キセル|変わらない、でも今までとはなんとなく違う20年目 キセル、20周年おめでとう。細野晴臣、斉藤和義、坂本慎太郎、中納良恵、曽我部恵一ら アーティスト15組から寄せられた祝福メッセージ

キセルが8月21日に結成20周年を記念した2枚組ベストアルバム「Kicell's Best 2008-2019」をリリース。9月16日には3度目となる東京・日比谷野音大音楽堂でのワンマンライブを行う。

1999年に活動を開始した辻村豪文(Vo, G)と辻村友晴(B)の兄弟からなるキセルは、20年間の長きに渡りマイペースながらもクオリティの高い楽曲を発表し続けてきた。音楽ナタリーではキセルの結成20周年を記念して、これまでとこれからについて辻村兄弟にインタビューを実施。「結成」「メジャーデビュー」「カクバリズム移籍」「20周年」「兄弟」「今後」という6つのキーワードをもとに2人に話を聞いた。特集後半には、細野晴臣、斉藤和義、坂本慎太郎、中納良恵(EGO-WRAPPIN’)、曽我部恵一といったキセルとゆかりのあるアーティスト15組から寄せられた祝福のメッセージを掲載している。

取材・文 / 松永良平 イラスト / しりあがり寿

辻村兄弟インタビュー

キセル結成

キセル

──ベストアルバム「Kicell's Best 2008-2019」の発売を契機に、キセルのことをちゃんと知るというリスナーがまた増えるタイミングでもあると思うので、今回はキセル20周年の始まりの話から改めて聞きます。まずは結成のいきさつから。

辻村豪文 結成は1999年の春です。

辻村友晴 春やったかなあ?

豪文 友晴さんが高校の卒業旅行で大怪我して「できひんかも」って思ったのを覚えてるので。その旅行の前に声をかけたんだと思います。

友晴  厳密に「一緒にやろう」って言われたのかは、あんまり覚えてないですけど。「あのとき言われたのがそうだったのかなあ?」って感じ(笑)。

豪文 友晴さんはそういう印象だったかもしれんね。弟が高校生のときに宅録をちょっと手伝ったことがあって、その作業が面白かったというのもあったんですけど、僕がそれまでやってたバンドをやめるのが決まって、それで弟に手伝ってもらおうと。1人で何かをやろうとはあんまり思ってなかったんです。当初はなんとなく自分の宅録の再現をライブでやれたらと思って、声も似てるし、弟はベースを弾いたことなかったんだけど、練習すればできるかなと思って。初めてのライブが4月29日、昭和天皇の誕生日で祝日でした。KBS京都がやっている交通安全キャンペーン「かたつむり大作戦」のイベントにソロで呼んでもらったときに2人で出ました。

──友晴くんが高校時代に宅録をやっていたのは、兄さんの影響?

友晴  そうですね。同じ部屋やったんで、兄さんの鍵盤があって、カセットMTRがあって、ディレイとかの機材があって、マイクが床に落ちてて(笑)。それで自分でも宅録をやってみました。そもそも兄さんの見よう見まねで音楽を始めたところはありました。

豪文 弟は最初、ギターの弾き語りでしたね。高校の学園祭とかに出て、わりと人気があって。だから最初は、弟が歌ったほうがウケるのかなと思って、僕はプロデューサー的な立場でやろうかとかもぼんやり考えてました(笑)。

──「ベースを弾いて」と言われたときのことは覚えてます?

友晴  あんまり覚えてないですね。でも、友達からいらないベースをもらって、それを弾いて。キセルとしての曲がもうすでにあったんで、ベースラインを覚えて、ニュアンスをたどるというところから始めました。なので「この人のベースが好き」とかからではなかったです。

結成時に使用していたTASCAMのMTR。
インディーズ時代に制作したカセットテープ。

──実際、2人で一緒にやってみての手応えは?

豪文 最初のライブはTASCAMの4チャンネルMTRに入れた手打ちのリズムと効果音みたいなのでループっぽいオケにして2人でやったんですけど、それを意外に面白がってもらえて。そこから京都大学の吉田寮でのライブとか、いろんなところに呼ばれるようになったんです。そこから2年くらい京都で活動していた感じです。

──これもデビューした頃にさんざん聞かれた質問だと思いますが、キセルと名乗ったのはなぜ?

豪文 名前を決めるときは人にもちょっと相談したりしました。あんまり評判はよくなかったけど(笑)。でも、弟が「いいんちゃう?」みたいな感じだったですね。

友晴  最初はひらがなで「きせる」やったね。当時は僕がライブのアンケート用紙を作ってたんですけど、最初はひらがなで書いてました。

豪文 カタカナにしてよかった(笑)。

──友晴くんは大学受験に落ちたタイミングで、結局浪人もせず、そのままキセルに就職したという人生になったわけですが。

友晴  そもそも僕の友達に言わすと、高校時代の受験勉強からやる気がなかったそうで。大学も1校しか受けなかったし、落ちたときは落ち込みもしたけどそんなに深くは考えてなかったですね。むしろ周りのほうが「音楽で食べてく? 大丈夫?」って心配してる感じでした。

豪文 僕が言い出しっぺだし、責任を持つという一応の自覚はありました。実家で両親に会うと今も「(友晴の)面倒見ろよ」みたいなことは言われます。もう僕らはおっさん2人ですけど(笑)。

メジャーデビュー

キセル

──キセルとしての最初の音源は?

豪文 カセット(2000年6月発表の「キセル」)ですね。下北沢にあったハイラインレコーズ(2008年に閉店)に置かせてもらったらそれがすごく売れて、東京でもちょいちょいライブが増えてきて、知り合い関係じゃないようなところからも呼ばれるようになったという記憶はありますね。

──その勢いでインディーズでミニアルバム「ニジムタイヨウ」(2000年9月)をリリース。そして翌年にはメジャーレーベルであるビクター(SPEEDSTAR RECORDS)からアルバム「夢」(2001年6月)でデビューという流れです。そのタイミングで「Quick Japan」の表紙も飾ってましたよね。僕がキセルを知ったのも、あの表紙からでした。

「QuickJapan Vol.37」表紙(画像提供:QuickJapan編集部 / 太田出版)

豪文 「Quick Japan」の編集者だった望月ミツルさんが、当時吉田寮でやったライブを取材に来てたりしたんですよ。で、「ニジムタイヨウ」も聴いてくれてて。その流れもあって表紙になったと思うんですけど、けっこうびっくりしました。

──メジャーから声をかけられたということについては?

豪文 ビクターのA&R担当だったフカミマドカさんには僕が前のバンドをやっていた18、19歳くらいからずっとお世話になっていて、そのバンドで培ったものは今の自分にとって大きいんですが、「ニジムタイヨウ」もフカミさんが携わっていたレーベルからのリリースだったので、なんとなくビクターからデビューすることを目標にしていた感じはありました。キセルとして2人でやり始めてから、「この感じならアルバム1枚くらいは作れるやろうな」という手応えはあったので、メジャーデビューが決まったことにびっくりしたというよりは「目標を1つクリアしたな」という感じやったですね。

友晴 キセルをやる前からの詳しい流れを僕はわかってなかったですけど、いきなりデビューすることになってレコーディングとかいろいろ体験していく中でも、「この先どうなるんやろ?」みたいな不安は特に感じてなかったですね。

豪文 僕らがメジャーデビューを決める前に、つじあやのちゃんがデビューしてたり、ギターのサポートでくるりが僕を呼んでくれた時期があったり、京都がちょっとしたブームになっていた時期でもあったんです。その流れの中で、キセルのカセットがくるりのディレクターさん経由でスピードスター内に渡って、別のちょっと奇特なディレクターさんが聴いて気に入ってくれて、そのおかげで決まったような話でもあったんですよね。

──キセルのビクター時代って、今振り返ると5年でオリジナルアルバム4枚に加え、シングルもたくさん出していて、制作のスケジュールもタイトだし、結果を求められた時期でもありましたよね。

豪文 だんだんそうなったんですけどね。最初はそうでもなかったですけど。

友晴 でも、だいぶゆるいほうやったよね。

──エンジニアのウッチーさん(内田直之)との出会いもビクター時代だし、冨田ラボによるプロデュース(2002年発表のオムニバスアルバム「スペースシャワー列伝~宴~」に収録された楽曲「サイレン」)なんてこともありましたよね。

メジャー1stアルバム「夢」(2001年6月)

豪文 いろいろありましたけど、結局は自分らのペースでやらせてもらったとは思ってます。5年で4枚のペースって今のペースを考えるとすごく早いですけど。当時の作品を振り返ると、自分たちのツメが甘いところとか未完成な部分も感じますけど、ああやってお金をかけてメジャーで作らせてもらえたというのは本当に恵まれてたし、ありがたかったです。今考えてもビクター時代は大事やったと思いますね。

友晴 ウッチーさんにしても、当時のディレクターさんにしても、そこでしか会えへんかった人たちやからね。

豪文 基本的には好きにやらせてもらったのと、その時期にメジャーから作品を出せて、たくさんの人に認知してもらえたというのは、その後の活動にとってもすごく大きかったと思います。

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カクバリズム移籍