「俺んとこ こないか?」
2001年6月、日本のロックシーンに強烈なインパクトを与える楽曲が世に放たれた。学ラン姿にリーゼントという時代錯誤なスタイル、80年代の不良たちに愛された諸々を“サンプリング”した歌詞、合いの手を多く含むキャッチーすぎるメロディ……氣志團はこの「One Night Carnival」で一躍脚光を浴び、同年12月に“メイジャーデビュー”を果たす。
「One Night Carnival」のメジャー盤リリースから20年。豪華アーティスト11組が「One Night Carnival」をカバーしたアルバム「All Night Carnival」が発売された。バンドではなく1つの楽曲をトリビュートするという一風変わったアルバムだが、世代やシーンを問わず愛されるこの「One Night Carnival」という楽曲が、不思議な強さと輝きを持つことを改めて実感させられる。「One Night Carnival」はどのように生まれ、そしてどのように愛されてきたのか。氣志團団長・綾小路 翔(Vo)へのインタビューを行い、その歴史を紐解く。
取材・文 / 臼杵成晃撮影 / 斎藤大嗣
「One Night Carnival」前夜
──なんというか……変な夢を見ているようなアルバムですよね。
そうですね(笑)。文字通り「One Nightmare Carnival」と言いますか。
──全11曲の多種多様なカバーを聴いて、アーティストの豪華さもさることながら、「One Night Carnival」という楽曲の、もしかしたら翔さん本人ですらコントロールできないのではというような引力を感じたんですね。これまでにもさまざまな場面で語られてきたと思いますが、改めてこの「One Night Carnival」という楽曲が生まれた背景をまずはおさらいしておきたいなと。
はい。
──よく知られていることですが、氣志團は「One Night Carnival」が生まれるまでずっとインストバンドとして活動していました。1990年代というと、渋谷系の流れがあり、クラブミュージックの発展があり、メロコア・スカコアの台頭があり、さらには下北沢のインディシーン、TOKYO NEWWAVE OF NEWWAVE……とさまざまなムーブメントがありましたが、1997年という時代に、なぜ氣志團という特殊なフォームでインストバンドをやろうと考えたのでしょうか。
学生時代は渋谷系とメロコアがシーンの中では飛び抜けていて、あとはV系ですかね。でも僕はどこにも交われなくて……ライブハウスをぐるぐる回っている中で最初に「自分の居場所はここかもしれない」と勝手に思ったのはガレージ系のシーン。ギターウルフやMAD3、のちに「One Night Carnival」のジャケットイラストを描いてもらったRockin'Jelly Beanさんのバンド・Jackie & the Cedricsだとか、The 5.6.7.8's.、あとはカメラマンとして活躍されていたHIROMIXさんが始めたTHE CLOVERSなどを観に行って、決して歌唱だけがメインなわけじゃない、という打ち出し方に衝撃を受けて。ほかにもロカビリーやサイコビリーの流れを汲むカッコいいインストバンドが何組かいて、うちの初代ドラマーの白鳥雪之丞が仲よくしていたズーティーズというジャズバンドもクールでカッコよかった。鐵槌(Sledgehammer)の元ベーシストのマサさんがeastern youthのドラムの田森(篤哉)さんとやっていた関東方面音楽隊もインストだった。だから「インストかっけえ!」と思って自然とインストバンドを始めたんだけど、何せ技術が全然追いついていないという(笑)。
──ガレージ系は強面な感じもあるけど、50's、60'sの不良文化に通じる粋なおしゃれさがありましたよね。
パンクの人たちなんかもそれぞれみんなカッコいいファッションをしてたんですけど、そろいの衣装を着ているバンドがガレージ系には多かったんです。みんな本当にカッコよくて、「あのギター、超ビンテージなんだろうな」「あの衣装も古着ですごく貴重なやつなんだろうな」と思っていたら、意外と普通のおじさんが着るような日本製のタキシードをカスタマイズしてたり。ギターもピックアップ部分を紅茶で染めて色を付けたりとか、みんな“なんちゃって”でエイジングさせている。亜無亜危異がナッパ服を着てたのもそうだったけど、そういう独自の感性を持った方々にドキドキして。学ランをそのまま着ちゃだめだとそこで学んで。学ランそのままだと大川興業だよなって(笑)。
──(笑)。
それで、当時のガールフレンドが服飾系の学校に通っていたので、ミシンを借りて来てもらってそれぞれのイメージカラーのパイピングを入れたりして。あそこでただ学ランや特攻服を着なかったことは僕らにとってのターニングポイントでした。「これがエドワードジャケットへの日本からの回答だ」とか言ってた気がする(笑)。だけど決してコスプレでもなければ、ウケ狙いでもなくて。日本発祥のカルチャーであり、日本独自のバッドボーイスタイル「TSUPPARI / YANKEE」を我々の新たなる解釈によって生まれ変わらせるんだって息巻いていたんです。
学ランとリーゼントと昭和の心意気を21世紀に持っていく
──そもそも、自分たちの武器として、当時ほぼ廃れていたヤンキー文化の象徴である学ランをチョイスしたのはなぜなんですか?
僕は「宝島」だの「DOLL」だのが発信する最先端のアンダーグラウンドカルチャーに関して「学校イチ詳しいやつ」という自覚を持って東京に出てきたんですよ(笑)。でも東京には突き詰め方が尋常じゃない人が山ほどいて、自分が知らない世界を教えてもらうのは楽しかったけど、「これでは太刀打ちできないな」とすぐに気が付いた。ファッションも「おらが村のファッションリーダー」だと思っていたけど、もう話にならないっていう(笑)。東京に行ってハイセンスなファッションに身を包んで、おしゃれな音楽を奏でて、そういう人たちに囲まれた生活をしたいという田舎者の憧れを持って出てきたけど、自分は到底そこに及ばない。「結局コネがないとライブハウスの昼の部から抜け出せないのか」と、まだ何も始めてもいないのにどんどん腐っていって。本当に俺には何もないのか……と必死に自分の中にあるものをかき集めたら、一番逃れたかった地元のヤンキー文化が出てきた。
──時代的には完全に忘れ去られていたものですよね。
はい。ちょうどその頃、なんとなく「ハイティーン・ブギ」というマンガを読み直していて、映画では近藤真彦さんが演じていた藤丸翔というキャラクターがいるんですけど、彼が暴走族時代のツナギを着てステージに立つ姿を見て「これだ!」「俺には学ランがあんじゃねえか!」と。学ランのコレクターというつもりもなかったんですけど……周りの友達はみんな中学を卒業するときに、こだわりの学ランを捨てるしかなくなったんですね。というのも、ほとんどの仲間たちが進学をしないわけですよ。で、それまでは後輩に引き継ぐ慣習があったんだけど、ちょうど僕らの下の世代からブレザーになったんですよ。
──ああ、確かに。そういう世代ですよね。
世の中的にも「ヤンキーちょっとダサいんじゃない?」という流れになって、学ランが無用の長物になってしまった。高校になったらそういうファッションを辞める友達も多くて。でも、このままなかったことにしちゃうのはもったいないんじゃないか?と思って、供養のつもりもあって、捨てようとしていた友達の分を引き取ったんです。気が付けばボンタンだけでも3、40本ありましたし(笑)、学ランだけでも20着はあったので「あれだったら今すぐメンバー分そろえられるな」と。それで学ランインストバンドという……とりあえず誰もやっていないから自分がオリジネイターになれるんじゃないかという、小狡い発想も少しはあったかもしれないな(笑)。音楽的には実力もないからいろいろこじれてたんだけど、学ランとリーゼントに関しては全然ギャグという気持ちはなくて。この学ラン文化はいずれ失われていくんだろうけど、改めてカッコいいよなと。デザイン的にも優れているし、70年代から自分でカスタムしたり仕立てたりするという文化があった。ちょうどその頃「コムデギャルソンの今年のショー、ほぼ学ランじゃねえか」みたいなこともあって(笑)、これってやっぱイケてんじゃねえかと。学ランとリーゼントと昭和の男の心意気を21世紀に持っていこう、という謎の使命感が生まれて、それがいつしか僕らのイデオロギーになっていったんです。
──なるほど。
だから相当こだわってましたね。ツッパリってのはダンディズムだから。学ランをしわくちゃにして着るメンバーがいたら叱っていたし(笑)。それにしても演奏の力量がなかった。やりたいことだけはあるんだけど全然表現できていなくて、もちろん観に来てくれるお客さんも「?」だし、なんだこりゃという感じで。それでも必死こいてやってたら、バイト先の仲間が観に来てくれるようになったんですよ。んで「どうだった?」と聞いたら「全然わからなかった」って。
──(笑)。
「でもお前たちのライブは面白いんだ」って。そうこうしているうちにメンバーの1人が辞めてしまって、そのバイトの先輩が「手伝おうか?」と声をかけてくれたんです。それが西園寺 瞳(G)なんですけど。「お前らは轟音でごまかすのがよくないんだ。まずはその足元に並んでるエフェクターの類いをすべて外せ」と取り上げられて。ペキペキなギターの音で、クリックに合わせて演奏する死ぬほどつまらない練習をやらされました(笑)。「このコードはメロディにぶつかっちゃってるから、こう変えてみたら?」「それだ! 頭の中で鳴ってたのはそれだ!」みたいな。彼が僕らに音楽的な教育を施してくれて。それでだいぶよくなったはずなのに、僕らライブのときは泥酔してステージに立つから結局めちゃくちゃで、見かねたトミーちゃん(西園寺)は 遂に1年で脱退を申し出ることに……。しかし同じタイミングで別の仲間たちが「俺らもバンドに入れてくれ」と言い出して。それが星グランマニエ(G)と白鳥松竹梅(B)なんです。そしたらトミーも「え、あいつらが入ってくるならもう少し様子見ようかな」と(笑)。ベースだった早乙女 光(Dance&Scream)はクビになるのかと思ったら「いや、あんたはそもそも楽器なんていう重い首飾りをしてちゃいけないんだ」と。彼らが入ったことによって、ただカッコつけてやってたインストが“音楽”になったんですよね。
「80年代ポップスの醜悪な焼き直しじゃない?」
──今の氣志團につながる形がようやく見えてきましたね。
何もやることがなくなった僕と光がステージで奇声を発したりアジテーションしたりとぐちゃぐちゃやってたら、「あいつら、もしかしたら面白いんじゃないか……?」とほんのりだけ注目されるようになって。本当は僕もしゃべったりしたくなかったんですよ。90年代中頃から、カッコいいバンドはMCをやらない風潮があったから。ライブハウスで働いてたから、誰もがそこに影響を受けているのはわかっていて。当然しょうもないバンドたちも皆MCを挟まずに黙々と演奏して、1曲終わるたびになぜかやたらハアハア言いながら水を飲んで、整うと次の曲のタイトルコールをする。それを繰り返しながら最後の曲の前に今後のライブスケジュールを告知をするんですよね。自分の彼女とその友達ぐらいしか客席にいないのに。「……次回は4月1日三軒茶屋ヘブンズドア、4月15日吉祥寺クレッシェンド、そして4月27日の渋谷サイクロンはデリカシーデリバリーのレコ発です。ザ・ミッシングリンクも出演が決定しました」的な。「デリカシーデリバリーもあともう1個のバンドも、そもそも知らんがな!」と思っていましたね。
──(笑)。
「もしロックの神様がいるのなら聞いてください。俺はよくわからないライブの告知をしません。ステージで水を飲みません。あいつらの5万倍動きますけど、絶対マイクの前でハアハア言いません。なので、俺らに少しでもいいから力とチャンスをください」と夜空に祈った日もありました(笑)。そうこうしているうちに、あまりにも手持ち無沙汰だなあと思うことがあって……すみません、ずいぶん前置きが長くなりましたけど(笑)、ある日メンバーで新高円寺のカラオケ屋に集まって飲んでたんですけど、明け方、家に帰る道中、青梅街道と環七の交差点で「ブワンバンバンバンバン」と暴走族が通り過ぎるのを見たんですよ。まもなく21世紀が訪れるという頃にゴリゴリのパンチパーマの集団で、僕らの地元でもいよいよ見かけなくなったようなビジュアルだった。地上でこういう格好をしているのはもう氣志團だけだと思っていたので、すごく驚いたんですよ。それで「ウオオイ!」と声をかけたら「うるせえぞこの野郎!」とペットボトルを投げつけられて(笑)。それを見たときに、中学生のときに地元の国道127号線で見た風景がフラッシュバックしたんです。そのときになんとなく、のちに「One Night Carnival」になるサビのメロディを歌っていて。
──ようやくたどり着きましたね。
酔った帰り道なんでなんとなくだったんですけど、寝て起きてもまだそのメロディを覚えていた。それでバイト中にメロディを組み立てて、メンバーに「今すぐスタジオに集まってくれ」と連絡したんです。でも、そもそもメンバーたちは歌モノに抵抗があったみたいで。「学ランとリーゼントというあり得ない格好でインストバンドをやっている、その矜持に俺たちは心を打たれたんだ。それを歌モノ? 本当に?」って。それを口八丁手八丁で「とりあえず作ってみよう」と説得して、しぶしぶながら協力してもらったんです。あのイントロのフレーズも、トミーくんが「イントロ? こういうのでいいんでしょ?」と開き直って考えたものなんですよ。「おお、いいね!」と言ったら「……いいのか?」と真顔で言われたのもよく覚えてますけど(笑)。リズムについてもいろいろ考えて、スリーコードのロックンロールになると、それはCAROL、クールス、アラジン、横浜銀蝿のものだから、俺たちはやっちゃいけないんだと。
──それで四つ打ちのディスコがベースになったと。
はい。歌謡曲でもディスコものが好きだったし、何か間違えてちょっとおしゃれっぽくなったらいいなと思って(笑)。ランマ(星グランマニエ)くんはテンションコードを使ったしゃれた曲を作る人だったんですよ。なので、何かそういうの入れてーとか無茶なお願いをしましたね。だからクレジット上は「作詞・作曲:綾小路 翔」になってますけど、僕は原案、現場監督みたいなもので、作ったのは全員でなんです。あの頃は無限に時間があったんで、1曲をみんなが死ぬ気で作った。できあがった瞬間に自分の中ではすごい達成感と手応えがあって、「これはひょっとするとひょっとするかも」と。でもみんなは「これちょっと、面白すぎない……?」「俺たちが忌み嫌ってきた、80年代ポップスの醜悪な焼き直しじゃない?」って。
──醜悪な。
すげえことメンバーに言われてんなと思ったんですよ。「80年代ポップスの醜悪な焼き直し」。一生忘れられないですけど(笑)。でも自分の中では「これはちょっと新しいぞ」という予感があって。今はみんな「いや、俺はそんな反対してなかったよ」って言うんですけど、俺は本当に覚えてますよ(笑)。これがよくある「いじめてた側はわからないよね?」ってやつかと。
──あはははは(笑)。
「それは翔やんが面白おかしく語ってる」って言うんですよ。ドラマチックな話にしようとしてるんだって。いや違うね。俺は忘れない(笑)。「80年代ポップスの醜悪な焼き直し」って言われたことは事実だし、「これはライブでやりたくないな」って言ってたことも(笑)。いや、ウケたけどね。実際。お互いに「こいつ変わってんな……」と思っていたんだろうな。でも、そんな感じであまりにみんなが乗り気じゃないので、女の子の友達にお願いしてアンケートを捏造して、「ほら、なんか評判いいみたいよ」って見せたら「ああそう。じゃあもうちょっとやってみるか」と。その頃女性客なんてほとんどいなかったから捏造だってわかりそうなもんだけど(笑)、そうこうしているうちに、周りのバンドから「なんだあの曲は」「氣志團が面白いことを始めたぞ」と話題になり始めたんです。
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歌謡曲とパンクロックとヤンキー文化