TAKURO|“ギタリストTAKURO”の可能性を追求する、終わりなき旅路

手練れのミュージシャンは
レコードバーのマスターのよう

──ソロ作品はどういうふうに作曲しているんですか?

今回は出会ったミュージシャンたちのその場の思い付きやセンスに助けられた部分が大きかったです。例えば“ラ”の音しか鳴っていないところでも、後ろのコードが変わっていくことで印象も違ってくる。俺は“ラ”の部分しか作曲してないのにね。誰か1人いつもの面子と違うやつが飲み会に参加しただけで俄然盛り上がったり、逆に話がシリアスな方向に行ったり、そういった部分が作曲に反映されたことが多かったかな。

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──ほかのミュージシャンとの化学反応が大きかったと。

たぶん、曲からメロディだけを取り出したらそのままGLAYで使えると思う。手癖みたいなメロディばっかりなんだけど、なぜそれを採用するのかと言うと、俺が一番感情を入れやすいから。自分の作品で、借りてきたような慣れないメロディを弾くのは軸がなさすぎるし。自分が一番気持ちを込められるメロディに対して、永井(利光)さんをはじめ手練れのミュージシャンたちが「TAKUROくんの今日の気分はこうなんでしょ?」ってアレンジしてくれるんですけど、まるで素晴らしいレコードバーのマスターのようですよ。「TAKURO、昼間に嫌なことがあったのか。じゃあ今のお前の気分ってこうなんじゃない?」ってベストなレコードをかけてくれるようなミュージシャンたちに出会えたことは、行きつけのバーがたくさん増えたような感覚です。ロスだったり、東京だったり、札幌だったり。そういう意味では、音楽人生により広がりが出たなと。

──GLAYとはまた違う曲の作り方ですよね。

GLAYに関しては、もともと誰も曲を書かなかったから僕が書いていただけというか。16歳の頃、最初にTERUが書いた曲がひどかったから「お前はやめとけ。俺のほうが得意かも」って曲を書き始めて。もちろん今はメンバーみんなが曲を書くようになって、TERUは素晴らしい作家さんになりましたけどね。そもそも僕は曲を発表したいというよりは、ただGLAYというバンドがやりたかった。GLAYが楽しくて、バンドを解散させたくないから「東京行かない?」と言って、「なんとかなるでしょ」みたいな感じでやっていたし。誰が曲を作ろうがどうでもよかったけど、なんか売れるっぽい曲を作っていたのが俺だった。でも、もう1990年代のあの狂乱の時代は終わって、そこから今に至るまで誰が曲を書いても全然気にしない。誰か書きたい人が書けばいいと思う。「Journey without a map」はギターがうまくなりたいから作ったものであり、GLAYはメンバーとワイワイしたいから会社やったり曲を作ったりしているようなものなんです(笑)。

──GLAYの曲作りの根底にあるのは、メンバーと一緒に音楽をやるのが楽しいという気持ちだと。

そうです。バンドをやっていくには、やっぱり新曲がないわけにはいかないから。何年もずっと同じメニューでやるわけにはいかないし、新曲が必要になったら「なんかあったかな?」って作曲ボックスみたいなところから取り出して、「こんなのいいんじゃない?」と持っていく。それに俺は今でも誰に何を言われなくても、毎日寝る前に15分ぐらいは曲のことを考えて録音したり書き留めたりしてるしね。「今日の俺の気持ちはこんな感じか」みたいな。その曲が世の中に寄り添えそうだったり、どうしても言いたいことがあったら、シングルとして発表しようかという話になるかな。

──常に準備をしているんですね。

ただただみんなでワイワイやりたいだけなんです。高校の夏休みみたいな感じ(笑)。

もう1回あの曲にスポットライトを当てたい

──アルバムから思い浮かぶ景色はリード曲「やすらぎのチセ」をはじめ、北国の風景が多いような印象を受けました。

「do svidaniya」にいたっては、ロシアまで行っちゃうからね(笑)。全体的には自分がプロとして25年間やってきたこと、何者であったかということを1回ちゃんと整理整頓してきれいに終わらせることを意識していたかな。もちろん新しいことにも挑戦しつつ、自分にとって最初のヒット曲が「グロリアス」や「Yes,Summerdays」であったなら、あのメロディや言葉はどの時点でTAKUROらしくなったのか、どの時点で1つの頂点を見たのかということを振り返ったり。「人は最後に自分のふるさとに戻るのか戻らないのか?」という永遠のテーマみたいなものを考えながら、最終的にはロスに行っちゃったんですけど(笑)。

──(笑)。そして今作ではGLAYとして2007年にリリースしたシングル曲「鼓動」をセルフカバーされています。今、なぜこの曲を?

この曲は2007年に北海道・夕張市が財政破綻してしまったときに、夕張市を励ましたくて書いたもので。当時僕たちはなんとか少しでも再建の力になれないかと思って、夕張市と組んでいろんな活動をしていたんですけど、その活動の中で心を動かされて生まれたのが「鼓動」という曲だった。でも、あの曲は夕張市を励ますために書いたものなのに、当時の人々の不安みたいなものに影響されたのか、もしくは俺自身が不安だったのか、いつまで経ってもGLAYの中で暗い影を落としているというか。メロディとしてはなんの問題もないんですけど、ただ単に楽曲の背景が重くて、なかなかライブでも取り上げられないし、光を当てる機会を持てずにいて。とは言え、どんどん変わりゆく時代の中でいつまでもあの頃のことを引きずっていられないし、もう1回あの曲にスポットライトを当てたい、チャンスを与えたい……そういったあの頃は持たせられなかった可能性というところから、もう1回「鼓動」という楽曲を再構築したいなと。

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──実際に再構築してみて、いかがでしたか?

単純に弾いていて楽しい曲になりましたね。歪んでるしロック的だし、参加してくれたトラヴィス(・カールトン)とジェフ(・バブコ)さんもめちゃめちゃいいプレイをしてくれて。新曲だって言いたいくらい(笑)。

──歌があるかないかに関わらず、曲の印象が大きく変わりました。

まず、演者の思いが違いますしね。財政破綻から時間が経って、今は夕張市の鈴木(直道)市長が北海道知事選に出馬したり、夕張市のみならず北海道自体が明るいほうへ向かっていくようなニュースが多くなってきていて。夕張市に関して希望を持って一緒に歩んでいきたいなと考えたら、単純に「いい曲じゃん」と思えた。

──リラックスして作れたんですね。

そう。当時この気持ちで作れていたら、もっと人の役に立てたのかもしれないですけど。あの頃の俺たちにはまだその器がなかったんです。