シンガーソングライター・加藤ヒロのニューアルバム「雨上がりの朝に」が7月7日にリリースされる。
現在52歳の加藤は、M&Aアドバイザリー業務を担う東証一部上場企業・GCAの創設者の1人としてキャリアを積んできた一方、2011年から本格的に音楽活動を開始した異色のシンガーソングライターだ。加藤は今春に会社を退職し、今後は音楽活動に主軸を置くことを決意。大きな人生の選択を経てリリースされる今作は、自身にとって3作目のアルバム作品で、1980年代のテイストを盛り込んだアレンジと、ピュアな少年の心が描かれたようなみずみずしい歌詞が印象的な楽曲群に仕上がっている。音楽ナタリー初登場となる今回は、彼の経歴をたどりながら、その音楽的センスが育まれてきた過程や作品の持つ魅力を紐解いていく。
取材・文 / もりひでゆき 撮影 / 須田卓馬
音楽の目覚めはビートルズと1980年代J-POP
──まずは加藤さんのこれまでの歩みを振り返っていければ。ご自身にとっての音楽の原体験はどんなものでしたか?
小学校5年生のときにThe Beatlesにハマりまして。夏休みにテレビで流れていた「アニメ・ザ・ビートルズ」(1964年にアメリカで製作されたThe Beatlesのギャグアニメ)を観ていたら、いつの間にか好きになっていたんです。テレビにラジカセをつなげて録音したテープを擦り切れるくらい聴いていましたね。それが自分にとっての音楽の目覚めで、中学3年くらいまではほぼビートルズしか聴いていませんでした。
──その後、高校は野球の名門校に入学したそうですね。
はい。野球を本格的にやるようになってからは、音楽を聴く時間がぱったりとなくなってしまいましたね。ただ、野球はとにかく練習がキツくて、1年で辞めてしまったんですよ。野球をやるために高校に行ったので、そこで一度目標を見失ってしまって。自分としては大きな挫折でしたし、心に傷を負った時期でもありましたね。
──なるほど。
でも通っていたのが商業高校だったので、会計という分野に出会うことができて。野球で味わった悔しさをバネに、会計士を目指すようになったんです。同時に、当時の友人から薦められた音楽をいろいろ聴くようにもなって。それが杉山清貴さんや稲垣潤一さん、山下達郎さんといった80年代を代表する邦楽アーティストたち。その頃にはもうビートルズには興味がなくなっていたので(笑)、邦楽に傾注し始めたその時期が本格的なスタートだったかもしれないですね。
──その頃からギターには触れられていたんですか?
そうですね。高校2年生のときに1年間新聞配達でお金を貯めて、モーリスのフォークギターを買ったんです。昔聴いていたビートルズや日本のアーティストの曲を弾いてみたくなって。ただ、買ったはいいけど弾き方がまったくわからなかったので、結局高校を卒業する頃には押し入れにしまったままになってましたけど(笑)。そこからはいちリスナーとして音楽を楽しんで、カラオケで歌うようになりましたね。
──歌うことは昔からお好きだったんですね。
大好きでした。小学生時代はお風呂でクリスタルキングの「大都会」をよく歌っていましたし、高校に入ってからは、毎朝布団にもぐって30分くらい歌っていた時期もありましたから。でも野球を始めたことで喉が枯れて、高いキーが出なくなってしまったんですよ。高校3年生のときに校内でカラオケ大会があって、そこで村下孝蔵さんの「初恋」を歌ったんですけど、まったくキーが合わなくて。それにものすごくショックを受けた記憶があります。とはいえ、その頃はシンガーになりたいという気持ちは微塵もなかったんですけどね。
遊びながら歌への憧れを募らせた日々
──大学在学中に目標だった会計士の資格を見事取得され、卒業後はニューヨークの会計事務所で働くようになります。
ニューヨークでもストレス発散のためにカラオケばっかり行ってましたよ(笑)。仲のいいお客さんと徹夜で歌いまくる日々で。せっかくニューヨークという素晴らしい街にいるのに、洋楽は一切聴かなかったですし、ミュージカルもコンサートもまったく観に行かなかったです。当時の自分にとっての音楽は、カラオケで歌うためのものだったというか、すごく偏った楽しみ方をしていたと思いますね。
──1998年に帰国されてからもカラオケ三昧の日々は続いたんですか?
いえ、それが帰国間際に声が出なくなったんです。喉にポリープができて。当時はかなりのヘビースモーカーでしたし、何よりも歌いすぎたんでしょうね。なのでそれ以降は、仕事をしながらパチンコばかりやる日々(笑)。もともと若い頃からパチンコが好きで、大学を抜け出して、30分だけのつもりが結局閉店まで続けてしまったこともありました。
──意外な一面が(笑)。
僕、基本的に仕事も大嫌いですから。いつ辞めようかってずっと思っていたくらいなので。ただ、それにも1つ転機があって。2004年、35歳のときにGCAという会社を自分で立ち上げてからは、ものすごく真面目に仕事をするようになりました。5、6年は死に物狂いで働きましたよ。それによって会社も上場してうまくいったし、現場を離れて経営側にまわったことで時間もできた。しかも年齢のわりにお金をたくさん持つようになったせいで、また悪い遊びを覚えてしまって(笑)。
──あはは。どんな遊びを始めたんですか?
赤坂にあるナイトクラブに通い始めましてね(笑)。でも、それには理由があって、そこは生のピアノ演奏で歌わせてくれるお店だったんです。その気持ちよさを味わったら、カラオケではもう満足できなくなってしまって。その頃からですかね、自分が本当に好きな歌を仕事にできたらと思い始めたのは。
──改めてご自身の人生について見つめ直した瞬間でもあったんですね。
そうですね。僕がやっていたのは上場企業で働く方々を相手にする堅い仕事で、そこにはクリエイティブな部分もありますけど、結局は明確な正解を求められるものなんですよ。いろんな選択肢はあるけど、絞り込んでいくと行き着くべき正解が見えてくる。でもそれと同時に、「正解だと思って導き出した答えが間違っていたらどうしよう」ということばかり考えるようになってしまうんです。
──なるほど。
でも、音楽には答えってないじゃないですか。厳密に言えばあるのかもしれないけど、自分が歌っていて気持ちいいとか、純粋に好きという気持ちだけでも向き合えるものなので、自分のやってきた仕事とは対照的に感じて、強く惹かれたんですよね。もともと縛られることが苦手な性格でもあるので、「自由なアーティストの世界っていいな」と思うようになった。歌を仕事にすることに、本気で憧れるようになったんです。
核となるのは人生のきらめき
──アーティストになりたいという夢を叶えるため、2011年頃には具体的に動き出されていたそうですね。
はい。まずボイストレーニングに通い始めました。ポリープで喉を痛めてからはちゃんと歌えなくなっていたし、セミナーの講師や大学の授業というしゃべる仕事もやっていたので、正しい声の出し方を学ぼうと思って。で、それから半年くらい経って、せっかくなら自分でギターを弾きながら歌いたいと思い、かなり高値なマーティンのD-45を買ったんです。そうしたらね、高校時代に買ったものとは全然音が違っていて。「ギターってこんなにきれいな音色なんだ!」と感動しました。とはいえ、なかなかうまく弾けるようにならないので、いいギターを集めること自体にハマっていた時期もありましたね。
──その頃から曲作りも始められていたんですか?
そうですね。D-45を買った翌年、2012年の12月くらいに初めて曲を作りました。最初はまったく作り方がわからなかったので、憧れだった秦基博さんの曲のコードを参考にして、そこに浮かんできた歌詞のフレーズを重ねていきました。それが「あの坂道の向こう」(2014年に発表された1stミニアルバムの表題曲)なんですけど。
──ご自身で曲を作るにあたって、楽曲の方向性は意識されていたんですか?
特に意識していたわけではないんですが、曲を作ることに関しては本当に少年のような感覚でスタートしているところがあって。曲作りのスキルが成熟しているわけではないから、主に学生時代の頃の自分の体験をベースにすることが多いんだと思います。「あの坂道の向こう」も、自分が初めて1人暮らしを始めたときの歌なんですけど、当時はいろんなことに悩んでつらい思いをしたし、逆にものすごく心躍る瞬間もあったので、何かを表現しようとするとあの頃の記憶が出てくるという。その感覚は今でもあまり変わっていないですね。
──ああ、なるほど。今のお話ですごく腑に落ちた感覚がありました。加藤さんが「M&Aで成功されている52歳のシンガーソングライター」だと聞いたときに、渋めのサウンドに人生を達観したような歌詞が乗った曲を勝手にイメージしていたんですが、加藤さんの楽曲からは少年のようなピュアさ、みずみずしさを感じていたんです。
音楽活動を本格的に始めた当時、実年齢は46歳でしたけど、たぶん自分が18、19歳くらいだった頃の感覚で曲を作っていたと思います。自分自身、どこかで成長が止まってる気もしますし、そもそも中身が薄っぺらいんじゃないですかね(笑)。
──そこが加藤さんの音楽の大きな魅力だと思いますよ。
仕事を通していろんなことをわかったつもりになっていたけど、でもそれが勘違いだったこともあって。それに気付いたときは恥ずかしさもあったし、自分は大した人間じゃなかったんだと失望感を抱くこともありました。大人になってから感じたそういう苦い思いを曲にすることもありますが、基本的には人生のきらめきというか、目の前の世界がバッと広がるような感覚のほうが表現しやすいし、それを歌うことに楽しさを感じるんですよね。
──その後は地道なライブ活動を続けながらCDのリリースも重ねてこられましたが、その間に「アーティストとして成功をつかみたい」という思いが強くなっていったんでしょうか?
そうですね。音楽活動を始めた当初は、仕事上の立場を気にしながらやっていたので、他人からの「音楽は趣味でしょ?」という言葉にカチンときつつも、自分でも「趣味に留めておいたほうがいいのでは」と思っていたんです。でも2017年に、過去にRIP SLYMEらを手がけられた、今お世話になっている音楽プロデューサーの方に出会ったとき、「趣味じゃ絶対にダメだ」と怒られたんですよ。僕としてはそれがすごくうれしかった。今までは躊躇していたけど、自分から「アーティストです」「シンガーソングライターです」と名乗っていいんだなと思えたから。そう自覚してからは、音楽活動に対するいろんな欲も出てきたし、自分の中のリミッターが少しずつ外れていきました。
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1つひとつ小さな階段を登って