米津玄師|3年かけて磨き上げた傷だらけの宝石

アルバムを聴くことができなかった人たちへ

──1曲目の「カムパネルラ」には「光を受け止めて 跳ね返り輝くクリスタル 君がつけた傷も 輝きのその一つ」というフレーズがあります。今話していただいたようなことは、この曲を作ったときにも考えていましたか?

「カムパネルラ」がアルバム制作の最後に作ったんで、今の自分の心情に一番近いものになっています。いわゆるCメロの部分に入れた歌詞は今説明したことに近いですね。アルバムを総括するようなニュアンスを持たせたいという思いもありました。

──「カムパネルラ」はこのアルバムの中の重要なピースであるし、象徴になる曲の1つだと思うんですが、これはどのようにして生まれたのでしょうか。

15曲目の「カナリヤ」を作るのが本当に大変で、いろんなことを考えながら作り終わったときに、まだ足りないんじゃないかという精神状態に陥って、「わかった! これが足りないんだ」と思って作ったのが「カムパネルラ」です。

──足りなかったものがわかった、というと?

アルバム制作の終盤になるまで、前のアルバムから約3年経っていることにまったく気付いていなくて。3年って、中学生が高校生になる、高校生が社会人や大学生になるぐらいの長い時間ですよね。この3年間で自分の目の前から通り過ぎた人たちがいったいどれくらいいたんだろうという気分になった。通り過ぎたというか、俺の音楽を好きでいてくれたのに、死んでしまった人がどれくらいいたんだろうって。自分はその人のことを知らないし、そういう存在があったのかどうかは定かじゃないですけど、きっとこのアルバムを聴く前にいなくなってしまった人がいると思ったんです。それは例えば「HUNTER×HUNTER」の最後を読む前に死んじゃったとか、「ONE PIECE」の結末を知る前に死んじゃったとか、それと近いものがある。そうなったときに、なんかものすごく自罰的な気分になって「自分は今まで何をやってきたんだろう」と思ったんですよね。だから「カムパネルラ」という曲を作ることによって、この3年間で死んでしまった人……例えば見ず知らずの子供たちや自分は知らないけれど向こうは自分のことを知っているような人たちが、確実に存在していたことになる。墓標と言うと、もしかしたら言葉は悪いかもしれないですけど、そういうものを戒めとして残しておくのが自分の責任なのかなとどこかで感じながら作りました。

──「カムパネルラ」はおそらく「銀河鉄道の夜」の登場人物の名前から取った曲名ですよね。だからこそ、ジョバンニとカムパネルラのような、残された側と遠くに行ってしまった側の関係を描いた曲になっている。

はい。カムパネルラに対して歌っている曲ではあるんですけれど、歌っている人はジョバンニではなく、どちらかというとザネリというイメージです。ザネリはいじわるな子で、カムパネルラが死ぬ直接的な原因になってしまった人。自分はザネリにすごく感情移入する部分があるんです。人間は犯した過ちによって、直接的、間接的に限らず、誰かの死の原因になり得る。自分のいろんな選択が、誰かの死につながっていると思うんです。タイムリーな話で言うと、例えば自分が病原体の保有者で、それを知らないうちに人に感染させてしまって、それによってその人が重い病気になって死んでしまうこともあり得る。いろんな選択が誰かの死の可能性につながっている。ザネリはそれを目の当たりにした人間だと思うんです。カムパネルラの死に直接的に関わってしまって、それを引きずりながら生きていく。それが自分の性質としての自罰的な部分とリンクしたというか。

ポップミュージシャンである自分への戒め

──そういう「カムパネルラ」の話は、別の曲のモチーフにもつながるように思いました。たとえば「優しい人」は、人を悪意によって傷つけてしまう、もしくはいじめられている人を傍観してしまうような側の目線で歌われた曲だと思います。この曲はメタファーというよりはシンプルで直接的な言葉で書かれていますね。

米津玄師(Photo by Taro Mizutani)

米津玄師(Photo by Taro Mizutani)

この曲は「脊椎がオパールになる頃」のツアーのどこかで披露するつもりだったんです。当時は「あなたの脊椎がオパールになる頃 私はどこにいるでしょう」という歌い出しで。そこから根本的には変わっていないんですよ。サビの歌詞とかはまったく一緒ですし。けれど、時が経って、自分の状況とか立場も変わっていくわけであって。やっぱりまったく同じような感じで作ると誠実ではないなという気がしたんです。前の段階では隙間のある言葉遣いというか、解釈に幅を持たせるような作り方をしていたんですけど、それが今の自分に当てはまらなくて。もしかすると、それをそのまま出すことによって、何かから目を背けるというか、ポップミュージシャンとして負うべき責任から逃避する結果になってしまうんじゃないかと思ったんです。それよりは直接的で鮮烈な形で表現したかった。

──この曲はすごく深く心をえぐる曲だと思います。きれいごとじゃない部分、自分でも見たくない部分、普段は蓋をしている部分を切り取って言葉にしている。でも、そのことによって、とても美しい曲になっていると思います。

ただ、「果たしてこの曲を世に出していいんだろうか」とも思ったんです。この曲中にはわかりやすく虐げられる人が出てくるわけですけれど、現在進行形でそういう目に遭っている人たちもたくさんいると思うんですね。この曲を世に出すということは、そういう人たちが抱く苦しみを助長する結果になるかもしれない。そのことによって人を傷つける蓋を開いてしまう形になるかもしれない。でも結局のところ世に出す選択を取った。そもそも何かをすることは人を傷付けることだとか、そういう戒めを自分の中に持っておくのが責任なのかとか、いろいろなことを考えました。

「カナリヤ」で歌った変化していくことへの肯定

──アルバムのラストの「カナリヤ」はとても苦労したとおっしゃいましたが、この曲はどれくらいの段階でできたんでしょうか。

この曲を作っているときは、新型コロナウイルスによって世界的に混乱が蔓延している中で、いろんなミュージシャンがそれぞれいろんなことを発信していて、それを見ながら自分は何をするべきかを考えていたんです。それで自分のやるべきことは新しい音楽を作ることだと思った。自分は音楽を作ることが生業で、それが生活の一部になっている。今の苦しみに喘いでいる人たちに対してできることは、その人たちに「この世に生きていても大丈夫だよ」というメッセージを込めた音楽を作ることだと。ものすごく些細な形かもしれない、もしかしてなんの意味もなさない戯言にしかならないのかもしれないけれど、それでも音楽を作るべきだと思った。それで作り始めたのが「カナリヤ」です。でも、どういう形にするかはすごく悩みました。「カナリヤ」を作る前に新型コロナウイルスに対する曲をもう1曲作っていたんですよ。

──その曲はアルバムには入りましたか?

入っていないです。めちゃくちゃ暗い曲で、こういう方向性じゃない、これを世に出すことはできないと思った。だからそれをボツにして、この世で生きていく人たちを肯定する曲を作ろうと。かといってただ肯定するわけではなくて。自分の中にはいろんな怒りや失望が渦巻いているわけで、それも踏まえて肯定しなければならない。「カナリヤ」はそう考えながら作っていったので、すごくエネルギーが要りました。ああいうコード使いで、ああいうメロディラインで作り上げるのに、いろんなことを考えましたね。

──この曲はおっしゃったように新型コロナウイルスで世の中ががらりと変わったことを踏まえて作られた曲だと思うんですが、それでありつつ、10年後や20年後に聴いても響くような普遍性を持った曲になっていると思います。そういうことは意識しましたか?

この曲については、変わっていくことを肯定したいという思いがすごく大きかったです。自分は音楽を作るにあたって、“変わっていかなければならない”ということを半ば強迫観念みたいに思っている節があるんですけど、それがやっぱり自分の本質的なところなんじゃないかなって。新型コロナウイルスによって以前とは大きく変わった日常が目の前に横たわっていて、最終的にはそれを肯定しなきゃいけない。7年も経てば人間の細胞が全部入れ替わって生物学的には別人になってしまうなんてことも俗に言われますけれど、そういう意味で人間もいついかなるときも同じであり続けることなんて不可能だと思っていて。だから例えば誰かを愛するときに、「あなたはこういう人間だから、私は一緒にいたい」だと、それはいっときの状態でしかないから、いつかは変わってしまう。そこに固執していると、その人をその枠の中に閉じ込めて、結局は健全な関係として続いていかない。だから少なくとも個人的には、変わっていくことを肯定したいと思ったんですよね。

──今おっしゃったようなことが「あなたも わたしも 変わってしまうでしょう 時には諍い 傷つけ合うでしょう 見失うそのたびに恋をして 確かめ合いたい」という歌詞に表れている。

そうですね。「私はあなたのことが好きだけれど、それは別にあなたじゃなくても構わない。けれど、だからこそ少なくとも今はあなたのことを愛していたい」、そんなふうに考えることができると思っていて。そういうことを絶えず問い続けたいんです。自分は今どこにいるのか、世の中はどう変わっていくのか、それを確認し合ってそこに意味を見出す……そうやって変化していくことの肯定を歌おうと思った。この曲のサビも最初は「あなただからいいよ」じゃなくて「あなたじゃなくてもいいよ」だったんです。それだとあまりに直接的すぎるし、表現として整合性をとるのがすごく難しいから「あなただからいいよ」になりました。でもそれは「(あなたじゃなくてもいいけれど)」という言葉が空白として残っている「あなただからいいよ」のつもりなんですよね。