SAYASHI RIHO「DAYBREAK」PART1 |新たな朝日が差す場所へ

2011年、わずか12歳でモーニング娘。9期メンバーとして加入し、その圧倒的なパフォーマンス力でグループを牽引した鞘師里保。2015年12月に惜しまれながらグループを卒業した彼女は、その後活動休止期間を経て、2020年に芸能活動を再開した。そして令和3年8月4日“さやしの日”に、5曲入り1stミニアルバム「DAYBREAK」を自主レーベル・Savo-rから発表。モーニング娘。'15卒業から約5年半ぶりに音楽活動を再スタートした。

音楽ナタリーでは「DAYBREAK」のリリースを記念して、2本立ての特集を展開。第1回では鞘師に1万2000字におよぶロングインタビューを行い、グループ卒業後から現在までの歩みを改めて振り返りながら、今の自身をすべてさらけ出したという今作についてじっくりと語ってもらった。

取材・文 / 岸野恵加構成 / 瀬下裕理撮影 / 笹原清明

ステージから離れて見つけた自分らしさ

──まずは「おかえりなさい」と、心から言わせていただきたいです。

ありがとうございます。そう言っていただけることが、本当にありがたいです。

──2015年に17歳でモーニング娘。を卒業してからこうして音楽活動を本格的に再開するまでの5年半、たくさんの経験をされてきたと思います。改めて、どのような思いでグループ卒業を選んだのかというところからお話を聞かせてください。

卒業を決めたのは、「ゼロに近い状態に自分を持っていきたい」という衝動のような思いが大きかったんです。一度、20歳になる前にそういう環境に自分を置かないと、人生全体のビジョンがまったく見えなくなってしまうという危機感がありました。

鞘師里保

──12歳でデビューしてから駆け抜けてきた日々を1回リセットしたかったと。卒業を発表してから卒業まではわずか2カ月というかなり急な展開で、当時ファンの間には衝撃が広がりましたが、卒業自体はだいぶ前から考えていたことだったんですか?(参照:モーニング娘。’15鞘師里保、年内で卒業

自分の中で考えたり、前もって事務所の方々にも相談していました。あの頃のモーニング娘。はちょうど道重(さゆみ)さんが卒業されたあとの新体制で、自分たち9期が引っ張っていかなきゃいけない立場で。そんな状況で自分が卒業を選ぶということをマイナスに捉える人たちもいるかもしれないとは思いましたが、それでも、自分は新しい環境に身を置かなきゃいけないと強く感じていました。とはいえ当時私は自分の選択に責任を感じていたので、ゆっくりと卒業を祝ってもらって楽しく過ごす気持ちにはなれなかった。これまでの感謝の気持ちをちゃんと伝えられて、ファンの方も私も、ある程度悔いなく区切りを付けられるということでは、2カ月という期間は適切だったかなと自分の中では思っています。いろいろな方にたくさん迷惑をかけたと思うんですけど、あれは自分なりのけじめでした。

──けじめという響きがとても鞘師さんらしいなと感じます。グループ卒業のタイミングでは「卒業はするけれど、パフォーマンスは続けていく」とさまざまなインタビューなどで答えていましたが、卒業した先のことは、実際どのくらい具体的に考えていたんでしょう?

留学先や時期の目処はつけていましたね。日本を発ったのは、卒業してから3カ月後です。

──これまたハイスピードですね。

そうなんですかね……(笑)。それまで3日以上休んだことはほとんどないような生活を送っていたので、「3カ月も空いて大丈夫かな」って、とにかく焦っていたように思います。

──早く留学に行きたい気持ちが強かった?

いえ、なんだか変なプレッシャーを感じてたんだと思います。留学すると言ったからには早く行かなきゃいけないんじゃないか、何もしていないと責められるんじゃないかという気持ちがそのときは強くて。“モーニング娘。にいた鞘師里保”を、自分で自分に押し付けていたんだと思います。

鞘師里保

──「モーニング娘。の鞘師里保ならこうするだろう」という行動の指針を持ち続けていた。

はい。常に見られているという意識がすごくありました。だから気持ち的にちょっとつらかったこともあったんですが、途中で「……そんなこと気にしてたら辞めた意味ないじゃん!」と気付いて。そこからは個人の鞘師里保としてすべきこと、したいことを第一に考えて過ごせるようになりました。卒業するまでは家族との時間もほとんど持てていなくて、モーニング娘。の活動のためだけに生きていた感じだったので、気持ちを切り替えられてよかったですね。

──留学は2年間されていたんですよね。

語学留学を経てダンス留学をしました。最初は英語をまったく話せないまま飛び込んだ感じだったんですけど、ダンス留学する頃には英語で基本的なコミュニケーションを問題なくできるようになっていましたね。ニューヨークの公園で、知らないおじさんと1時間近く雑談したり(笑)。現地の方がよく話しかけてくれるので、たくさん話しましたね。

──ニューヨークでは、主にダンススクールに通う生活を送っていたんですよね?

そうですね。基本的にはストリートジャズのクラスを取っていて、スクールには毎日通っていました。レッスンはインストラクターごとに全然スタイルが違うので、4つくらいのスクールをはしごしながら、自分でスケジュールを組み立てて受講していました。

──さまざまなスタイルのダンスを吸収していたんですね。レギュラーラジオ番組「鞘師里保と○○と」の朝井リョウさん出演回で、鞘師さんは「きっちりそろっている日本のダンスが好きだったけど、留学してそうではないダンスの魅力に気付いた」とお話しされていました。これはどんな気付きだったんでしょうか?

正直、日本にいたときは、海外でパフォーマンスされているダンサーさんに対して「もうちょっとそろえて踊ったらもっとカッコよくなるのになあ」と感じたこともあったんです。でも向こうに行って、1人ひとりがオリジナリティやパッションを出して踊っている姿を見たときに、放たれるパワーの種類がまったく違うなと感動して。そういう部分を含め、留学先で実際に目にして初めてわかったことがとても多かったんです。それで改めて、自分のダンスを一番生かせるスタイルはなんだろうと考えたときに、単純に「じゃあ私もパッション全開で踊ろう」とはならず。アジア出身の先生の繊細なダンスも素晴らしいと思ったし、そういう精密さを極めていく方向性も自分に合ってるんじゃないかと考えたり、留学までに自分が培ってきたものを見つめ直したりして、総合的に考えるようになりました。

鞘師里保

──視野が広がったことで、自分らしさが浮き彫りになってきたんですね。ちなみに留学の期間は最初から決めていたんですか? そのままアメリカに残るという選択肢も……。

それも考えていました。卒業から何年も経って、日本の皆さんは私のことをもう忘れてるだろうなと思っていたし、日本に戻るにしても明確なビジョンがないと意味がないだろうな、と。ただやりたいという気持ちだけでできる仕事じゃないと思っていたので、現実的に考えて、芸能界じゃないところで就職しようかなと考えたこともありました。

──ではそこから、日本に帰国して芸能活動を再開するに至ったのは、何がきっかけだったんでしょうか?

いろんな可能性を考えつつも、やっぱり私は歌ったり踊ったりしているときが一番生きていると感じるんだなと思っていて。そこから離れるのは自分にとってよくないことなのかなと悶々とし続けていたんです。そんな中、留学がひと段落して実家で過ごしていたときに、「ハロプロの20周年記念ライブに出ませんか」と声をかけていただいて。

──2019年3月に開催された「Hello! Project 20th Anniversary!! Hello! Project ひなフェス 2019」ですね(参照:ハロプロ「ひなフェス」ゲストに辻希美、加護亜依、新垣里沙、道重さゆみ、鞘師里保)。

出演するかすごく悩みました。「ええー、どうしよう!」って。もしその数カ月前にお話をいただいていたら、迷わず「無理です、ごめんなさい」と即答してしまっていたかもしれないんですが、そのときはちょうどステージに立つことに対して揺れ動いていた時期だったので。「現役の子たちががんばっている場に私がでしゃばるのもどうなのかな。お断りしようかな」とも思ったんですが、同期の譜久村聖ちゃん(モーニング娘。'21リーダー)が「一緒に出たいよ!」と背中を押してくれて、出ることになりました。今思うと本当に「ふくちゃんありがとう」という感じです。

鞘師里保

──そうしてステージに上がった「ひなフェス」は大反響を呼びましたよね。鞘師さんが現れた瞬間に地鳴りのような歓声が沸き起こったとハロプロファンの間では語られていますが、ご本人からはどんな景色が見えていたんでしょうか?

ものすごく盛り上がってくださっているのは感じていて、声援は届いていました。でもイヤモニをしていたので、皆さんの生の歓声をそのまま聞けていたわけではなくて。おかげでいい意味で落ち着いてパフォーマンスができました。

──(笑)。

私はすごく緊張しいなので、皆さんの声がそのまま聞こえていたらアタフタしていたと思います(笑)。ステージ自体は純粋に楽しかったですね。懐かしい顔も、初めましての方の顔も見られて。それに、私がメンバーだった頃とはファンの方の空気がちょっと変わっていたので、「数年の間に現役のみんながこの方々の心を奪ってきたんだな。がんばってきたんだな」と感じられたのも、うれしかったですね。

──「ひなフェス」を経験したことで、歌って踊る人生を歩みたいという気持ちが固まったんでしょうか?

そうですね。「ひなフェス」がきっかけで活動に前向きになれた部分もありました。それまで芸能界と距離をきっちり置いていたからこそ、復帰には勇気が必要で。自分の心の中に「やりたい」という気持ちがあってもなかなか行動に移せずにいたんですが、「ひなフェス」のあと、声をかけていただく機会が増えて。周りの人に後押ししてもらう形で復帰する流れにつながりましたね。

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私が舞台に立つ意味


2021年8月20日更新