それはあまりにも美しい幕切れだった。2024年2月にQueenとの対バンという形で始まったGLAYのデビュー30周年イヤーは、今年5月から6月にかけて東京ドームと京セラドーム大阪で行われた大型公演「GLAY 30th Anniversary GLAY EXPO 2024-2025 GRAND FINALE」で華々しく終幕。中でもクライマックスを飾った東京ドーム公演の初日には函館時代からの盟友YUKIが、2日目には1990年代から現在にかけて交友を持つL'Arc-en-Cielのhyde(Vo)が出演しドームが揺れる事態に。盟友ならではの言葉とパフォーマンスでGLAYを盛大に祝い、大きな話題を呼んだ。
おとぎ話におけるハッピーエンドのような爽快な余韻が続く中、新たなフェーズに突入したGLAYが放つのが、ニューシングル「Dead Or Alive」と、ドーム公演の模様を収めたライブ映像作品「GLAY 30th Anniversary GLAY EXPO 2024-2025 GRAND FINALE」の2作だ。きたる2026年に向けて本格的に動き出したGLAYは今、どんなモードなのか。リーダーのTAKURO(G)に聞いた。
取材・文 / 中野明子
30周年は悔いを残さないよう全部やろう
──デビュー30周年を記念した「GLAY EXPO」は見事なフィナーレでした。25周年のタイミングはコロナ禍で100%お祝いできる状況ではなかった分、それを取り戻すかのような充実ぶりで。
おっしゃる通り、25周年のタイミングは世界規模でコロナ禍に見舞われて、ミュージシャンであることの前に、とにかく自分たちのいるコミュニティをちゃんとしなきゃいけなかったりして、世の中と自分との関わりをもう一度考えさせられる機会でした。そんな中でTERUは自主企画「LIVE at HOME」を始めて、GLAYはGLAYでできることをしていって。コロナ禍が開けたくらいから、30周年はちゃんとやろうという目標を意識し始めました。メンバー全員50代になりましたからね。
──ちょうどコロナ禍に年齢的な節目も迎えられたわけですね。
バンド仲間が何人も亡くなったりしていたので、自分たちの年齢や健康について考えなきゃいけない時期が近付いているのは自覚していて。当然35周年も40周年も楽しく華やかに祝いたい気持ちはあるんですが、人生というものはなかなかコントロールしづらいものがあるなと思い知った。だったら30周年は悔いを残さないように、ファンの人に喜ばれることを全部やろうというある種の覚悟を持って臨みました。自分たちとしては挑戦の意味合いもありましたね。50代に入ってからもまだドームツアーができるバンドなのかどうかとか。あと目標として掲げたのは、小田和正さんとのセッションを叶えること。5年以上前からラブコールを送っていたので、それをなんとか形にすることを考えていました(参照:GLAYベストアルバムに小田和正とのコラボ曲)。ENHYPENのJAYとのコラボも、準備に2年ぐらいかかったんですよね。
──かなり前から周年プロジェクトは動いていたと。
京セラドームのステージに立ったのは24年ぶりで、僕らとしてはまさに念願であり悲願でもあった。なんだけど、周年が終わった3日後くらいにB'zのリハーサルが始まって。
──松本孝弘さんの代わりに、B'zのライブイベント「B'z presents UNITE #02」でサポートギターを務められたんですよね。燃え尽きている場合じゃなかった(笑)。
なんて人生は面白いんだ!と。松本さんのお手伝いでイベントへの出演は少し前から決まっていたので、京セラドームが終わって「やったー!」という感じにはならず。自分にとってはもうとんでもない大きな仕事がすぐ待ち構えていた。俺がB'zでギターを弾くなんて、素人の体操選手が「お前、人足りなくなったからオリンピック日本代表な」って言われるようなもので。氷室京介さんとのセッション(2006年8月にリリースされたGLAY feat. KYOSUKE HIMURO名義のシングル「ANSWER」)で俺はキャリアのピークを迎えたと今でも思ってるけれども、B'zでギターを弾くというのもピークの1つでしたね。GLAYという頼れる仲間3人と一緒に立つ東京ドームのステージとはまったく別物で、慣れない場所で自分のギターだけを頼りにB'zファンの前でギターを弾くプレッシャー。それを乗り越えられたので、俺はもう何も怖くないです。これからの人生で、「UNITE」のときほどいろんな思いを抱いてステージに立つことはないんじゃないかな。だからそれが終わったら燃え尽き症候群どころか、灰も残らないような状態になって。「UNITE」が終わってすぐロサンゼルスに帰りましたけど、本当に空っぽ。何もやる気が起きなくて、1カ月半くらい遊び倒しました。
──心おきなく。TERUさんはアート活動に邁進し、HISASHIさんはメディアに出演し続け、JIROさんはCONTRASTZと活動する中、TAKUROさんは何をされていたのかなと思っていたんです。
あはははは! サイクリングしに出かけたり、バナナボートに乗ったり、ハワイに飛んだり、ニューヨークに遊びに行ったり。本当に、1カ月半くらい自堕落な生活を謳歌しました。マネージャーやスタッフには申し訳ないけど、連絡もメールの返事する気もなく。ジャッジできないくらい空っぽで、何も考えられなかったんですよ。自分の中からGLAYを一度抜いて、B'zの重圧を下ろすような作業を繰り返す中で、自然と今後自分がやりたいサウンドとか、メロディや歌詞が浮かび始めて。8月中旬くらいからもう新曲の制作に取り組んでました。
──義務感や仕事ではなく、あくまでも自然に。
そう。3週間くらいの間に、JIROとHISASHIに作った曲をどんどん送って。レスポンスが来たらアレンジを直して、歌詞を調整するといった純粋な制作をしていました。
タイアップにおいてGLAYはあくまでいちスタッフ
──大きな節目を経てのGLAYの次の一手が、ニューシングル「Dead Or Alive」となります。表題曲の制作はいつ始めたんですか?
これは今年の3月にはだいたいできあがってましたね。今年9月くらいまで手直しをしていましたが。30周年では幅広く、受け皿の大きな活動をしていたけど、30周年以降はロックバンド然というか、ただのガチャガチャしたロックバンドをやりたいという思いがあったので、制作においてそこを意識したところはあります。アレンジでHISASHIの色が強く出て、サイバーな感じになっていますが。
──30周年も終わりに近付いたタイミングで、次のフェーズも見据えていた。
はい。
──表題曲はNetflixで独占配信中のアニメ「終末のワルキューレⅢ」のオープニングテーマで、作品とリンクする言葉がいくつも登場します。
いつもそうなんですが、GLAYがタイアップ曲を担当させていただくときは、アニメやその作品がよくなることを一番に意識していて。音楽部門のいちスタッフとしての顔を色濃く出すようにしているんです。自分たちの思想云々よりは、物語にちゃんと花を添えられるような、その作品がさらにいいものになることを考える。スタッフの一員としての動きなので楽しいし、作りやすい。
──タイアップ曲は歌詞の指定があったりなど、制作における制約が大きいのでは?と想像したのですが、むしろお題があったほうがスムーズですか?
今はね。例えば、今回の曲のように「ワルキューレ」という言葉を歌詞に入れることとか、30代だったら抵抗があったかもしれないですね。もうちょっと視野が狭くてとがっていたし、懐が狭いというか。「もっとGLAYの色を出してやろう」「これを利用して自分たちが世に出るきっかけにしよう」みたいな若さゆえのエゴがあった。キャリアを重ねる中で、自分の本当の幸せはなんだろうということをいろんな局面で考えるようになったんですね。「GLAYと仕事してよかった」とか「この人たちはちゃんと一緒にやってくれる」とか、そう感じてもらうほうが尊いということに気付いてからは、作品に寄り添いつつGLAYにしかできない仕事をすることを意識するようになりました。そこは昔とは全然違うところだと思います。
──ご自身の考えが変わる大きなきっかけがあったんですか?
例えば「ドラゴンボール」や「キン肉マン」のように、いろんな人に影響を与えた日本のアニメ作品の主題歌って、誰が歌ってるかとか、誰が演奏してるかというのは子供たちは知らなかったりしませんか?
──確かに。アーティスト名ではなく、あくまで曲として記憶する傾向が強いですね。
僕らが子供の頃もそうだった。でも、1990年代以降、日本のテレビ界がテレビドラマと主題歌のタイアップという禁断の箱を開け、それがいい効果を生み、素晴らしい曲が生まれる一方で、行きすぎた結果「もはやこのドラマのために書かれたのかな? アーティストの名前を使いたくて依頼したのかな?」と疑問に思うような事態も生じることになった。GLAYもそういう時代に活動していましたから、自分たちが話をいただいたアニメやテレビドラマの主題歌に対して、本当にスタッフと心通わせて作れたかという点では怪しいときもあったし、それが小さな後悔として残ってるんです。どんなにアーティストの名前が大きかろうが、テレビ局の名前が有名だろうが、監督が求める作品との相乗効果が主題歌には一番大切なのに。
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HISASHIとのやりとりは大喜利?



