最近やっと芽が出てきた感じ
──「Wash Away」には6曲が収録されていますけど、どうやって選曲されたものなんでしょう?
Yuto 作った時期はバラバラの15、16曲ぐらいからの中から6曲を選びました。ほんまに楽器とパソコンがあったら、いつでも曲ができちゃうんですよ。だから作りすぎちゃうんですよね。リリースプランとか関係なく作っているから、まとまりがなくなる。アルバムになってくると、もう少し狙いを定めて作っていくけど、何もないとただいっぱい作っちゃうんで。EPという形態自体は自由度が高いので自分に合っているなと思っています。
──個人的にほかの曲に比べて展開が面白い、表題曲の「Wash Away」が一番好きな曲でした。目立つ楽器の音が曲の流れによって変わっていくじゃないですか。これは、どういう部分を目立たせたくて組み立てていった曲なんですか?
Yuto この曲はもともとバースのパートがあって、そこの歌詞とメロディを軸に次につながっていくストーリーが自分の中にありました。後半のパートでコードが変わって、繰り返しのパートでも違う楽器が出てきたり、音色が変わったり。歌詞も繰り返されているけど、ちょっとずつ感情が変わっていたりして、最後にバーンってなるという(笑)。
──(笑)。前回、Yutoさんは「There」発売時にゴッチさんと対談しました(参照:The fin.「There」発売記念 Yuto Uchino+後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)対談)。それこそ音楽を始めたときのThe fin.はアジカンのような曲をやっていたわけですけど、活動を重ねるにつれて脱バンド化してきています。それは世の中的にバンドがメインストリームじゃなくなってきていることを肌で感じてのことなんでしょうか。
Yuto はっきりとはわからないんですけど、バンドを組んだときから、実はあまりバンドの音楽を聴いていなかったんです。どちらかと言うと、音楽そのものがよければなんでもいい人というか。でもバンドでライブをするということがすごく好きだった。今の形態は俺がクリエイティブな部分で何もロスすることなく表現でき、なおかつ自分がやりたいフィジカルでライブができる。というところでNakazawaがいてくれて、自分の理想と現実が合致して、うまくいきだしたのかなという。新しいギタリストと一緒にやるようになったぐらいから、全体的にうまくいくようになった時間があって、それは今までモヤモヤしていた部分がなくなったからなのかなって。
──ある意味ジャズっぽいのかもしれませんね。プレイヤーの名前が出てくるけど、固定メンバーのバンドというわけではないことも多いですし。
Yuto そうですね。今、ドラマーがイギリス人と日本人の2人いて、ギターはイギリス人1人と日本人2人で、みんなプレイが違うんです。楽曲は俺が作っているから、ライブで俺が思っていることをやったら全部The fin.になると思うんですよね。ここの2人がガチっとしていれば、お客さんはどのライブを観てもThe fin.の好きなところを存分に感じられる。そんな前提があって、ギタリストとかドラムがちょっとしたエッセンスを入れてくれることでライブ感が出ていくのがすごく楽しくて。昔はそういうのが全然なかったんですよ。今はライブ中にもともとの流れにないことだってできちゃうし、人によって全然プレイも違えば、出してくる感じも違う。自分たちも楽しいし飽きないですね。みんな仲良いし遠足みたいになっている(笑)。修学旅行みたいな感じ。
──キャリアを重ねていくと、そういう気分でできなくなっていくので、とてもいい環境になってきているんですね。
Yuto The fin.は下積み時代がわりと長かったんですよね。半端じゃないくらいライブもしたし。それが最近になってやっと芽が出てきて、やりやすくなってきているんじゃないかという。だからがんばろうぜって感じやんな(笑)。
Nakazawa うん。
──The fin.は中国ツアーをはじめイギリス、アメリカなど世界の各地でライブをしていますけど、そういう環境がThe fin.が作る音楽に変化を与えたりしていますか?
Yuto いや、まったく気にしなくなりましたね。むしろ英詞を書き出したときは挑戦やったんですよね。どちらかと言うと日本を見ていたからで、海外に出るようになるにつれて、自分の視野がだんだん広がっていった。いろいろな国の音楽シーンがリアルに感じてきた結果、今はバンドという体系でもなくなっている。そう考えると、音楽を作るときに気にしないといけないことは何もなくなったんじゃないかな。ほんまに何も考えないよな?
Nakazawa うん。
Yuto もちろん曲を作るということに対してはすごく考えているんですけど、それがマーケット的にどう作用するかとか、どういう人に聴かれたいかを模索するような作り方は全然していなくて。表現としてやっていることが、たまたま受け入れられて、こうやって海外でもできているというだけのこと。自分がほんまに思っていることを表現すれば、絶対どこかの誰かには伝わるという自信が自分の中でついた。迎合するようないやらしさは完全に消えた感じがします。
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恥の文化、罪の文化