堂本剛が2002年に発表したシンガーソングライターデビュー曲「街」を、クリエイティブプロジェクト.ENDRECHERI.名義で再レコーディングし、タイトルも「Machi....」と改め、12月11日に配信リリースした。
「街」は堂本が長らく自身のライブにおいて大切な場面で歌っているバラード。制作時は20代前半だった彼が、生きづらさやさまざまな葛藤を抱えながら音楽に救いを求めるように書いたという。この思い入れの強い楽曲を、タイトルも新たに再レコーディングしたのにはどのような背景があったのか。本人に22年前の出来事を交えながら明かしてもらった。
取材・文 / 小松香里撮影 / 笹原清明
苦しくてつらくて涙も枯れて出なくなっている時期に書いた
──2002年にリリースされたシンガーソングライターとしてのデビュー曲「街」は、発表された当初は悲観的なニュアンスが感じられた曲でしたが、再録バージョンや最近のライブでは、包容力や優しさがにじんできている印象があります。
そうですね。改めて歌ううえで、そういった感じが出るよう意識しながらアレンジしたところはあります。今まで支えてくださったファンの方々への感謝の思いも込めましたし、同時に「街」を書いた当時の自分の年齢に近い方々の挑戦や葛藤に対して力を与えられたらいいなと思ってレコーディングしました。あと、これから新しく出会ってくださる方々にも感謝を伝えたかった。そんな思いをひとつにしてアレンジしたら、柔らかい音へと導かれました。「街」はシンガーソングライターとして最初にリリースした楽曲ですし、とにかく思いが詰まりすぎているんです。当時の自分から強く背中を押してもらえる不思議な楽曲でもあって。曲に「がんばれよ」と励まされちゃうし、「がんばってるな」とも言われちゃうというか。
──剛さんはこの数年で高いトーンであっても張りすぎず、暑苦しく聞こえない声を出すことができるようになったそうですが、その歌唱法は今回のレコーディングにも生きていますか?
生きてますね。僕は突発性難聴になったことで、大きい声を出しすぎたときに音が割れて聞こえてしまう後遺症があって。本来バラードは好きなんですが、昨今.ENDRECHERI.として作る楽曲がラップが多くなっていたり、ファンクが主流になってる理由はそこにあります。障害と向き合いながら音楽を続けていくうえで、できるだけストレスがない状態にするためにそういうジャンルが多くなっている。バラードを歌いながら達成感や喜びを感じることもあれば、「やっぱり以前と比べてこれができない」と思って凹むことがあって、ダメージを受ける可能性も高いんです。なるべく自分にストレスをかけたくはないのですが、「バラードを聴きたい」とおっしゃってくれる方がいるので、試行錯誤する中で少しずつダメージが少ない歌唱法が獲得できています。日によって症状の差はあるのですが、発症した当初と比べたら本当に楽になりました。今は定期的にお医者さんにアドバイスをもらいながら、気楽にいろいろなことを試しているような状況ですね。僕と同じ症状を抱えてる方からラジオ番組にお便りをいただくこともあるので、自分が音楽を通して障害と向き合ってトライを繰り返すことが“リボーン”や“リスタート”といったメッセージに変わるんじゃないかなと思っていて、今はそれが僕の音楽をやる理由の1つでもあります。
──「街」はライブの大事なポイントで、曲に込められた思いを話したあとに歌われていますよね。
そうですね。ファンクミュージックが好きになってから「日本でファンクバンドをやってる人はあまりいないけれど、人生1回やから、どれだけ茨の道でもオモロいな」と思ってファンクの世界に全身を突っ込んだんですね。ファンクの曲と10代、20代の頃に作った楽曲のカラーは少し距離があるので、ライブで急にこの歌を歌うとどうしても違和感が生じます。ここ数年は、それが生じないセットリストのときに大切な場所で歌うことにしています。ライブで歌うようになったのは、コロナ禍という時代を経験したことも大きいですね。「街」は僕が本当に苦しくてつらくて涙も枯れて出なくなっている時期に書いた曲なんです。でも、コロナ禍で自分も含めてみんなが大変な日々を過ごしているときに、「街」は自分に勇気を与えてくれました。だからこそ、徐々にライブでも歌うようになっていって。それと、現在にも戦争はありますし、まったく平和な時代ではない。僕はシンガーソングライターなので、音楽を通して少しでも平和に近付けるようなことができたらうれしいなと思って生きています。「街」は愛すること、愛されることをあきらめてしまいそうな人を引き止めるような思いで歌っている大切な曲です。
命をもう一度始めようと思えたのは音楽だった
──「街」によって自分が救われた経験があると同時に、「街」によって救われた人もいると思うのですが、それについてはどう感じていますか?
僕がシンガーソングライターに憧れを抱き始めたとき、今のように自分の考えを素直に伝えられる場所はありませんでした。伝えたとしても間に誰かが入ってきて、ファンの方に直接届かない。「自分の本当の心はどれだけ伝えたいと思っても届かないものなんだ」と思ってあきらめて生きていたところ、「でも歌だったら伝えれるんじゃないか」とシンガーソングライターとしての人生を送ることに憧れたんだと思います。「街」を書いたとき、当時、周りで支えてくださったの人たちからは「キラキラしたラブソングを書かずに、なんでこんな曲を書くんだ」と相当怒られました。それで、「自分は本当においしいと感じたことやきれいだと思ったこと、好きなことを言葉にしたらあかんねんや」と思ってしまって。当時は反発する気もなく、ただ落ち込んで傷付くだけの少年でしたね。でも、そんな曲がここ10年ぐらいで、「『街』めっちゃ聴いてました!」とか「カラオケで歌ってます!」と言ってもらえることが増えたので驚いているんです。「この曲は一人歩きして、いろいろな人のところに『こんにちは』って言いに行ってるんだな」と思えて素直にうれしかったですね。書いてよかったですし、おじいちゃんになっても歌いたい楽曲です。
──それだけの普遍性を「街」という曲が宿しているということだと思いますが、その理由を堂本さんはどう分析されていますか?
本心で歌ってるからじゃないですかね。この曲は、僕の本心をアウトプットするためのものだった。本当のことを言っていれば相手や周りにちゃんと伝わるのと一緒で、自分のそのときの思いを、自分の言葉で書いた曲なので濁りがない。だからなのか、「街」を披露するときは、年々歌うというよりしゃべっている感覚になってますね。
──素直に思いを伝える場所がない中、ご自身の素直な気持ちを「街」の“歌詩”として書いたとき、どんなことを感じていましたか?
この曲を書いたときの僕は、周りから「子供やねんから黙ってろ」と言われることと、「子供ちゃうねんからしっかりしろ」と言われることの繰り返しで「どっちやねん」と感じていましたし、「なんでそんなきつい言い方をするんだろう」と落ち込んでいました。そして、大人と大人がケンカをしているのを見て、「なんで平和を目指さないんだろう」「なんで愛をあきらめるんだろう」ってすごく傷付いていました。若かったから生まれた曲というわけではなく、今でも同じことを感じているんですね。揉めてる人を見るとすごく疲れますし。そういうときって大体、自分のことだけを考えて大きな声を出している人と、心があるからこそ受け身で聞いている人という構図があって。人はコロナ禍という大変な時代を経験しても、戦争という歴史を知っていても、変わらないんだという悲しさが僕の中にはずっとあります。そういう思いが「街」には入っていて。大変な時代だから自分のことにピントを合わせてしまうかもしれないけど、本当に僕たちがやらなければいけないのは、もうちょっと相手のことを心で考えて、愛をあきらめないで生きること。エンタテインメントには「そんな映画とかマンガみたいなこと言って叶うわけないでしょ」みたいなことも含めて発信する役割があると思っています。それを当時の僕は音楽を通して、自分なりにアウトプットしたんです。
──大変な状況にいるのに、自分以外の“君”に向けた思いやりにあふれた曲になっているのが剛さんならではだと思います。
こういう曲を書けたのは、自分自身が生きることをあきらめようとした人間だったのが大きいと思います。命をもう一度始めようと実行できたのは音楽の存在が大きかった。自分と同じように命をあきらめてしまいそうな人に「一緒に生きよう」と言ってあげたい気持ちもあったので、愛というものにピントを合わせてずっと音楽を作っていこうと決意したのもその頃。今はこうやって真面目に話していますが、力を抜いてラフな曲や変な曲も書きますし、「楽しかったらいいやん」と思ってるところもあって。でも、根本にはさっき話した「街」に込めたような気持ちがある。生まれてからずっと変えられない部分のひとつというか。僕は奈良で生まれて、夜はめちゃくちゃ静かな場所で育ちました。高い建物が少なくて、満天の星空が広がって、たくさんの流れ星が見えるような環境で、多くを求めないまま生きてきた。今は東京に住んでますが、「人生1回で命は1つや」と気付いたら、いかに楽しく幸せな時間を過ごすかということを考えるだけだと思うんです。これまででいろいろな仕事をしてきましたが、その考えはずっと変わらないですね。
──「街」の持つ雰囲気と、.ENDRECHERI.の音楽性やバイブスは違いますが、根本は一緒ということですよね。
一緒です。生きてるからこそ、独創的なこともできるし楽しめる。まっすぐ真面目に生きることもできる。僕は0か100かになりがちな人間なんですが、その両方があることが大事だと思うので、いつも50を目指して生きようとがんばってはいて。だから.ENDRECHERI.のテーマカラーは赤と青を混ぜた紫なんです。例えば情熱と冷静の両方がないと、人生や自分の旨味がなくなるんじゃないかなって。真ん中を生きれば、そのどっちにも行けると思っています。
──曲を作り始めた当初は「本当に自分で曲を作って演奏しているのか」という心ない声が上がっていたそうですが、今やそういった声はほぼ聞こえない状況になりました。それについてはどんなことを感じていますか?
当時は「アイドルには偏見がつきまとうんだな」と思ってすごく落ち込みました。以前は「どうせアイドルがやってることでしょ」みたいなことを言われたこともありましたし。自分なりの戦い方を続けて、アーティストとして見ていただけるようになって、今や何の肩書もなく“ただの自分”になってる感じがします。新しいフィールドへと歩き出してから、シンガーソングライターとしてだけでなく、楽曲提供やアレンジャーとしてのお仕事の依頼がすごく増えました。味方になってくれた人やそばにいてくれた人、自分を信じてくれた人たちに、イチから音楽を作ることを教えてもらったことで曲が作れるようになったんですが、音楽関係のお仕事をいただく中で「こんな日が来るんだな」と感慨深くなりますね。
──主演映画「まる」では初めて映画音楽も担当されましたね。
監督から相談されたとき、最初は「音楽を付ける必要のない映画なんじゃないですか?」と答えたんですが、具体的に「この箇所に音楽を付けてほしい」と言ってくださって。いろいろと悩みながらスタッフとああだこうだ言いながら作っていきました。劇伴作りは初めての経験だったのでものすごく難しかったですが、面白かったですね。今度は出演する、しない関係なく音楽を作る役割で映画に携わってみたいですね。
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「ホンマに1人やんな……」