安田弘之「ちひろさん」完結記念、“同じ星”からやって来たアニソンシンガー・ReoNaとちひろへの思いを語る

少し風変わりな風俗嬢を主人公とした物語「ちひろ」。その続編として発表された「ちひろさん」の完結10巻が発売された。海辺の小さな弁当屋で働く元風俗嬢のちひろと、彼女のもとに集まる悩みを抱えた人々の暮らしぶりが描かれた同作は、かねてよりマンガファンからも人気の高い作品である(参照:私の名作 第2回 安田弘之「ちひろさん」)。また2023年に今泉力哉監督、有村架純主演により実写映画化されたことでも話題を呼んだ。

コミックナタリーでは完結を記念し、作者の安田と、「ちひろさん」の愛読者であり、“絶望系アニソンシンガー”を掲げる女性アーティスト・ReoNaとの対談をセッティング。高校生の頃から「ちひろさん」を“宝物”のように読んできたというReoNaは、ちひろをどんなふうに見つめてきたのか。“きっと同じ星からやって来た”という2人がじっくりと語り合った。

取材・文 / ナカニシキュウ撮影 / 入江達也

「ちひろさん」は“宝物側”の作品

安田弘之 ReoNaさんが高校生時代から「ちひろさん」を愛読してくれているというのを聞きまして、「高校生でこれを好きになるって、どういう人なんだろう?」と興味が湧いたんです。それで今回、対談相手に指名させていただきました。

ReoNa 恐縮です……! 本当にずっと大切に読ませていただいてきた作品なので、まさかこんな形で安田先生にお会いできるとは夢にも思っておらず。

安田 その当時、16歳とかそのぐらいってことですよね?

ReoNa はい。高校1年生だったか2年生だったかちょっと定かではないんですが、15、6歳のときだったと思います。

安田 15、6歳の子が「ちひろさん」と出会ってどういう感覚になるのか、僕にはちょっとわからなくて(笑)。周りにこれを読んでる子なんていなかったでしょう?

左から安田弘之、ReoNa。

左から安田弘之、ReoNa。

ReoNa そうですね。電子書籍を使い始めた頃にオススメ欄に出てきたのがきっかけだったので、人から薦められたわけではなかったのはすごく覚えていて。しばらくは誰にも言わずに、自分の中だけで大事に取っておいていました。好きな作品の中には“人に教えたいもの”と“自分にとっての宝物“の2種類があると思うんですけど、これは私にとって宝物側の作品だったので。

安田 ありがたい……。

ReoNa 最初に1巻を読んでみたときに、いろんな言葉の1つひとつがすごく腑に落ちて「なんだこれは!」と衝撃を受けたんです。私の中で当時、類似作品がなかったんですよ。

安田 そうだと思います。電子書籍のオススメに出てきたっていうけど、ほかに何を読んでいたら「ちひろさん」がオススメされるのか想像がつかないもん(笑)。

ReoNa (笑)。ちひろさんの周辺では、マコトとかオカジ、べっちん、すずちゃん、谷口さん……いろんな年代の人たちが痛みや孤独を抱えているじゃないですか。読む人それぞれが、誰かしらに自己投影できる瞬間がきっとあるんだろうなと思っていて。

「ちひろさん」1巻第2話より。

「ちひろさん」1巻第2話より。

安田 そういう声が、実際に届きますからね。探り探り描いていくんだけど、反応がすぐに届くから「ああ、これは欲されているんだな」って。ましてや今はSNSがあるじゃない? これはマンガ家にとっては革命なんですよ。昔は出版社に届くファンレターぐらいでしか読者の反応は知り得ないものだったんだけど、今は個人的な生の声がダイレクトに届くので。エゴサとか好きで、よくしてるんです(笑)。

ReoNa ふふふ(笑)。

安田 要するに、僕は話し相手を探していたんです。これを読んで何かを感じてくれた人であれば、同じレベルで話ができる人ってことだから。その相手を手っ取り早く見つけられる、名刺みたいなものなんですよね。その名刺を配るためにマンガを描いているところがある。それは年を取ってから気づいたことだけど、きっと昔からずっとそうだったんだろうなと。

わけのわからない大人にいてほしかった

ReoNa びっくりしたのが、第1話でいきなり師匠(と呼ばれるホームレスの老人)が亡くなるじゃないですか。いったい何を思って最初にあのお話を描こうと思われたのか、ずっと聞いてみたくて。

「ちひろさん」1巻第1話より。師匠を看取るちひろ。

「ちひろさん」1巻第1話より。師匠を看取るちひろ。

安田 当初のプランでは、ちゃんと弔われないような人たちをこっそり弔っていく話をイメージしていたんです。だから連載予告カットのちひろが喪服姿なんですよ。でも、「これ続かねえな」と思って(笑)。担当さんも「変えていい」と言ってくれたんで、お弁当屋さんメインの話になっていったの。

ReoNa そうだったんですね。そこが出発点になって、ちひろさんが周囲の人たちと触れ合いながら、彼らの生き方や考え方に影響を与えるようなお話になっていった。

安田 だんだんそうなっていきましたね。自分でも描きながらちひろのキャラクターを探っていったんだけど……ちひろって、要は自分にとっての“いてほしかった大人”なんですよ。

ReoNa なるほど……!

安田 変わった大人の存在って、人生においてすごく大事なものだと思っていて。ちゃんとした立派な大人だけじゃなくて、“変な人だけど妙な説得力のある大人”が人生の道すがらにいてほしかったんですよね。「周りにどう見られるか」じゃなくて、「自分がどうありたいか」で生きている大人。

安田弘之

安田弘之

ReoNa 私もまさに、ちひろさんに対して「こんな人がいてくれたらな」と感じていました。マンガの中に出てくるシチュエーションをそのまま自分が経験したわけじゃないんですけど、近いことがあったときに間接的にちひろさんが寄り添ってくれるんですよ。

安田 それを感じ取れるということは、それだけのものを抱えていたってことですよね。いろいろあったんだろうなと想像がつくし、さっきも言ったけど、「ちひろさん」を好きで読んでいるという時点で“話が通じる人”ってことなんですよ。これを好きだという人を僕が嫌いなわけがないんで。

ReoNa ふふふ(笑)。

安田 だから読者、しかも熱心に読み込んでいる人というのは、僕にとっては親戚も同然なんです。

ReoNa その感覚は私にもあります。私も楽曲の中に自分が感じてきた痛みや孤独などを少なからず投影しているので、受け取ってくれる人はきっと似た痛みを抱えた、親戚みたいな人たちなんだろうなと思っていて。

安田 スタンスがすごく似てるってことですよね。今日が初対面ではあるんだけど、「どうせ近い星から来た人でしょ?」と思って(笑)、最初から気が楽だったんです。

ReoNa 同じ星だと思います(笑)。

「人間脱いでる人いるー!」と思って

ReoNa 私は奄美大島の出身で、海のすぐそばで育ったんです。「ちひろさん」の舞台も海辺の街じゃないですか。なぜ海を舞台に選ばれたのかっていうのも、ずっと気になっていたんです。

安田 僕自身が海が好きっていうのもあるんだけど……海っていうか、水が好きなのね。水なんだよね。第1巻のカバーで水面に立つちひろを描いたんだけど、あのイメージが最初にあって。海と空を描きたかったから海辺の街になった、ぐらいの感覚ですね。

ReoNa 水なんですね。私も、疲れると水浴するんです。手近に行けるところがなければとりあえずお風呂に入るぐらい、水って大事なものだと思っていて。「疲れは水溶性」という言葉がすごく好きで、水に溶けていってくれる気がするんです。

安田 すごいね。それは本当にそうで、疲れは水溶性なんですよ。最悪、家の狭い風呂でもいいんです。

ReoNa ちひろさんもそうなのかな?って、なんとなく親近感を持っていました。

安田 ちひろは嵐とか台風にテンションが上がったりもするでしょう? それだけ、水というものが人間の根源的な何かに影響するってことなんですよ。

ReoNa あと、ちひろさんが言っていた「人間を脱ぐ」という表現が、当時私の中にあったモヤモヤに“言葉の正解”をくれた気がしていて。私は人と会って話すことは好きなほうなんですけど、人間を脱いでひとりになる時間も絶対に必要なんです。でも、「この日何してる?」と聞かれたときに「ひとりになる日」とはなかなか言えなくて。

「ちひろさん」2巻第10話より。
「ちひろさん」2巻第10話より。

「ちひろさん」2巻第10話より。

安田 本来、それを言えない社会のほうがおかしいんだよ。「ひとりでいるのは寂しいことだ」「みんなでいたがるほうが正しい」とかって決めつける風潮を、僕は一番変えたかったんです。ひとりになる時間はひとりになる時間であって、人と会う時間と同じぐらい大事なものなわけじゃないですか。それを普通に言える世の中になったらいいな、と描きながら思ってた。だんだんそうなってきてますけどね。

ReoNa そうですね。最近は割とひとりになる時間を作りやすい世の中に、とくにコロナ禍以降はなっている感じがします。でも当時高校生の、しかも女子にそれはなかなか難しくて(笑)。

安田 ですよね(笑)。

ReoNa 当時は自分が矛盾しているようにも感じていましたし、相手に「私と一緒にいるのが嫌なのかな」と思わせたくもなかったですし……そんな時期にあの話を読んで、「あー!人間脱いでる人いるー!」と思って(笑)。この感覚は自分だけのものじゃないんだと知って、後ろめたさがなくなりました。

安田 描いた甲斐がありますね。だいたいの人は、“人間という着ぐるみ”を着ている感覚すらない。だから脱ぐという発想がないんだけど、他人と接するときにはすべての人が無意識に着ているものなんですよ。そこに「人間を脱ぐ」という言葉を投げかけることで、「あ、これ脱げんの?」という驚きが生まれたらいいなと思って。

ReoNa まさにそれですね。「私、人間を脱ぎたかったんだ!」って、すごく腑に落ちました。

安田 誰も言ってくれないですもんね。

ReoNa 言ってくれないですねー。