「EPAD」藤田貴大インタビュー|演劇という営みを続けるため、今できることは何か

当時の集大成だった「cocoon」

──2013年に上演された「cocoon」は、当時の藤田さんの、集大成というような作品でした。それまでと違う観客に出会ったり、新たな評価を得ることも増えたのではないですか。

「cocoon」初演より。(撮影:飯田浩一)

そうですね。リフレインや“走る”という、そのとき持っていたモチーフやそれまでに獲得してきたものをすべて出して作った意識はありますね。当時は自分たちに言い聞かせるように、「これまでやってきた流れの中に『cocoon』がある」って言っていたけど、本当はかなり無理することも多かったです(笑)。座組に今までの自分たちが持ち得なかった技術を持っている人たちに入ってもらうことで、いろいろなニュアンスが変わっていきました。例えばそれまでは僕が決めないと動かなかったことが、僕が知らないところで進んでしまうことが増えたりして、それがすごく怖かった。毎日本当にいっぱいいっぱいでほとんど寝た記憶がないくらい。朝起きて取材を受けて、稽古場の退館ギリギリまで稽古して、夜は誰かと話をして、帰って倒れるように寝る、みたいな日々でしたね。

──その一方で、2012年から「マームと誰かさん」シリーズがスタートし、大谷能生さん、飴屋法水さん、今日さん、名久井直子さん、穂村弘さんとのコラボレーションが行われたほか、東京芸術劇場のプロデュースで野田秀樹作「小指の思い出」(2014年)、寺山修司作「書を捨てよ町へ出よう」(2015年)、シェイクスピア作「ロミオとジュリエット」(2016年)など、これまでと趣向や規模感がかなり違う作品にも挑まれました。

「マームと誰かさん」を取り組んだのは、確か25・6歳の頃かな。26歳で岸田戯曲賞をもらえたことはうれしかったのですが、「ここから先が長い」という恐怖のほうが大きかったです。だから自分が取り組める範囲だけで同じように活動をしていても、それ以上になれる手段が思いつかなかったんです。そんな中で、公演を観に来てくれていた“独特な人たち”と観劇してもらう関係だけじゃなく作品を一緒に作って。それぞれの作家さんの手つきや技術に興味を持ったし、ほとんど作家としての“動物的な感覚”で知りたくなりました。

その頃かな、初めて東京芸術劇場から客席数800席以上のプレイハウスでの作品の依頼があったりして、マームとジプシーはどんどん規模が大きくなっていくんだろうと感じていました。僕よりも前の世代の方々が、大きな舞台で仕事をするときに自分の手つきを変えていくというか、純粋な表現とは別のものとして引き受けているような印象がありました。でも、僕としては自分の手つきで“現代演劇としての評価”を得ながら活動を拡大することを諦めたくなかった。もちろん、規模を拡大するためには多くのお客さんを集めることを意識しないといけないとわかっていたし、そのことを現代演劇という場で俳優のキャスティング以外に何ができるかを必死に考えていました。それで、ファッションデザイナー、音楽家、歌人、ブックデザイナー、芸人や小説家など違うジャンルの作家さんに演劇という場でそれぞれの作品作りをしていただいて、それぞれの作家さんのファンも演劇に巻き込むことができれば、今までとは違うお客さんの集め方ができるのではないかと考えました。僕としては“演劇”や“俳優の演技”を観るのを目的にしているお客さんがいるのと同様に、衣装を観に来る人がいても、音楽や言葉を聴きに来る人がいても、グラフィックを楽しみにする人がいてもいいと思うんです。東京芸術劇場との作業では、そんなことを考えていましたね。

──2012年から2015年までがそのようにクリエーションの場にさまざまな人を巻き込む時代だったとすれば、2016年からは新たな観客に向けたクリエーションが始まった時代と言えるのではないでしょうか。2016年に藤田さんは公募で集められた福島の中高生たちとミュージカル「タイムライン」(参照:福島の中高生たちが創作ミュージカルを上演、藤田貴大や平田オリザも参加)を立ち上げ、また“子どもから大人まで一緒に楽しめる”演劇作品「めにみえない みみにしたい」(参照:藤田貴大の“4歳から大人まで楽しめる”「めにみえない みみにしたい」開幕)を手がけられました。

規模が大きな作品を東京で成立させることと同じように、僕にとっては東京以外の人や土地とどう関わるかということも重要でした。僕の場合、ただ東京で作った作品を持って地方に訪れて、観せる / 観てもらうの関係だけではその土地を知ったことにはならなくて。それと、ワークショップを通じてその地域の人たちと出会って、その土地をより深く知っていくことは、自分の創作活動に返って来ることをわかっていました。それでいうといわき総合高校との作業で福島という土地に出会って、よりその土地を知るための手段として「タイムライン」を作ることは自然な流れだったんだと思います。

また、2013年に「cocoon」を蜷川幸雄さんに観ていただいてから、彩の国さいたま芸術劇場との出会いにつながったのですが、当時から蜷川さんは常に「僕にはできないことを藤田くんにはしてほしい」と言ってくださっていました。その蜷川さんの言葉もそうですが、「タイムライン」で十代の中高生たちと改めて“作品を作る”という時間を経験して、今度は自分の作品を“観せる”ということに挑戦してみたいということもありました。だからこそ、彩の国さいたま芸術劇場と一緒に子ども向けの作品に取り組むことは自然な流れでしたね。

ひび(編集注:マームとジプシーの活動に共感し、興味がある人が、マームとジプシーの活動に関わりながら約1年後に予定されている藤田との作品発表を目指す集団)については、それまで自分が持っていない技術を身に付けたいという思いから有名な作家の方々とコラボレーションをしてきたけど、そこから学ぶことと同じぐらい、いわゆるまだ“無名”である人たちが自分にもたらしてくれることがあることを感じていたし、それが自分やマームとジプシーに必要だと思って始めました。

若い世代のために、どんな土台を作って来たか

──その流れがさらに拡張していくと思われた2020年、コロナの問題が発生しました。藤田さんは7作品も打撃を受けたそうですね。

ええ。本当に笑っちゃうくらい何もできなくなってしまって……。作った作品を発表できなくなったこともありますが、そもそも作れなくなったわけです。そのことがどれだけきついかということを、僕だけじゃなく作品に関わるみんなも感じたと思います。最初はどうしたらいいか全然見えてこなかったんですけど、コロナになる前の僕らの時間を思い返したりしながら、僕らなりの活動や考え方が見えてきました。もちろん、以前のように戻れることは幸せなことだと思うけど、それってかなり難しいことだとも思っています。演劇は僕らだけじゃなくてお客さんの気持ちもあるものですから。打ち勝つとか無理やりでも発表するとかそういうことじゃなく、今の状況の中で僕らのやり方なら違う演劇の活路を見出していけるんじゃないかと思っているんです。今の“作れない”とか“発表できない”という苦しさも、いわゆる“公演”だけを重要視しすぎていることから来るんじゃないかと思ったりしました。“公演”という体を取れないとしても、“演劇”を中心に何ができるか、考えていくことが今は重要だと思っています。

稽古中の藤田貴大の様子。(撮影:鳥居洋介)

それで演劇を作りたいとか演劇で表現したいと思っている僕より若い世代の土台を、マームとジプシーは作ることができたのかなっていう反省があるんです。例えば僕が二十代のとき、三十代の人たちが何を言ってるか、インタビューを読んですごく意識していた。だとすれば、僕の活動や言葉を注視している人たちがいるだろうし、その人たちに言えたこと、やれたことがもっとあったんじゃないかと思うんです。その意味でも、今後三十代の僕らでは思いもつかないようなことを思いつくような人が出てくるだろうから、その人たちが新しい演劇を自由に提案ができるように、僕ら自身も今の演劇の形に執着するだけではなく、演劇を中心にした新しい形を提案していかないと、と思います。

もちろん劇場で上演される演劇にスペシャルなものを感じる気持ちは、僕もすごくよくわかります。僕自身も“公演”の代替えになるものはないと思います。でも“場所”にこだわって「場所がないと演劇ができない」ということで立ち止まってしまうと、演劇という営み自体ができなくなってしまう。だったら演劇が今どの場所で生き残れるかを考えて、ネット上でもほかの媒体でも別の可能性も考えたほうがいいと思う。何度も言いますが、だからといって劇場での公演の価値が下がるわけじゃなく、むしろ劇場でやることが今まで以上に特別なものになると思う。ある意味覚悟を持って作る人と観る人が集まる場所なわけだし、そういう場所で生まれる表現が、面白くならないわけはないと思います。

「EPAD」で見られる、現在の“最新版”「cocoon」

──自粛期間中に、藤田さんは映像作品の「apart」やWeb連載シリーズ「路上」を手がけられたほか、11月に「かがみ まど とびら」の上演、12月には展示とパフォーマンスを組み合わせた「窓より外には移動式遊園地」(参照:マームとジプシーが“移動式遊園地”立ち上げ)を実施されました。これまでの藤田さんのお話から、藤田さんの活動は必ず次の活動に大きな影響を与えていると感じますが、2020年に起こしたアクションが、今後にどのような影響を与えていくと感じますか?

「apart」より。 「かがみ まど とびら」より。(撮影:井上佐由紀) 「窓より外には移動式遊園地」より。(撮影:小西楓、宮田真理子)

そうですね、「apart」や「路上」で言えば、コロナ以前から考えていた企画ではあったんです。例えば「apart」は、最近の僕の作品って「b」や「c」で始まるタイトルが多いんです。だからいつか「a」から始まる作品を作りたいよねって話をしてて、「apart」というタイトルだけは思い浮かんでいたんです。自粛期間中にみんながそれぞれの部屋にいるしかない状況が、「apart」というタイトルに重なるなと思い、部屋と部屋がつながるようなイメージで映像作品として週2回オンラインで連載的に発表しました。そして、その映像作品と僕の劇中で使用したテキストや写真をまとめて、それを凝ったパッケージにして、皆さんに届けるという企画を考えました。「路上」は、もともと2020年に東京オリンピックが開催される予定だったということも若干念頭に置きながら、しかし東京ってどういう場所なんだろう?という興味のもと、1年かけて東京を見ておきたいということがありました。コロナ禍の東京を歩いたことは、貴重な体験だな、と。数年後に思い返して見たら、きっと異様な作業だったと思うんじゃないかな。「路上」は今年のゴールデンウィークに、上演作品として発表したいと思っています。「窓より外には移動式遊園地」に関しては、この時代にどんな形でなら演劇空間という場が成立出来るかをマームとジプシーのやり方で試してみました。今後、何がどう影響していくかわからないけれど、2020年の時間の中で考えたことは自分にとってはとても大事なことばかりでしたね。

──「EPAD」では、2015年に上演された「cocoon」再演版が検索できます。「cocoon」は当初2020年に再々演される予定でしたが(参照:今日マチ子×藤田貴大「cocoon」再々演決定、キャストオーディションも)、コロナの影響により、2022年に上演が延期されました(参照:今日マチ子×藤田貴大「cocoon」再々演、全公演中止に)。

2020年版はオーディションも完了して、舞台美術も発注の段階までいっていたし、スタッフとの作業も始まっていたので、延期を決定するにも体力が必要でした。状況として延期するしかないから、しょうがなく延期にするのだけは嫌で。みんなとも話して、2022年までの2年間、同じメンバーでクリエーションを続けていくことしました。おそらくWeb上になると思うんですけど、その過程を今後、何かしら発表していけたらと思っています。

──2015年版を映像で観てから、2022年の上演を観ようという方もいらっしゃると思います。実際、藤田さんも「小指の思い出」上演時のインタビューで、「子供の頃に『小指の思い出』の録画映像を、テープが擦り切れるほど観た」とお話しされていましたが、かつての藤田さんのように、「cocoon」の映像を見て演劇と出会う十代、二十代がいるかもしれませんよね。

あ、それはめちゃくちゃ説得力がありますね(笑)。2015年版は舞台でやり切った感がありましたが、実は映像でのアーカイブを公開することに躊躇があったんです。でもそういうふうに観てもらえると思ったら、すごくいいですね。

ただ、2022年版は、2015年とまったく違う「cocoon」になると思いますよ。2015年からの5年が経ちますが、あれから沖縄の中で起こったこと、例えば辺野古の工事の着工や、沖縄知事だった翁長雄志さんが死去したのもこの5年です。それ以外にもさまざまなことが、いろいろな形で沖縄という土地に降りかかって、渦巻いている様子を見つめていました。「cocoon」を取り組んでいるときはいつも「描いているような世界に、もう絶対に戻ってはいけない」と思って作っているのですが、現実はそうなっていないというか。むしろそういう祈りに近いような思いから逆行している気がするんですよね。「cocoon」は実際にものすごく体力を使う演目だし、取り組んでいるといろいろな意味で疲弊してしまうような題材でもありますが、沖縄の“今”を捉えて、新しく作っていきたいと思います。多くの人が「cocoon」に立ち会って、そのうちの誰か1人でも変わるきっかけになるなら、またやりたいと、今はそう思っています。


2021年2月24日更新