RIP SLYME再集結!歴史をたどるインタビューで新事実判明 (2/3)

日本のヒップホップ史上初の野外5万人ライブ

──2つめのトピックは、2003年7月20日に開催した日本ヒップホップ史上初の野外5万人ライブ「SUMMER MADNESS '03」です。ある意味、メジャーデビュー後に続いてきた演出盛り込み型ライブの究極だとも思います。

RYO-Z 振り返ると、ここがポイントになってくるかと思う。追われるように活動するのがもう無理だと。ちょっと破綻しかけてる感じになっていたんですよ。5万人という大規模なライブを単独でやって、そのあとは解散しようとなっていたので。

──人気絶頂の裏でグループとしては限界に来ていたと。

PES 今になるとわかるけど、ライブ会場って1年前、2年前から押さえていかないといけないじゃないですか。僕が今、当時のRIP SLYMEの裏方をやるとしたら成功させるのは難しいと思うんですよ。賭けに出るしかないと思うから。デカい会場を押さえてしまって、あとはチケットを売るしかない。でも、1年前までは街をうろついて曲を作っていた人間が、急に今日も明日もテレビに出たりするようになって。武道館くらいまでは想像ができたけど、どんどん規模が大きくなっていってワケがわからなかったです。

PES

PES

──「SUMMER MADNESS」はいつ頃決まってたんですか?

PES 「HOTTER THAN JULY」っていう曲をそこに向けて作ってるんですよね。

RYO-Z その前の年の2002年冬に「HOTTER THAN JULY」ツアーをやるんです。曲は「TIME TO GO」(2003年7月発売の3rdアルバム)に入ってるんだけど、「TOKYO CLASSIC」ツアーの冬版ということで、そのツアーのために「HOTTER THAN JULY」を作ってる。

ILMARI だから、決まってたスケジュールに合わせていくやり方だったんですよね。

PES そう。スケジュールに楽曲制作を合わせていく。

ILMARI よくわからないまま、とにかくそこに合わせなきゃいけないんだって考えていたから。

RYO-Z ギリギリでしたね。ボロボロというか。若くて体力があるからできてただけで。

RYO-Z

RYO-Z

──スピードが速すぎて頭が追いつかなかった?

ILMARI それもそうだし、精神的なことですね。決まったスケジュールで動いてるから自分たちで作っている意識が希薄というか。そこらへんがちぐはぐだったんだと思う。SUさんはどうだったんですか? ここまであまり話してないけど(笑)。

SU 「SUMMER MADNESS」はリハーサルがすごかった。でっかいホールを借りて1週間くらいやったんじゃないかな。でも、実際の会場のデカさは想像できないじゃないですか。しかもステージがデカすぎて、メンバーの移動距離も長いし、5人が離ればなれになってて、ほとんどソロライブやってるみたいなフォーメーションだったから、どうなるんだろう?って思ってました。

ILMARI 当時はエイヤってやってることが多かったかもしれない。その頃、俺とSUさんで書いた、宇宙人にスーツ着せてるみたいな落書きがあって。それを「近藤さん」と呼んでたんですけど、「SUMMER MADNESS」の最後にそれがデカいビニール人形になってステージに現れるとか(笑)。今だったら絶対やらないし、やる必要がみじんもないようなこともやってて。そこは別にエイヤってしなくていいだろうにという。

ILMARI

ILMARI

──でも、現在までRIP SLYMEは続いてきたわけで。そこからどうやって持ち直したんですか?

RYO-Z 「SUMMER MADNESS」のあとに決まっていた「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」のトリで本当に終わりだと思ってたんですよ。で、そのあと3カ月くらい休んで。その間にみんなで俺んちに集まって「本当にどうするか、ちゃんと決めないと」って話したときに、「つってもほかにやることないもんね。じゃあ、もうちょっとだけやってみるか」みたいな話で終わったんですよね。

PES それ、僕いた?

RYO-Z いた。全員いて、俺が「じゃあ、もうちょっとやるんだ」と安心してトイレに行ったらその間に全員帰ってて(笑)。

PES あはは!

RYO-Z 置き手紙に「先に出ます」って書いてあった(笑)。すごい覚えてる。

──それで「MASTERPIECE」(2004年11月発売の4thアルバム)に向かって動き始めるんですか?

RYO-Z やっぱり続けることになりました。じゃあがんばっていこうぜってなったんだけど、FUMIYAは相当限界に来ていて。そのまま「MASTERPIECE」を作り、なおかつ初めてのアリーナツアー「MASTERPIECE TOUR」を回って、それでダウンしたんですよね。

FUMIYA その頃はHALCALIも同時にやってたから(2003年1月デビュー、同年9月に1stアルバム「ハルカリベーコン」発売)。

RYO-Z RIP SLYMEのツアー先のホテルに機材を運び込んでHALCALIの曲を作ってたんですよ。俺も寝ないでHALCALIの歌詞を書いていて。書き終わったらホテルの部屋のドアの下に挟んでおいてくれと。そしたらマネジャーがそれをピックアップしていくから、みたいな。そりゃFUMIYAも体調を崩すよなって。

FUMIYA

FUMIYA

過去5回のDFMツアー

──3つめのトピックは「DANCE FLOOR MASSIVE」(以下DFM)ツアーです。2004年、2006年、2008年、2013年、2016~2017年と開催してきましたが、このツアーを立ち上げた経緯から教えてください。

RYO-Z FUMIYAはRIP SLYMEの活動と並行してクラブでずっとプレイしていたし、それこそ自分たちのイベント「Swing Chop」もやっていて。世の中に対しては「RIP SLYMEです、イエーイ」ってやってるけど、地下の暗がりではバチバチのダンスミュージックをかけて遊んでる。この楽しさとか、こういうのが本当に面白いと思ってるんだっていうことを伝えたいと。であれば、Zeppサイズのライブハウスだったら隅々まで音を作れるんじゃないかって。楽曲もCD通りに演奏するんじゃなくて全然違うトラックでやったりとか。要するにクラブサウンドみたいなことをライブでやりたいねっていうのがきっかけでした。

──「DFM」はガス抜きになったところもあるんですか?

RYO-Z そうですね。

PES 当時はTERIYAKI BOYZ®️(2004年結成)も始めていて、セルフプロデュース的な感覚を持つようになって。原点に立ち戻るとすれば、こういうことなんじゃない?っていう感じで「DFM」が始まったんだと思います。HALCALIもそうだと思うけど、自分たちでコントロールできるんだっていうことをスタッフさんたちにもわかってもらえるようになったんだと思う。

──「DFM」で特に印象に残っているのは?

RYO-Z 「DFM II」(2006年開催)ですね。

──「II」はFUMIYAさんが休養中で不在でした。

RYO-Z 代わりにDJ SOMAがいて。FUMIYAがいなくてピンチだったこともあるのか、俺とSUくんとILMARIでツアーに向けてトータルワークアウトに行ったんですよ。トレーニングして食事制限もして。そしたらライブ初日がキレッキレだったのを覚えてます。

ILMARI 俺が覚えてるのは「UNDERLINE No.5」をインディーズ時代の曲なのにけっこうやってたこと。

RYO-Z 毎回やってたよ。もうテーマ曲みたいになっていたから、「今回、『UNDERLINE』はどうするんだろ?」って実は思ってた。

──SUさんが覚えていることは?

ILMARI ライブ番長だったからね。

SU だいたい衣装とかで覚えてるんですよね。Optimystik(K.I.NとKIOによるグラフィックチーム「TypoGraphics」とPESがタッグを組んで始めたアパレルブランド)を着てやったことあったよね?

RYO-Z それは「II」だよ。あと、俺が覚えてるのは「IV」(2013年開催)のとき。4回目だからレーザーラモンHGさんの「フォ~」をサンプラーで叩いて、「Good Times」で「Everybody、フォ~」ってみんなで歌ってたんだよ。そしたら千秋楽にご本人がゲストで来てくれたの。

SU 思い出した。「IV」は「ロングバケーション」スタートか。

SU

SU

FUMIYA オープニングが幕のヤツ。

RYO-Z 舞台に透明な幕が張ってあって、雨が降る音から始まるの。しばらくずっと幕があって。

FUMIYA で、「JOINT」の“Stop!”のところで、その幕がバサッと落ちる。

──「DFM」ではセトリを数パターン用意して日替わりにしてましたよね。当時のセトリを持ってるんですけど、「DFM III」(2008年開催)ではAパターン、Bパターン、A'パターン、B'パターン、A+αパターンと5種類ありました。

PES うざっ(笑)。やめてくれ!

──「II」のときはZepp Tokyoで6DAYSやったんですよね。「III」のときもZepp Tokyo で5 DAYSやってる。これもすごいことです。

PES 「II」のときは、くるりとのラジオイベントを1日挟んだんじゃないかな(7月6日「SCHOOL OF LOCK! Presents リップとくるり、ひと夏だけの夢コラボ@Zepp Tokyo」)。それも入れてZeppで7日やった記憶がある。

──「DFM」はRIP SLYMEにとって、どんな場ですか?

RYO-Z ダンスミュージックに特化したことがやりたくて始めたツアーが、ある意味、いろんなことを放り込めるツアーになったんですよね。アルバムのツアーだとアルバムの曲が中心になるけど、そういう制約がない。ダンス曲であればレパートリーから何を入れてもいいとなるから、インディーズの曲も入ってくるし。

FUMIYA デビュー前からずっとクラブでやってるわけだから。その規模が大きくなったっていう言い方が近いですね。

──今年10月から始まる「DANCE FLOOR MASSIVE FINAL」もそうなりそうですか?

RYO-Z なるでしょうね。ベストアルバムは出すけれど、オリジナルアルバムじゃないから。ある意味ノーテーマで、とにかく楽しむっていう意図のもと、これから中身を作っていきます。