TM NETWORK「TM NETWORK THE VIDEOS 1984-1994」宇都宮隆インタビュー|「濃密すぎる10年」を駆け抜けた男たち

TM NETWORKのデビュー35周年記念Blu-rayボックス「TM NETWORK THE VIDEOS 1984-1994」が5月22日にリリースされた。

映画「劇場版シティーハンター <新宿プライベート・アイズ>」の主題歌に「Get Wild」が使用されたほか、4月と5月には1994年開催の活動終了ライブ「TMN final live LAST GROOVE」の上映会が行われるなど、TM NETWORKは当時のファンのみならず若いリスナーからも再び注目を集めている。音楽ナタリーではこれまでにリリースされたライブ映像作品をまとめてパッケージした「TM NETWORK THE VIDEOS 1984-1994」の発売を記念し、宇都宮隆(Vo)にインタビューを実施。「濃密すぎた」という当時のエピソードをたっぷりと語ってもらった。

取材 / 臼杵成晃 文 / 高橋拓也

常に勉強、濃厚すぎる10年間

──Blu-rayボックス「TM NETWORK THE VIDEOS 1984-1994」のリリースや1994年の活動終了ライブ「TMN final live LAST GROOVE」の上映会開催など、TM NETWORKに関する話題が再燃している状況です。結成当時から振り返ってみたいのですが、最初はTM NETWORKというグループについて、どのように考えていましたか?

僕はTM結成までバンドしかやったことがなかったので、打ち込みを主体とした編成やサウンドには最初戸惑いました。生ドラムじゃないし、ベースもシンセを使ってたし。それを自分の中でどう消化するのか、ずっと勉強していたような感覚でした。

DISC 10「DRAGON THE FESTIVAL TOUR featuring TM NETWORK 1985.10.31」のワンシーン。

──常に模索しながら活動していた?

そうでしたね。「Self Control(方舟に曳かれて)」や「Get Wild」(共に1987年発表のシングル)を発表したあとでもまだ試行錯誤していました。TMN名義になったあたりから少し余裕が出てきて、僕のソロ活動が始まったあたりから1つの型みたいなものが定まったかな。

──宇都宮さんはバンド仲間で子供の頃からの親友でもある木根尚登さんから誘われる形でTMに加入したそうですが、木根さんと小室哲哉さんは当初どういう構想を持っていたのでしょうか。

誰がどの楽器を担当するか、あんまり重要視していないと言っていたのは覚えています。木根は小室に「とりあえずギターでいいんじゃない?」と言われてギターを担当したみたいだったし。アコースティックギターしか弾いたことがなかったのに(笑)。TMの全体像はほぼ小室が中心になって固めていました。「どうやったらこの3人で業界に入っていけるか」「オーディエンスに受け入れてもらえるか」は常に考えてたみたいです。

──当初TMはライブはせず、楽曲とミュージックビデオの発表をメインとしていました。ライブを行うようになったきっかけは?

レコード会社の人から持ちかけられたんですよ。それで徐々に始めていくんですけど、やっていくうちに3人ともバンド編成で演奏することが好きだったってことがわかったんです。山田わたる(FENCE OF DEFENSE)や松本孝弘(B'z)、西村麻聡とは合宿するような形で一緒に練習したから、すごく仲よくなって。彼らとの練習を通して、自然とバンド編成ならではのライブができるようになりましたね。

──TM活動当時、3人の距離感はどんな感じだったんでしょう?

結成してすぐはいつも一緒にいたんですけど、「GORILLA」(1986年発表の3rdアルバム)を制作した頃だったかな? その時期から分担制になって、レコーディングもそれぞれ1人で行うようになったんです。とにかく忙しかったので、会う機会があっても「眠いね……」ばかり言ってましたね。

──改めてデータで振り返ると、毎年コンスタントに作品を発表していて、1987年には「Self Control」「humansystem」とオリジナルアルバムを2枚も発表しています。楽曲制作以外にもミュージックビデオの撮影、ライブ、雑誌やテレビ番組の取材など相当忙しかったんじゃないかなと思います。そんな中で特に忘れられない出来事を挙げるとしたら?

DISC 3「KISS JAPAN DANCING DYNA-MIX MARCH 15th,1988」のワンシーン。

レコーディング絡みだと、「Come on Let's Dance」(1986年発表の6thシングル)を初めて聴かせてもらったときの衝撃はすごかったな……。あの曲は小室がニューヨークで制作したんですけど、とんでもない音圧だし、とにかくサウンドのクオリティが高くて。当時は海外でレコーディングするミュージシャンが多かったんですけど、僕は「わざわざめんどくさいな……」と思ってたんです(笑)。でも音を聴いてみたら、やっぱり日本の機材や環境ではこんなサウンドは作れないと実感したし、その後のロサンゼルスやロンドンでのレコーディングには付いて行くようになりました。

──「Come on Let's Dance」はその後のTMサウンド、さらにはのちの小室サウンドへとつながる源流のようにも感じます。それ以前の作品、1985年発表の2ndアルバム「CHILDHOOD'S END」では試行錯誤しながらTMサウンドを探っている印象があって。

初期はとにかくリスナーに受け入れてもらえるサウンドを探していましたからね。僕ら3人は1つのポリシーに固執して音楽を聴いてきたわけではないんです。だからこそ、柔軟に音楽性を変えることができたんだと思います。これがもしバンドだったら、各々のやりたい音楽性が合わなくなって、すぐに解散していたかもしれない。「こう来る!?」という驚きを10年間求め続けたので、相当濃かったですよ。濃厚すぎて、最後のほうはもう疲れちゃってました(笑)。

感傷に浸る暇もなかった「TMN final live LAST GROOVE」

──打ち込みと同期したライブも、当時は前例がなかったので画期的でした。当時は今のように同期のシステムが確立していなかったでしょうし、歌うのもかなり大変だったのではないでしょうか。

合わせるのも苦労したし、どの楽曲もライブではかなりアレンジしちゃうんで、それを覚えるのも大変でね。間奏が平気で64小節あったりするんで、もう数えられない(笑)。だからわたるちゃんには「ボーカル入るところで教えて!」とよくお願いしてました。

──あの頃はまだイヤホンモニターもなかったですよね。

DISC 8「TMN final live LAST GROOVE 5.19」のワンシーン。

そうそう。入りのカウントがわからないからすごく難しかった。「TMN final live LAST GROOVE」のときもイヤモニは付けなかったし、覚えないといけない曲数も多かったから、もう感傷に浸る暇もなかったです。

──「TMN final live LAST GROOVE」では宇都宮さんが小室さんと木根さんを「メンバーであり、友人でもある」と紹介していたり、楽屋で3人が和気あいあいと話している姿が印象的でした。SF的に作りこまれた世界観を表現している一方、裏では純粋に音楽好きな3人がワイワイやっていたんだなって。

小室や木根との関係性を言葉にするのは難しいんです。「友人」とは言うけど、彼らと一緒にがんばってきた、その経験が僕の中ではとても大きなものでして。バラバラに活動していても、誰か1人が「面白いこと考えてるんだよね」と言ったらすぐに集まれるような関係。そこがほかのグループとはちょっと違う気がします。

──「TMN final live LAST GROOVE」のライブ映像にはドキュメンタリーも収められているのですが、宇都宮さんが「当日の臨場感を保つためにリハでは歌ってない」とお話していたのも印象に残りました。

リハで歌わなかった理由はそれだけじゃなかったんです。あの日はソロのライブツアーを終えたばかりだったんですよ。1カ月近く歌いっぱなしだったから、とにかく喉を休ませたかったんです。このときは鼻歌でライブの内容を覚えることに専念してました。

──アンコールでは3人だけのアコースティック編成で曲を演奏していました。共に駆け抜けてきた3人がリラックスした表情でステージに立っている姿がグッと来るんですよ。

小室はよく「僕ら3人だけじゃ何もできないね」と言ってたんですけど、「新鮮に見えるから、1曲だけは僕らだけで演奏してもいいよね」という話になって。だからアンコールはあの編成になったんじゃないかな。