「47+1 新生 New Year Rock Festival」特集 HIRØ(カイキゲッショク)インタビュー|内田裕也の思いを引き継いで伝えた、今ロックがやれること

2020年12月31日に東京・神田明神ホールで行われた無観客配信ライブ「47+1 新生 New Year Rock Festival」のアーカイブ映像の全世界に向けての配信が、4月9日にZAIKOボーダーレスでスタートした。

「New Year Rock Festival」は、2019年3月にこの世を去った内田裕也が1973年にスタートさせたイベント。今回はHIRØ(カイキゲッショク)プロデュースによる無観客配信ライブイベントとして実施され、清春、長渕剛、細美武士(ELLEGARDEN、the HIATUS、MONOEYES)、SHEENA & THE ROKKETS w/LUCY MIRROR、ALI feat. J-REXXXなど、さまざまな世代のアーティストがパフォーマンスを行った。アーカイブ映像の配信に向けて、音楽ナタリーではHIRØにインタビュー。内田裕也とのエピソードや「47+1 新生 New Year Rock Festival」開催までの道のり、見どころを聞いた。

取材・文 / 秦野邦彦 メインカット撮影 / HAYATO ICHIHARA

紅白だけが祭じゃないぜ

──まずは昨年12月31日に開催された無観客配信ライブ「47+1 新生 New Year Rock Festival」の成功おめでとうございます! 内田裕也さんが亡くなられて(参照:「僕は今、あの世にいます」ロック人生貫いた内田裕也のRock'n Roll葬)「このまま『NYRF』はどうなるんだろう?」と心配する声も多かったと思いますが、HIRØさんがプロデューサーに就任されて。

HIRØ

ありがとうございます! 「NYRF」は48年前に内田裕也さんが発起人として“紅白だけが祭じゃないぜ”のスローガンのもとスタートさせた年越しロックイベントです。1973年に行われた第1回はキャロルとして矢沢永吉さんも出ていましたし、僕が初めて参加した26年前はジョー山中さん、安岡力也さん、桑名正博さん、SHEENA & THE ROKKETSといった方々が裕也さんを支えてましたね。実はかなり前から裕也さんとジョーさんから「HIRØが続けてくんだぞ!」と言われてたんですよね。今回のプロデューサー就任も僕と内田裕也とジョー山中の純粋な男同士の約束です。

──歴史あるイベントだけに大変なことも多かったのではないでしょうか?

特に昨年はコロナパンデミックがあったので、とにかく安全第一を考えて無観客配信での開催を決めたんですけど、キャスティング、クラウドファンディング、会場の仕切り、無観客での生配信、やることなすことすべて初挑戦で、夏頃からずっと気が休まらなかったですね。ホームページ内に予習プレイリスト(参照:47+1 新生 New Year Rock Festival |予習PLAY LIST)を作って当日どんな曲をやるか公開して先に聴いてもらったり、試行錯誤しながらいろいろやりました。

──今回の「NYRF」のテーマは、「KILL COVID~いまROCKがヤレること!?~」。HIRØさんがボーカリストを務めるカイキゲッショクが中心となってこのテーマを打ち出していました。こうした社会に向けたテーマは「NYRF」の大事な部分ですね。

まさにそうなんです。僕が初めて「NYRF」に出た直後、1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生して。裕也さんが旗を振ってジョー山中さん、桑名正博さん、BOROさんたちと大阪でメガホン片手にストリートライブをして義援金を神戸市役所に届けたんですけど、あのとき初めてレコード会社、放送局、プロダクションといった括りではなく、アーティスト個人がアクションを起こせるんだ! ということを教わったなと思っていて。10年前の東日本大震災に続いて、たくさんの人たちが苦しんでいるコロナ禍の中、僕らに何ができるか考えながら「KILL COVID」という曲を作ったんですけど、同じように長渕剛さんとAIちゃんの「しゃくなげ色の空」、BRAHMANとILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB)の「CLUSTER BLASTER」、瓜田夫婦の「NEVER FORGET」といった楽曲が生まれていく瞬間を見て、「2020年にアクションを起こした人たちの曲を『NYRF』でできたらいいな」という思いが僕の中ですごくあったんです。

自分たちで切り開いていく

──裕也さんが生前よく口にされていた「いまROCKがヤレること」、音楽が社会に対して何ができるか?という問いかけも引き継がれて。

偉大な先輩方が残してくれた遺伝子ですね。今回出演してくれた桑名さんの息子・美勇士、ジョーさんの息子・レイ山中、原田芳雄さんの息子・原田喧太、SHEENA & THE ROKKETSの鮎川(誠)さんとシーナさんの娘・LUCY、みんな子供の頃から「NYRF」に来ていて、ライブデビューもここだったりするんです。そういう子たちが育って、ちゃんとつないでいってる手応えはありますね。僕も子供の頃から裕也ファミリーはずっと気になっていて、ジョーさんが世界各地に音楽を届けるボランティア活動をされていたことをきっかけに懇意にさせてもらいました。あの頃チンピラみたいだった自分を拾ってくれたのはジョー山中さんのおかげです。

──2002年に「NYRF」が30周年を迎えて、ビートたけしさん、つんくさん、本木雅弘さん、宇崎竜童さん、原田芳雄さん、さまざまな方がゲストでお祝いに来られる中、HIRØさんは次世代アーティストを紹介する“New Power”という枠をプロデュースされていましたね。

あの年はヒップホップでは妄走族、RINO LATINA II、G.K.MARYAN、パンクではEXTINCT GOVERMENTだったり、当時最前線のアーティストに出てもらいました。世代もジャンルも超えて、同じ匂いのする人たち、「踊らされねえぞ!」と自分たちで切り開いていこうとしている顔ぶれですよね。

──HIRØさんがRISING SUNを結成した90年代は、グランジあり、ミクスチャーあり、オルタナティブなムーブメントの勢いを感じられた時期でした。

いい時代でしたよね。僕は高校がロサンゼルスで、そのあとニューヨークに行ったんですけど、ラッパーのアイス・Tがボーカリストのロックバンド、Body Countとかが出てきて。ロックは白人のもの、ヒップホップは黒人のものじゃないという意味でのミクスチャーをすごく感じて、RISING SUNを始めたんです。初期のメンバーには白人や黒人がいたり、多国籍バンドのハシリみたいな感じですね。RISING SUNという言葉は、僕がアメリカに住んでいた頃に日本をイメージするスラングとしてよく使ってたんです。「SAMURAI」「NINJA」みたいな感じで。ジョー山中さんのいたフラワー・トラベリン・バンドも「SATORI」とか「MADE IN JAPAN」とかね。裕也さんがプロデュースしたフラワー・トラベリン・バンドは1970年代、カナダでヒットチャート1位になって「日本にもロックはあるんだぞ!」と世界に知らしめてくれましたね。

共に迎えた内田裕也最後のステージ

──裕也さんのお話も伺わせてください。裕也さん最後の「NYRF」出演となった、2018年開催の第46回、リハーサルにもなかなか出られないまま車椅子で歌われた「朝日のあたる家(HOUSE OF RISING SUN)」の熱唱は忘れられないです。

あのとき僕は車椅子の10センチ真後ろにいて。呼吸、脈、出す空気を一緒に感じながら最後のステージを迎えたんです。おこがましいですけれども、一緒に最後のステージを共にできたというのは自分の中ですごく大切な時間でした。「ジョニーB.グッド」で裕也さんが椅子から立ち上がる瞬間、よく見ると僕と裕也さんで1、2回躊躇してるんです。「どうする? 行くか?」「行きましょう」と。まさか3月に亡くなるとは思っていなかったんですけれども。ちょっと早かったですよね。

──あそこで立ち上がったときは、さすが裕也さんと思いました。これまで「NYRF」がテレビ放送されるたび、オープニングで世界各地を自転車で走ったり、スカイダイビングに挑戦したり、全身でロックンロールを体現されてこられた方ですよね。

そうなんです。裕也さんのことを勘違いされる人も多いんですけど、あの人はロックアクティビストだと僕は思っていて。映画や選挙もそうですけど、ロックという表現方法でいろいろなところにアクションを起こしていく人なんです。裕也さんはよくステージで「ヒット曲は1曲もありませんが……」と言ってスタートするんですけれども、ヒット曲うんぬんじゃなく内田裕也が言うロックンロールは「がんばれよ!」とか「負けんなよ!」という言葉だと僕は思ってるんです。「NYRF」のテレビ放送で裕也さんがリハの最中、ステージ上で「どうなってるんだこのヤロー!」と怒鳴ってるシーンがよく流れるじゃないですか? 足元のモニターを見て「なんでお前ステージのこんなところにモニター置いてるんだよ! ロックアーティストっていうのは頭のてっぺんからつま先まで見せなきゃ意味がねえんだよ! 全部どけろ!」って。それでわかりましたってモニター全部どけて音を出すと「おい、止めろ! 音が聞こえねえじゃねえか!」。モニターないから聞こえないの当たり前なんです(笑)。本当は大爆笑なんですけど、みんな「すいません!」って。するとテレビ局の人が「いい画が撮れました。ありがとうございます!」という感じの反応をして。一瞬大丈夫かな?とみんな心配しちゃうんですけど、全部裕也さん流のパフォーマンスなんです。裕也さんとは海外にも何度も行きましたし、偶然プライベートで一緒になることもありました。僕がハワイでサーフィンしてるとき、沖で大きい波を待っていたら、向こう側から来た船の先に裕也さんが座ってて「おおー、裕也さーん!」「おお、なんでいるんだ?」と、お互いハワイにいることを知らないのに海の上で会っちゃったり(笑)。自分みたいなチンピラをすごく大事にしてもらったんです。内田裕也さんとジョー山中さんに関しては、僕が生きてきた中で、一緒に居られたこと自体が宝物なので、これはいつかちゃんとした形にまとめようと思っています。


2021年4月10日更新