米津玄師|愛情ってなんだろう“変化の中にある連続”を見つめて

実感と近いところに物語がいてくれた

──新曲「Azalea」はアルバム「LOST CORNER」から4カ月という短いタームでリリースされますが、作っていた時期はアルバムの制作と重なっていたんでしょうか。

曲の原型を作ったのは去年で、それを手直ししたのが今年の2月、3月くらいですね。アルバム曲よりも前に作った曲です。なので、さっき言った「軽やかにいたい」という感覚の延長線上にあるものではないです。

──Netflixシリーズ「さよならのつづき」の主題歌というオファーを受けて、まずどういうことを考えましたか?

このドラマは心臓移植の物語なんですが、冒頭でこれから結婚する恋人同士の片割れが事故で死んでしまう。その恋人の心臓を移植したまったく別の男が現れて、残された人間がそこに恋人の面影を見出してしまうんですね。「延長された人生」を描くところがすごく興味深いと思ったし、ここ最近自分がずっとインタビューで言っているような、愛し合うにあたってその交換可能性を見つめていくというところとすごく合致するようにも思いました。非常に納得がいくというか、自分が今まで考えてきたことを補強するような話だと思ったんです。なので、制作もすごくやりやすかったし、作っていて楽しかったですね。

──もともと米津さんの中にあった考え方と、「さよならのつづき」のストーリーや世界観がリンクしているような感じがあった。

そうですね。自分の実感と近いところに物語がいてくれたので。あとはそこに恋愛、ラブロマンスのフィルターを通して自分の実感を再構築していくという感じでした。

米津玄師

行為を通して生まれてくるもの

──サビには「君がどこか変わってしまっても ずっと私は 君が好きだった」「そこにいてもいなくても 君が君じゃなくても 私は君が好きだった」という歌詞があります。ここはまさに米津さんがおっしゃったような、変わっていくことを前提に目の前にいる相手とその都度関係を結ぶというコミュニケーションのあり方が表現されているように思います。こういう話は「カナリヤ」や「がらくた」などの取材でも聞いてきたように思うんですが、改めてどういう由来でそういうことを考えるようになったんでしょうか?(参照:米津玄師「STRAY SHEEP」インタビュー

まだ30代ではありますが、歳を取っていけばいくほど会わなくなる人間もいれば、ずっと関係が続いていく人間もいる。仕事の面でも友達でも、長い時間をともにしていくと「こいつ変わらないな」と思う部分もあれば、どうあがいても変わっていってしまう部分もあって。当人は変わってないつもりでも、いろんな要因で相対的に変わっているように見えたりもする。永久に不変なものはそうない。だとすると、じゃあそういう人たちとどう向き合えばいいのかと考える必要があったんですね。少なくとも、それを自分で納得しないことには先に進めないという感覚があった。そこには自分の失敗や反省もありました。20代の頃は猪突猛進というか周りを顧みないところもあったし、それで虎の尾を踏むような瞬間もいっぱいあって。「痛いんだよ」と言われて「ああ、これは痛いのか」って、そのたびに反省したり考えを改めたりしていくこともあった。友人とは言っても結局はみんな他人なので、今までと同じ関係を続けられるのかどうか、その都度繰り返し問い続けなきゃいけない。繰り返し問い続けることがすごく重要なんだということを、経年とともに徐々に理解していった感じだと思います。

──例えば「絆」という言葉が象徴するように、愛情や人と人との結び付きにおいて、変わらないことに安心したり、変わらないからこそ愛着が生まれると考えている人は多いと思います。だからこそ、変わっていくことを受け入れてそのたびに関係を結ぶことが大事なんだという考え方を知ることで、どこか楽になるような感覚を覚える人もきっといると思うんです。米津さん自身は、人と人との関係性をそう捉えるようになって、自分の考え方はどう変わりましたか? 楽になったりしましたか?

すごく楽になったと思います。それこそ自分も若い頃は他人に対して変わらないことを求めていたし、「どうして変わっていってしまうのか」と思っていたこともあって。でも、それはこちらの独りよがりというか、ただ寄っかかっているだけだと思うんですよね。人間はおのおのが主体的な生き物なので、ずっとそのままでいてくれというのは浅ましいことである。それぞれがやりたいことをやっていくし、いくら互いにわかり合う関係であっても、心の内がまったく一緒とは限らない。そりゃそうだよねって。「私もあんたも変わっていくもんね。でも、変わっていったとしても連続していくものがあるといいよね」という考え方になったという。で、今回の曲は恋愛がテーマなので、恋愛を基軸にしてそのことを見つめた。そこから「愛情ってなんなのか」ということを考えたんです。

──この曲を書くうえで、愛情とは何かということを考えるきっかけがあった。それはどういうものだったんでしょうか?

伴侶とかパートナーって、つまりは「あなたのことを愛しています」「あなたとじゃなければこの愛は生まれませんでした」ということですよね。しかし、その愛情が果たしてあなたじゃなければいけなかったのか、その事実をドラスティックに解剖していけば、そんなことはないはずなんです。それはたまたま目の前にあなたがいただけだった。そういう身も蓋もない事実にたどり着くしかない。かと言って、じゃあその愛情は欺瞞なのかと言われると、別にそういうわけではない。それを受け入れて、認めて、そのあやふやさとか空虚さみたいなものに責任を負うってことが重要なんじゃないかと思うんです。責任を負う、そのうえで行為として体を動かすっていう。触ったり、ぎゅっとしたり、そういう行為にこそ重要なものがある。愛情というものが最初にあるんじゃなくて、行為を通して生まれてくるものが愛情なんじゃないか。そういう感覚ですね。

米津玄師

恋愛はしくじり

──ラブストーリーのドラマ主題歌を書く、ラブロマンスを彩る音楽を作るということに関しては、どういうアプローチを考えましたか?

「恋愛ってなんだろう?」みたいなことはすごく考えました。恋愛ってウジウジしているというか、世のラブソングって、ほとんどみんな思い悩んでるわけじゃないですか。その思い悩みが、恋愛の本質なんだろうと思うんですね。要するに恋愛はしくじりである。その状態に陥らなければ感じることのなかったものを感じてしまう。恋するとか、誰かを愛するという状態にならなければ、そこに安寧があったはずなのに、その状態を知らず知らずのうちに手放してしまう。そうしたらもうあとの祭りというか。どんどん不安定になっていくと思うんです。そういう方向からもやっぱり、人に触ったりとか心臓の音を聴いたりとか、そういう密接な関係、物理的距離の近さがものすごく重要になってくる。ラブソングじゃないとそういう描写はしにくい感じはします。

──今話していただいたように、この曲の歌詞では「君の頬を撫でた」「触って」「もう少し抱いて ぎゅっとして」など、触覚がすごくフィーチャーされていますよね。加えて言えば「仄かに香るシトラス」とか「熱い珈琲」とか、嗅覚や味覚の表現もある。五感のうち、視覚と聴覚を通して得られる情報ではない、肉体性を持った感覚を大事にしたいという思いがあったということでしょうか。

でも、それを狙ってやろうと思って始めたわけじゃなくて。やっていくうちにそういうふうになっていった感じでした。すごく剥き身な感じというか。それは最近の自分のテーマでもあるんですけれど。

──というと?

近年、10代や20代の交際率が下がっているという話があって。そこにはいろんな要因があるんでしょうけど、そのうちの1つに厳密な合意化というものがある気がするんです。要するに、交際にあたってちゃんとお互い合意を取りましょうということになってきている。合意がなければ加害行為になる。その判定を厳密にする必要がある。本当にその通りですし、それによっていろんな被害が取り除かれていくべきだと思う。しかし同時に、さっき言ったように、恋愛の本質的な部分の1つにはしくじりというものがある。それは厳密な合意化の動きと真っ向に対立するとも思うんです。合意を厳密にするというのは重要な視点なんだけれども、同時に人間にはどうしても加害性みたいなものがある。そもそも完璧な合意があるのかというのにも疑わしく思っていて、言葉と内心がチグハグな状態なんていくらでもあり得る。権力や身体能力の勾配があれば尚更で、合意や契約を厳密にしたところで解決しないところがある。大事なのは「コントロールできないあなた」を認めることじゃないかと思います。そこに蓋をしたままずっと生きていくと、生に耐性がなくなっていくんじゃないかとも思うんです。どこか他人が架空の存在のようになっていくというか。その態度が進んでいけば、口臭とか目尻のシワとか体毛とか肌の色素沈着とか、そういうところにすら耐えられなくなっていく。そういう流れがあるんじゃないかと思うんです。それでいいのかどうか。人間は他人にとって都合のいい生き物ではない。その中にはカオスが渦巻いているし、一面的に測れるものではない。それを理解するためには物理的な距離の近さが必要になる。「あなた、実はこんなところにそばかすやほくろがあるんだね」みたいなことに気付くくらいの物理的な距離の近さは実はすごく重要なんじゃないかと最近思います。

──歌詞にも「感じたい君のマチエール」という、そのことを言い表した言葉がありますね。「マチエール」という言葉は耳慣れない言葉だったので調べたんですが、絵の具を塗り重ねたときの膨らみとか絵の質感を意味する言葉である。つまり、これはスマホの画像とかモニタでは見えないもの、感じ取れないものである。この「マチエール」という言葉を恋愛の比喩に使うことによって、関係性と触覚というものが結び付くと思いました。

そうですね。若い頃に美術をかじってた時期があるので、これはその頃の遠い記憶の中にあった単語です。