思い出野郎Aチームが9月5日に新作CD「楽しく暮らそう」をリリースした。
昨年8月に発表したアルバム「夜のすべて」では、ソウルやディスコといったブラックミュージックを軸にしたダンサブルなサウンドと高橋一(Trumpet, Vo)の手による飾らないタッチのリリックで、週末の夜から朝までの物語を1枚の作品を通して見事に描き出してみせた彼ら。約1年ぶりのCD作品となる「楽しく暮らそう」には、ポジティブなメッセージを高らかに歌い上げる表題曲「楽しく暮らそう」、世の中にあふれるヘイトや、ダンスが規制される社会に疑問を投げかける「無許可のパーティー」など全5曲が収められた。
音楽ナタリー初登場となる今回のインタビューでは高橋、宮本直明(Key)、松下源(Percussion)の3人にバンドの成り立ちからこれまでの道のり、そして新作に込めた思いなどをざっくばらんに語ってもらった。
取材・文 / 高木"JET"晋一郎 撮影 / 沼田学
週に2回、朝まで練習して、仮眠して会社に行く日々
──音楽ナタリーのインタビューには初登場ということで、今回はグループ結成からキャリアの沿革のお話を経て、新作CD「楽しく暮らそう」について伺えればと思います。まず、グループ結成の経緯は?
高橋一(Trumpet, Vo) 多摩美術大学のジャズ研のメンバーが元になってて。基本的には1学年違いぐらいの幅で集まってるんですけど、ここでややこしいのが宮本で、俺らより先に入学して歳も上なんだけど、留年してて、後輩としてジャズ研に入ってきたんですよ。
宮本直明(Key) 留年と休学してから、しれっと新入生のフリしてジャズ研に入ったんで(笑)。
高橋 だから、なぜかOBと仲がよくて、「なんなんだ、こいつは」って(笑)。
松下源(Percussion) 何年大学にいたの?
宮本 7年。
松下 まだ大学生のときに「親のスネをすごくかじってるね」って話をしてたら……。
宮本 「スネどころかヘソまでかじったる!」って(笑)。
高橋 妹にまでタカってたからね。
──鬼畜すぎますね(笑)。
高橋 まあそんな感じで、みんな同じサークル仲間で。それでフュージョンとかファンクみたいなテクニカルなバンドをやってたけど、大学4年のときに、トロンボーンの山入端(祥太)と、もうちょっとライトな、ふざけながらできるようなバンドをやりたいねって、メンバーを集めて結成したのが思い出野郎Aチームだったんです。松下はライブをやると遊びには来てくれてたんだけどメンバーではなくて。当時の松下はヤバい奴で、アフロで、ガンジーシャツを着て、ガマグチの財布を首から下げてっていうスタイルで自ら佐藤蛾次郎に寄せていってた(笑)。最初に顔を合わせたときも、バーミヤンでチャーハンとライスを頼んで混ぜて食べてたから。
松下 味が濃いから白米と混ぜるとちょうどいいんだよ(笑)。
高橋 量も倍になるっつって(笑)。それで思い出野郎の活動が始まったら、トロンボーンの山入端が練習に来なくなり、学校にも来なくなり、半ば失踪してしまって。
宮本 定期的にいなくなるんだよね。
松下 沖縄の人だから東京の冬が体に合わないのか、冬になると鬱々としちゃうんだよね。
高橋 で、どうしようかなと思ったときに、トロンボーンを演奏できる人を探すんじゃなくて、パーカッションを入れようということになって。そこで、別のバンドでドラムをやってた松下に声をかけたんだよね。「パーカッションも叩けると思う! そんな顔してる!」って(笑)。
松下 音的には上モノが減ったのになぜかリズムを強化するという。
宮本 トロンボーンの音域を補うためにテナーサックスを入れるとかじゃなくて、パーカッションを入れるっていうのは、ある意味レアグルーヴっぽいってメンバーの誰かが言い出して。
高橋 その「レアグルーヴっぽいから」っていうのもよく理屈がわかんないけど(笑)、そんな感じでとりあえず7人で活動を始めて。だから前回のアルバムまでは山入端抜きで活動してたんですよ。
宮本 ただ、山入端は復調したときはフラっとライブに遊びに来てたし、ケンカ別れをしたわけでもないんで、付かず離れずでつながりはあって。だから今回の作品からメンバーに復帰したんですよね。
──2009年にバンドを結成し、12年には「FUJI ROCK FESTIVAL」の「ROOKIE A GO-GO」に出演されています。結成から「ROOKIE A GO-GO」までの3年間はどういった動きをしていたんですか?
高橋 結成当初はみんな大学生だったんだけど、順繰りに卒業して就職するようになると、バンドとしての予定がまったく立てられなくなって。
松下 仕事が忙しくて。それなのに木曜の深夜と日曜、必ずスタジオに入って練習してたんですよ。木曜は、朝まで練習して、ちょっと仮眠して会社に行くっていう。
宮本 仕事終わりで疲れてるし、ライブの予定もないのに、スタジオに入るのはめちゃくちゃつらかったよね。
高橋 ギターの斎藤(録音)は2回ぐらい営業車で事故ってるよね、疲れすぎて。ライブの予定もないし、音源を出す計画もないから、何をモチベーションにスタジオに入ってるのかわからなくなって。
松下 今考えると、その行動はヤバいって言うか、かなり暗いよね(笑)。
「ROOKIE A GO-GO」に出たものの……
高橋 1stアルバム「WEEKEND SOUL BAND」に入ってる「グダグダパーティー」とか、スタジオに入ることで曲ができたりはしてたんです。でも、そういう行動を続けてても光が見えないし、いい加減どうしようかって話になったときに、ダメ元で出してた「ROOKIE A GO-GO」のオーディションに受かって。
松下 そのときは俺が連絡係だったんだけど、メンバーに連絡しても誰も信じなかったもんね。
高橋 俺、ちょっと怒ったもん。「つまんない嘘付くんじゃねーよ!」って(笑)。
──「ROOKIE A GO-GO」に応募したキッカケは?
高橋 多摩美に同時期に在籍してた快速東京が、10年に「ROOKIE A GO-GO」に受かってCDも出してたんですよね。それもあって、「ROOKIE A GO-GO」に出ればなんとかなるかも知れないと思って。
松下 本当は快速東京が「ROOKIE A GO-GO」に出た翌年には応募しようと思ってたんだけど、ドラムの岡島(良樹)の出産予定日にフジロックの日程が被りそうだと。
高橋 それで、合格してから断るのは申し訳ないからって応募しなくて。
──謎の根拠なき自信と謙虚さが(笑)。
高橋 ただ、11年の段階だったら、岡島家の出産に関係なく落ちてたよね(笑)。
──快速東京とは、つながりはあったんですか?
宮本 別のサークルだったけど、音楽サークル同士、時どきセッションしたりはしてて。
高橋 でも快速東京は多摩美の中でもグラフィックデザイン科っていう花形の学科で。
松下 もうイケてる感じがプンプン出てた。
高橋 Patagoniaみたいなアウトドアブランドを清潔感のある感じで着こなしてて。それで、学食の前の芝生とかでワイワイやってるわけですよ。その光景を、こっちは石膏まみれのツナギを着て、「なんでこんなに差があるんだ?」って見てましたね。しかも「ROOKIE A GO-GO」まで受かって、俺らは何も勝てねえじゃねえか!って(笑)。まあそれは冗談で、たまに飲んだりとかしてたし友達ですけど、今でもクレバーでイケてる感じがうらやましい(笑)。
──思い出野郎がコラボしているEnjoy Music ClubやY.I.Mも多摩美だし、その世代の多摩美出身のアーティストは多いですよね。では12年に「ROOKIE A GO-GO」に登場して状況は変わりましたか?
高橋 ライブの誘いも特に増えなかったし、音源リリースのオファーをもらったりすることもなく。正直、受かったわりには……って感じでしたね。
宮本 「トントン拍子で行くかな?」って期待してたんだけど。
松下 「あれ! 何も変わってない!」って(笑)。
高橋 世の中そんなにうまくは行かないなと気付き、それでまた深夜の練習生活に戻り(笑)。
宮本 でもノルマが掛かるようなライブには出なくて済むようになった。
高橋 その頃、結局自分たちで動かなきゃいけないなと思って、今も続けてる自主イベント「ソウルピクニック」を始めたんですよ。第1回は吉祥寺のMANDALAで開催して。そのイベントでceroの髙城晶平さんや、VIDEOTAPEMUSICに出演オファーをしたりして、いろんなつながりが増えていって。EMCやY.I.Mもそれぐらいの時期から動き出したんじゃない?
宮本 僕らのアートワークをやってくれてるヒラパー・ウィルソンが絵を描き出したのもそれぐらいだよね。
高橋 だから、みんな美大にいるときよりも表現欲求が高まってきた。
宮本 「本当にやりたいことはなんだろう……」って。
高橋 社会人になってそういう青臭さが戻ってきた(笑)。徐々に思い出野郎もライブの本数が増えてきて、そこで今のマネージャーのタッツくん(カクバリズムの仲原達彦氏)がアルバムを作ろうって話を振ってくれて。
松下 痺れを切らしてね(笑)。
高橋 俺らも、いろんな場所でアルバム作る宣言をして。
宮本 出す出す詐欺にならないように(笑)。
松下 そこでmabanuaさんのプロデュースで、7inchアナログの「TIME IS OVER」と、1stアルバム「WEEKEND SOUL BAND」の制作を始めたんです。
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