昨年10月に神奈川・KT Zepp Yokohamaで行われた結成30周年記念ライブ「MIGHTY CROWN 30th Anniversary ジャパニーズ・レゲエ・リバイバル in 横浜」にて、活動休止を突如発表したMIGHTY CROWN。休止前最後のイベントとして、今年9月のシルバーウィークに世界最大級の豪華客船による日本初のエンタテインメントクルーズ「Mighty Crown 30th Anniversary -The Final- FAR EAST REGGAE CRUISE」を催行する。
音楽ナタリーは、MIGHTY CROWNのMASTA SIMON、SAMI-T、COJIEにインタビュー。1990年代の初めにサウンド活動をスタートさせ、本格的なダンスホールレゲエを世界中で響かせながら、国境やジャンルを超えて世界的な評価を獲得してきた彼らに、30年におよぶキャリアを振り返ってもらった。
取材・文 / 森朋之撮影 / 山崎玲士
ただ好きなことをやってきた30年間
──昨年10月に神奈川・KT Zepp Yokohamaで行われた結成30周年記念ライブ「MIGHTY CROWN 30th Anniversary ジャパニーズ・レゲエ・リバイバル in 横浜」で活動休止を発表し、ファンの間に大きな衝撃が広がりましたが、この反響をどのように受け止めていますか?
MASTA SIMON あくまでもサウンド活動の休止であって、MIGHTY CROWNがなくなるわけではないんです。30年続けてきて、30カ国以上も回って、世界中のクラブやフェスでプレイして。自分たちが掲げてきたミッションは達成したので、このタイミングで次のステージに行くということですね。ただ、SNSなどで「休止します」と告知するだけでは面白くないし、ファンも寂しいじゃないですか。なので発表する場所は自分たちで選ばせてもらったんですけど、まあ、いろんな感想はあるでしょうね。
SAMI-T 「ショックです」という声もありましたね。あれだけ盛り上がって、楽しくハッピーな時間を過ごしたあとに、いきなり「休止します」ですから。
COJIE 感情が追い付かないよね(笑)。
MASTA SIMON ABEMAでの生中継を10万人くらいが観てくれていたので、そこからもいろんな意見が来て。「なんで?」とか「ショックで寝込んだ」とか、いろんな声がありました。
──MIGHTY CROWNのライブに行くことが人生の楽しみになっていた人も多いでしょうしね。
MASTA SIMON そうですね。30年活動していると「20代の頃は必ずライブに行っていた」という連中がだんだん来なくなることもあるんですけど、ライブに行けなくても心の支えにしてくれていたというか、「MIGHTY CROWNはずっとやってるもんだと思ってた」と言われることもあって。
SAMI-T 「こんなに影響を与えていたんだ」と改めて実感しました。
COJIE さっきも言ったように、これで終わるわけではなくて、形を変えて前に進むための休止なんですけどね。
──30年前の結成時は、これほどまでに支持される存在になると思っていましたか?
COJIE いや、まったく(笑)。「支持されたい」なんて考えたことはなくて、ただ好きなことをやってきただけなので。
MASTA SIMON そうだね。「アメリカでやりたい」「ジャマイカでやりたい」「あのサウンドクラッシュ(サウンドシステム同士が曲をかけ合い、誰が一番観客を盛り上げたかを競う大会)に出たい」というだけで。そこで優勝したことで扉が開いたところもありますけどね。
現地で体感したサウンドシステムの衝撃
──MIGHTY CROWNの活動がスタートしたのは1991年ですが、当時の日本のレゲエシーンの状況はどうだったんですか?
SAMI-T シーンと言えるようなものはなかったですね。まず、レゲエ自体が新鮮だったんですよ。自分たちもそうですけど、レゲエのカルチャーをどんどん掘り下げるのが楽しくて。学びながら力を付けて、少しずつ成長していた時期ですね。
MASTA SIMON 確かにシーンと呼べるものはなかったね。アンダーグラウンドなカルチャーだったんですよ。「レゲエ・ジャパン・スプラッシュ」(1984年~2003年まで行われていたレゲエフェス)はあったんですけど、俺たちのスタイルは違っていて。サウンドシステム(移動式の音響設備)を持っていたチームはほとんどなかったんです。まあ、俺らも海外の情報をもとにして、真似するところから始まったんですけど。
COJIE お手本がなかったからね。インターネットもない時代で、レコードを手に入れるのも大変だったし。
SAMI-T 自分たちも実際にニューヨークに行って、目で見て、肌で感じるまではわからなかったですね。今はネットで調べれば、“わかったふう”にはなれるけど。
MASTA SIMON ネットで調べることで現地に行った気分にはなれるからね。それも悪いことではないし、時代の流れだと思うけど、実際にサウンドシステムを体験したときの衝撃はすごかった。音圧でTシャツが揺れるとか、経験しないとわからないので。
SAMI-T 当時のニューヨークはジャマイカからの移民が多くて、独自のカルチャーを作っていたんです。サウンドシステムの爆音は本当にヤバかった。
MASTA SIMON 「ライブに勝るものはない」という考えは、今も昔も変わらないですね。現地のサウンドを体験してから、自分たちも見よう見まねでやり始めて、確実にレベルは上がっているんだけど、海外で本物を見るたびに「自分たちは全然レベルが低いな」と思い知らされるんです。そういう時期が4、5年は続いたかな。
SAMI-T うん。とにかく向こうのカルチャーに興味があったし、毎年のように「行くしかないな」と。
MASTA SIMON オリジナルを知るのは大切ですからね。プロ野球選手が「いつかメジャーでやりたい」と思うのと同じというか、自分たちも当然のように早い段階で海外を見据えていたので。
COJIE 2人とも英語が話せたしね。最低限の条件だけど、それはけっこう大きかったんじゃない?
SAMI-T パトワ語(ジャマイカで使用される、英語とアフリカの言語をベースにしたクレオール言語)は全然違うけどね(笑)。
MASTA SIMON 全然英語に聞こえないんですよ(笑)。
SAMI-T 言葉を学びたくて、ずっとストリートのカルチャーに触れてました。
──現地で吸収したことを生かして、サウンドやパフォーマンスを進化させてきたと。でも、ダンスホール、サウンドシステムのスタイルを日本で浸透させるのはかなりハードルが高かったのでは?
MASTA SIMON そうですね。いまだに理解されてないですから。「バンドなの?」「歌うんでしょ?」とか。テレビの音楽番組に出ているわけではないし、サウンドシステムにしても、いちいち説明が必要なんですよ。もちろん、昔に比べたらだいぶわかってもらえるようにはなりましたけど。
──COJIEさんの場合は、「セレクターって何?」というふうに思われることもありそうですよね。
COJIE 言われますね(笑)。曲をかける、言わばDJのような役割なんですけど、テクニックよりも選曲重視というか。
SAMI-T 選曲する人だね。
COJIE 選曲家です(笑)。
MASTA SIMON ダンスホールレゲエの場合、DJは歌い手のことなんです。さらにMC(楽曲の紹介や観客を盛り上げる役目)がいて。確かにわかりづらいかもね(笑)。
サウンドクラッシュでの優勝とメディアへの苛立ち
──MIGHTY CROWNは、ダンスホールレゲエ、サウンドシステムの説明から始まって、レーベルや事務所の設立など、すべてDIYでやってきた印象があります。
MASTA SIMON この30年を振り返ってみると、本当にそうなんですよね。サウンドシステムもそうだし、イベントの開催やメディアへの対応を含めて、すべて自分たちでやってきた。というか、そうするしかなかったんですよね。オリコンチャートで上位を目指すわけでもないし、ほかに自分たちと同じようなことをやってる人もいなかったので。
SAMI-T 確かにDIYですね。誰かがやってくれるわけではないし、見本もなかったので。このやり方で道を作れたことは、大きかったかもしれないですね。下の世代のMCを見ても、自分たちと似たようなことを言っていたりするし。俺らが活動を始めた頃は、レゲエをやってる人たちで、日本語でMCする人なんてほぼいなかったんですよ。「ダサい」と言われていたんですけど、日本語でやらないとわかってもらえなかったので、僕らは最初から日本語でやってました。海外ではパトワ語を使ってましたけど。
──“音の格闘技”と称されるサウンドクラッシュでは1999年に初めて世界大会で優勝し、2018年7月にはジャマイカでの世界大会「WORLD CLASH 20th Anniversary」で優勝するなど、大きな功績を残してきました。世界のトップになったことで、日本での活動もやりやすくなるなど、環境の変化はありましたか?
MASTA SIMON 今でこそ評価してもらえることが増えましたけど、優勝した当時は、日本のメディアはほとんど取り上げてくれませんでしたね。例えばビルボードチャートで1位になれば「すごい!」と思ってくれるんでしょうけど、サウンドクラッシュの世界大会で優勝することの意味がわかる人なんて、当時は全然いなかったんですよ。日本のファッション誌の編集者がニューヨークに取材に行って、向こうの連中に「お前らMIGHTY CROWNを知らないのか?」と言われて、「そんな人たちがいるのか?」ということで取材に来た、ということもありました。
COJIE むしろ海外の人から教わるという(笑)。
SAMI-T 今だったらすぐに情報が行き渡るでしょうけど、当時はそうじゃなかったので。サウンドクラッシュで勝ったことのフィードバックを感じたのは、優勝から2、3年後くらいでしたね。
──自分たちの活動を取り上げてくれないメディアに対して、苛立ちなどもあったのでは?
MASTA SIMON ありましたよ、正直。「なんで取り上げてくれないんだろう」と思って、自分たちで雑誌を始めたり。
SAMI-T こちらから「レゲエ、ヤバいですよ」とアプローチしたこともあったけど、ほぼ門前払いでしたから。音楽誌でも、ヒップホップやハウスのチャートはカラーページで紹介されているのに、レゲエはワールドミュージックに括られて、白黒ページだったりして(笑)。
MASTA SIMON 外資系のCDショップにも、レゲエコーナーがない時期があって。「これは自分たちでダンスホールレゲエを広めるしかないな」と思って、2000年にLIFE STYLEというレーベルを立ち上げたんです。そこから少しずつレゲエのアーティストが増え始めて、メジャーレーベルと契約するアーティストも出てきて、シーン全体のメディア露出も増えて。
SAMI-T “ジャパニーズレゲエ”という言い方も広まりましたからね。海外の活動だけをメインにしていたら、こうはならなかったと思います。自分たちのショーにしても、そのたびに「どこがよくなかったか」「こうすればもっと盛り上がるはず」と話し合って、確実によくなっていたと思うし。実際、ライブの規模もどんどん大きくなりましたからね。
MASTA SIMON 客が増えれば増えるほど、自分たちのかけたい曲だけではなくて、みんなが知ってる曲が必要になってきて。そうじゃないと盛り上がらないんですよ。
COJIE その葛藤はあったよね。やりたいことと求められることが必ずしも一致しないという。
MASTA SIMON うん。海外のフェスでも「みんなが知ってる曲でいけ。そうじゃないとこの人数は盛り上げられない」とよく言われたし、ビッグチューンで攻めるのはこの世界のセオリーなんですよ。ただ、「このヤバイ曲をみんなに知ってもらいたい」という気持ちは常にあるし、それをやっていかないと次に進めないので、そこは難しいところですね。