤原季節)のエピソードも同様だ。虚無を抱えた二人が、ほんのわずかに誰かと繋がった途端に“災”に巻き込まれていく厭世観は、作品全体のトーンを決定づけている。旅館の支配人・岸文也(じろう)が見せる、過去と後悔に囚われた姿もまた、救済を求めた瞬間に破滅へと導かれるこの映画の論理を体現している。
それらの断片を追いかけるのが、刑事・堂本翠(中村アン)だ。彼女は唯一、この連鎖に違和感を抱き、因果を見出そうとする。堂本の同僚である飯田剛(竹原ピストル)や菊池大貴(宮近海斗 / Travis Japan)とのやり取りは、理性がどこまでこの不可解な世界に踏み込めるのかを示す試金石でもある。しかし観客は、堂本のその姿勢に共感しながら、同時に彼女がどこにも辿り着けないことも感じ取ってしまう。
観客はこれらの断片的な物語を、無意識のうちに繋げてしまう。繋がっていてほしい、意味があってほしいと願う。その姿は、作中で因果を妄想する堂本と重なる。しかし映画は、その期待を裏切るように、決して明確な答えを与えない。エピソードは本当に繋がっているのか、それとも堂本の妄想なのか。毎回リセットされる“ある男”は、同一の存在なのか、ただ何かが反復しているだけなのか。その曖昧さこそが、この作品の核であり、観客の思考を終わりのない迷路へと引きずり込む。
知的に構築された物語でありながら、知性だけではこの映画に耐えられない。観客は「意味があるはずだ」と信じて見続けるが、最後までその意味は提示されない。提示されないからこそ、暗に何かがあるように感じてしまう。もし“ある男”が災害そのものなら、まだ諦めがつく。しかし擬人化された災害が存在する世界は、あまりにも残酷だ。逆に、彼が超自然的な存在でないとしたら、人間の中にそれと同じものが潜んでいることになる。それもまた、耐えがたい恐怖である。
「災 劇場版」が描くのは、結局のところ「我々にはどうすることもできない」という事実だ。因果を探し、意味を求める理性は、ここでは役に立たない。ただ、災いは起き、人生は壊れ、そして人は生き続けるしかない。その絶望と共に生きる感覚を、これほど冷ややかに、しかし鮮烈に突きつける日本映画は稀だ。香川照之を中心に、中村アン、松田龍平、中島セナ、内田慈、藤原季節、じろう、坂井真紀らが織りなす緊張感あふれる演技と、監督集団「5月」の冷酷な構成力が結びついたとき、「災 劇場版」は単なる総集編を超えた、まったく新しい“恐怖作品”として立ち上がる。
観終えた後、あなたはきっと自分の記憶を疑い、世界の連続性を疑い、そして日常の隙間に潜む“災”の気配に耳を澄ますことになるだろう。人はなぜ、意味を求めてしまうのか。なぜ、繋がっていないかもしれない出来事を、無理に繋げてしまうのか。その問い自体が、この映画の残す最も不穏な余韻なのである。

