こだわりを貫き通しながら、アップデートを重ねる孤高のロックミュージシャン・中島卓偉。今年の春に18年にわたって在籍していた事務所ジェイピィールームおよびアップフロントグループから独立し、持ち前のDIY精神をさらに発揮していく環境に身を置いた。
卓偉が“円満退所”からの独立を選び、成し遂げたい夢とはなんなのか。そんなヒントが12月にリリースされた約7年ぶりとなるオリジナルアルバム「BIG SUNSHINE」に隠されている。音楽ナタリーでは卓偉へのインタビューを通して、彼が独立して音楽を続けようと思った理由、アルバムの楽曲に込められた自らの思い、作家として大成した前事務所時代を含むさまざまなキャリアを経てたどり着いた現在の心境を掘り下げた。
取材・文 / 田中和宏撮影 / 大城為喜
独立して偶然の……上京物語
──2022年3月に事務所を退所し、4月に独立した際に覚悟のうえで人生の岐路に立ったことが伺えるようなメッセージを発表していましたが(参照:中島卓偉が円満退所「世界一小さな会社を立ち上げて独立します」)、独立から半年以上が経った今思うことは?
わからないことだらけで会社を立ち上げたんです。それこそ銀行まで行って手続きすることも初めての経験で。いろんな人に教えてもらいながら、ライブのブッキングからそういった事務的なことまで、全部自分の手でやっています。いろんなことが起こりますし、振り返るとしたら“激動”という言葉がしっくりきますね(笑)。
──独立を決めたのはいつだったんですか?
きっかけは何度もありましたよ。今44歳なんですが、アップフロントに入る前の事務所を辞めたときもそうだし、30歳の頃にも考えました。もしもコロナ禍がなければ、2020年いっぱいで辞めようとも思ってました。そもそもデビューした1999年、2000年頃に僕が描いていたミュージシャン像は、曲だけ書いて、楽しくやれればいいというもので、周りの大人たちからも「ミュージシャンに金の計算させるな」みたいな空気を感じていました。雑務に追われず、音楽だけをやらせる環境だったとは思いますが、イギリスやアメリカの音楽業界はそうじゃないんですよね。自分たちでギャランティもリスクも考えて、本当にバンドでやっていけるのかを最初に確認するし、自分たちの権利をちゃんと主張しやすい環境に身を置くというか。その違いを知りつつも、時だけが過ぎていったんです。
──デビュー当初と今では音楽業界の環境も変わりましたよね。
そうですね。デビューして来年で24年経ちますが、僕の人生はあと半分くらいだと思うんですよ。人生が残り半分しか残ってないと思ったときに、その時間をどうやって生きていくかを考えて、大きな事務所にいたまま活動していくのではなく、リスクを背負って大変でもこれからの人生を「全部自分でやった」というものにしたいなと。30代のときにそういう答えは出ていて、今年になって旅立つ覚悟を決めました。
──独立したときに、改めて自身のこれまでを振り返ることもあったと思います。例えば、1994年に中学卒業と同時に上京したときのこととか。
上京して初めて住んだのが東雲だったんですが、今、ライブでPAをやってくれている会社が江東区の東雲にあるんです。先日ライブのために機材を借りて、昨日返したところなんですけど、まさか自分が上京後初めて住んだ街に本社があるなんて知りませんでした。
──搬入搬出を含めてご自身でやられているからこそのエピソードですね。
建物がちょっと増えたくらいで、15歳のときに新聞配達してた街が目の前に広がって。思い返せばあのときの僕は、自分以外信じられるものが何もなかった。でも28年が経って、今では信頼できるスタッフと一緒にライブを作り上げている。デビュー前に高円寺に住んでいた頃、周りにいろんなクリエイターの卵たちがいました。ほとんどの人たちはその夢とは違う道に進んでいて、今、音楽を続けているのはもう自分だけです。デビュー前に「一緒にがんばろう」と言ってた人たちの顔も浮かんで、感慨深い気持ちになりました。
“ボツ曲”や中3で作った曲も
──ニューアルバム「BIG SUNSHINE」は16曲入りで、ボリューム感たっぷりですよね。
2019年に「GIRLS LOOK AHEAD」というハロー!プロジェクトへの提供曲をまとめたセルフカバーアルバムを出したとき、レーベルからも事務所からも「たくさん曲を入れてください」と言われたんですよね。でも確かに90年代を振り返るとアルバムと言えばだいたい10~12曲で、14曲も入っていたら多い感じでしたよね。今回のアルバムは7年ぶりということもありつつ、24年続けてきていろんな時期のいろんなファンがいると思うので、1曲でも好きな曲があったほうがいいなということで、この曲数になりました。
──独立後第1弾のアルバムを作るにあたって、テーマ設定はあったんですか?
出発、スタート、旅立ち……そういった新たな始まりを書きたいと思っていました。そして収録曲について正直に言うと、過去にボツられているものがほとんどです。これまではアルバム用に曲を用意しても、どうしてもスタッフに弾かれる曲があった。「なんでダメなんだよ!」と思う気持ちは当然あって。今回は誰も自分を否定する人間がいないので、その当時は作品の出し方とかいろんな都合でお蔵入りになっていた曲をここでやらない理由はないなと。
──レーベル側も作品を作るにあたっていろいろ意見や思いがあって、当時はお蔵入りにせざるを得ない曲もあったという。
タイミングの問題でしょうね。今回はファンの方が喜んでくれる曲を入れたかった。激しい曲だけでまとめることも可能でしたけど、結局バラード、ポップ、パンクと幅広いジャンルをアルバムに入れることで初めて“中島卓偉”の作品になると思っているので、自分の引き出しを全開した感じ。ちなみに一番古い曲は「自分を叫べ」で、これは中学3年生のときに作った曲です。
──中3の頃の曲を今、音源化するってすごい話ですね!
パンクロックで音楽に目覚めたこともあって、パンクチューンになってます。15、6歳でしか作れないような衝動的なリフで、今は言ってしまえば玄人なのでああいうリフは浮かばない。でも紛れもなく自分の中にあった曲なので、このアルバムは自分の歴史が詰まった内容とも言えますね。パンクは自分にとって気持ちのいい音楽。70'sのSex PistolsやThe Clashがやっていた音楽は自分が世の中から弾かれても叫びたいことを叫んでるものだと思う。それにそぐわないことをあまりパンクとは呼びたくないんです。歌詞が残ってるものは基本そのままなんですけど、中学生の頃の初期衝動がノートとかにもずっと残ってるわけです。ほかにも「AFTER THE RAIN」は2004年に出したアルバム「VIVA ROCK」でこぼれた曲だったり、いろいろストックを掘り起こしました。
──卓偉さんは2001年頃、「Cafe Le PSYENCE」というテレビ東京系の音楽情報番組に出演していました。そこで「DUMMY FAKE ROLLERS」か何かのデモ音源の制作風景が流れていたんですが、スタジオでギターをかき鳴らしながら、デタラメ英語でメロディを作っていて。今も同じ作り方をしているんですか?
ケースバイケースですね。歌詞にメロディを乗せることもあれば、逆もある。ここ何年かで曲の作り方の幅は広がったんですよね。30歳ぐらいのときにマニピュレーターに頼まないで、Logic Proで宅録するようになったので。
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歌うのは結局、人生論