手塚治虫の「俺は絵が描けないんだよね」という言葉を聞いて
──富野監督はその後、虫プロダクションに入社します。そして初演出はTVアニメの「鉄腕アトム」(1963〜1966年放送)です。
僕が現場に入ったのは「アトム」の放送2年目です。本格的なTVアニメ第1号として話題になった「鉄腕アトム」だったけれど、2年目ともなると、もう華々しくもなんともないんですよ。原作も使い切りはじめていて、残っている原作は「いいエピソードだから、ここで使うのはもったいない」というものか、逆に「原作そのままではTVで扱いづらい」というものばかり。だったからオリジナル脚本で埋めていこうということになっていって。そういう時期なので、楽しいことっていうのは何一つなかったと言ってもいいですね。
──当時現場には「鉄腕アトム」の単行本は置かれていたのでしょうか。
原作を見ながら作ったという記憶はないので、たぶん置いてなかったでしょう。今お話しした通り、原作として使えるものはないんですよ。しかも脚本家の豊田有恒さんにせよ辻真先さんにせよ、原作を読んでいた世代だったから、原作のことは十分理解していた。しかもTVアニメの黎明期でしょう? そういう仕事師たちが、各自の引き出しの中にあるSF的なアイデアや冒険ものの定石を組み合わせただけで、1本のお話として十分通用する時代でしたから。
──富野監督の初演出になる第96話「ロボット・ヒューチャー」では脚本も担当していますが、“手塚調”というのは意識しましたか?
全然意識しなかったですよ。むしろ「鉄腕アトム」の放送枠を使って、自分の作品が発表できるという意識でやっていました。「アトム」なんだからアトムを出しておけばいいんだろうという程度の意識で。そういう意味では、のちに巨大ロボットものの専従者としていろいろ監督していくときの意識と変わらなかったですね。
──愛読者だった手塚治虫の会社に入っていかがでしたか?
虫プロに入って実感したのは、手塚治虫にはこんなにファンがいるんだ、ということです。社内には手塚ファンであるスタッフが少なからずいましたから。そういう現状を見て、虫プロで仕事をするなら手塚治虫の信奉者でいてはいけないということを、最初の1カ月で自覚しました。手塚ファンを自認している人は作画班に多かった印象があって、だから演出を始める頃は「お前ごときが『鉄腕アトム』を演出するのか」っていう風当たりは強いものがありましたね。それで実際に作って見せるしかなかったわけですが、いやでもがんばりました。
──仕事として「アトム」に向き合うには、愛読者である自分というのはいらない、ということですね。
虫プロの面白いところは、手塚信奉者ではないスタッフもかなりの数いたところです。むしろ固い会社に勤められないような人間が寄り集まって作った会社という側面もありました。例えば虫プロを辞めてアートフレッシュを設立した出崎統さんや杉井ギサブローさんは、虫プロで「あしたのジョー」や「悟空の大冒険」を作っているわけですが、作品を見てもわかるように、全然手塚信奉者じゃないわけです。僕自身も、常務だった穴見(薫)さんについていってもいいと思っていたわけだけど、穴見さん自身も社内改革を進めようとしていて、むしろ手塚治虫とは反りが合わないポジションだったわけです。
──すると「手塚先生」という感じではなかったのですね。
そうです。僕は虫プロ時代、手塚先生に対して「先生」って一度も言ったことないですよ。それは僕らにとって手塚治虫はまず社長だったし、組合全体の意見としてもそういう姿勢でした。むしろ「マンガ部から出てきてもらい、虫プロの社長業をちゃんとやってほしいんだけど」という話をしていたくらいです。
──手塚治虫を間近で見て印象に残ったことはありましたか?
当時、打ち合わせの流れで、絵の話になったんです。そのときに手塚治虫がふと漏らしたのが「俺は絵が描けないんだよね」っていう言葉で。これを直に聞いたとき、本当にうれしかった。
──うれしかったんですか?
手塚治虫作品の中に絵物語風に始まるものがあるんですよ。確か登場人物が島へ行くところから始まる内容で。
──おそらく「化石島」(1951年)ですね。ペン画調の絵で始まって、途中からマンガタッチになるという作品です。
高校時代ぐらいのときに、それを読んで「この人は、自分は絵が描けるって誤解してるかもしれない」と思ったんです。そういう意識があったうえでの、目の前で「絵が描けないんだよね」という発言でしょう。
──ご自分が理想としている絵がなかなか描けないということを、手塚先生はのちにも語っていると聞きました。
この人はちゃんと自分の力の範囲というものに自覚的で、そのうえで仕事をしている、ということがわかったのがうれしかったです。これはまだ1960年代の話ですからね。「ブラック・ジャック」なんかを描くはるかに前ですよ。でもその「描けない」という自覚をしっかり持っているマンガ家だから、やがては「アドルフに告ぐ」のような系譜の作品まで描くことができるようになったんだなと思います。
作品が一度完成したら、作家本人でさえおいそれと手を入れてはいけない
──今回、2009年から2010年にかけて刊行された「鉄腕アトム《オリジナル版》復刻大全集」が、復刊ドットコムから新たな仕様で登場するわけですが、それについてはどう思いますか?
これは大原則なんですが、一回世に出したものに手を入れて、よくなるということはまずないんです。世に出回っているディレクターズカットの映画で、公開時よりよくなったものなんてほとんどないでしょう? 例えば今見せてもらっている、「ミドロが沼の巻」の初出のものと、現行の単行本のものですが、確かに初出のほうが絵はよくないのかもしれない。でも、だからといって迂闊に手直ししてもらっちゃ困るんだよね、ということは感じます。手塚先生は、シンプルなタッチの絵柄で、筆も速かったわけでしょう。ご本人としてはパッパパッパと描き直せちゃう感覚があったので、それが単行本化のときに大幅に手直しをするということにつながったのかな、ということを感じます。
──富野監督も現在TVアニメ「ガンダム Gのレコンギスタ」を、劇場版「Gのレコンギスタ」へと作り直している最中です。手塚先生が初出版から改めたくなる気持ちも想像がついたりはしますか?
厳密な話をするなら、物語全体を完成させてみると、よほどバカじゃない限り欠点は必ず見えてくるんです。だから欠点を直したいというのはわかります。だから1回や2回程度、まずいところを手直しするレベルならわかります。でもそれを3回目もやろうとするのはどうかなと思います。そこまで直すと、もう際限がなくなってしまうでしょう。しかも手塚先生の修正は、ミスを直すとかそういうところに留まっていないわけで。劇場版「Gのレコンギスタ」を作るというのは、作り直すというより「整えていく」という感覚が強いです。TVシリーズで完成させたものを、映画という媒体に合わせて正しい状態に調整していく感じで、TVシリーズが持っていた姿形や骨格を大きく変えてしまうものじゃないです。やはり作品というのは、一度作り上げたら自立しているものなんですよ。だから、作家本人でさえ、おいそれと手を入れていいわけではないのは確かなことだと思います。
──完成した作品を直したくなるのは作家のエゴである、と。
エゴというより欲ですね。でも、痩せても枯れてもオリジナルはオリジナルなんです。振り返ってみて出来がよかろうが悪かろうが、腹をくくって一度発表したものは、作品自体が自己主張をしているんです。そこに後から作者が反省でもって介入していくと、ある瞬間にいろんな力が集まってできあがったオリジナルの力を削ぐことになるんです。そういう意味で、発表された当時のオリジナルな形で「鉄腕アトム」が読めるようになるのは、とてもいいことだと思います。
- 富野由悠季(トミノヨシユキ)
- 1941年11月5日生まれ、神奈川県出身。アニメーション監督。日本大学芸術学部映画学科卒業後に虫プロダクションに入社。日本初のTVアニメシリーズ「鉄腕アトム」のスタッフとなる。1967年に退社後、CMディレクターを経てフリーの演出家として活動開始。1972年に「海のトリトン」で実質的に初監督を担当。1979年に「機動戦士ガンダム」の原作・総監督を務め注目を浴びる。2021年7月22日には、全5部作からなる劇場版「Gのレコンギスタ」の第3部、劇場版『Gのレコンギスタ Ⅲ』「宇宙からの遺産」が上映開始。そのほかの代表作に「伝説巨神イデオン」「∀ガンダム」「OVERMANキングゲイナー」「リーンの翼」などがある。