川嶋志乃舞|伝統芸能×ポップス、2つをつなぐ新時代のバランサー

川嶋志乃舞が初の全国流通盤としてアルバム「光櫻 -MITSUSAKURA-」「SUKEROKU GIRL」を2枚同時リリースした。

幼少期に和楽器を習い始め、現在は“伝統芸能ポップアーティスト”として活動している川嶋。2枚のアルバムのうち「光櫻 -MITSUSAKURA-」は全編三味線の演奏を軸に「ソーラン節」をはじめとする全国各地の民謡を収録した“完全民謡盤”、一方の「SUKEROKU GIRL」は伝統芸能とポップスを融合させ、新しいジャンルの開拓に挑戦した“伝統芸能ポップ盤”として制作された。

音楽ナタリーでは川嶋に、これまでどのような音楽人生を歩み、三味線片手にポップスを歌うという現在のスタイルに行き着いたのかを聞いた。

取材・文 / 真貝聡 撮影 / 塚原孝顕

伝統芸能ポップアーティストの生い立ち

──このインタビューでは3歳のときにスタートしたという和楽器人生を振り返ってもらいつつ、“伝統芸能ポップアーティスト”と銘打って活動している現在の状況についてお話を聞かせていただきます。

そうしていただけるとうれしいです。いつも経歴ばかりにフォーカスされて、それ以上のパーソナルな部分を掘り下げていただく前に「この子はすごい子なんだな」と壁を作られることが多いんです。

──そうなんですね。まず、志乃舞さんという名前が“名は体を表す”という感じで。

川嶋志乃舞

そうですね。父が「何か和楽器にちなんだ、日本っぽい名前にしたい」と考えて付けてくれた名前なんです。

──日本の文化に造形の深いお父さんは、川嶋さんが赤ちゃんの頃から和楽器の演奏会に連れて回ったそうですね。

あまり記憶はないんですけど、和太鼓とか三味線とか、何か郷土芸能にまつわるものを学ばせたいということで、小さい頃からいろんな演奏会に連れて行かれました。結果、子供がたくさん所属している三味線の会に出会って。3歳だった私は、三味線の演奏を目の当たりにして「私も習いたい」と言ったそうです。

──3歳で佐々木光儀師に弟子入りして、最初は三味線ではなく和太鼓を習い始めたとか。

和太鼓といってもドンドコ叩くようなものじゃなくて、三味線の付属のお囃子の太鼓です。太鼓、当り鉦、鈴を習いつつ、民謡も覚えました。日本独特のリズム、民謡ならではのメロディを体に染み付かせてから三味線を弾くと、すんなり弾けるようになるんです。なので私も3歳から基礎を学び、5歳で三味線を持てるようになりました。

──三味線を弾くようになってからは7歳の頃に全国大会出場を果たし、最年少でコンクールに入選をされました。当時のことは覚えてますか?

最初に参加したのは小学1年生の5月、青森県弘前で開かれた大会でしたが、周りには小学5、6年生のお姉ちゃんやお兄ちゃんもいて、私は入賞できなかったんです。予選で落ちたときは悔しさから大泣きしました。次に挑戦したのが最年少で入賞させていただいた大会で、それ以降は賞に落ちたことはないんです。「賞を取らなければ、なんのために大会に参加するんだ」という気持ちで臨んでましたね。

──川嶋さんはほかの参加者と何が違ったんだと思います?

手がよく回るか、クリアな音が出せるか、ばちがよく鳴る当て方をしているか。そういったポイントが最初からできていたんだと思います。そもそも三味線の会にいた年上が優秀な人たちばかりで、入賞している人がたくさんいたんです。そういう環境のおかげと、持ち前の勝気な性格によって運が回ってきやすかったのかなと思います。

海外公演もテレビ出演も普通と感じた小学生時代

──小学2年生になるとテレビ番組「おはスタ」などメディアへの露出も増え、“天才三味線少女”という紹介で世の中に出るようになりましたね。

テレビ番組に出演しながら、海外公演の初仕事も小学2年生のときに経験しました。家族は「そんなお仕事をするようになるなんて!」と驚いてましたね。だけど、私の中ではイタリアへ行くこともテレビに出ることも普通だったんですよ。逆にほかの子にテレビや海外公演の話が来たら、ものすごくショックを受けていた。

川嶋志乃舞

──その頃におばあさんから三味線をプレゼントされて。

はい。小学2年生のときに買ってもらった三味線を今も使っているんですよ。値段でいうと新車の軽自動車1台分くらい。そんな高いものを孫に与えるなんて、相当なことだと思うんですよね。いい楽器を使わせてもらっていたから大会で入賞できた部分もあると思っていて、それが自信にもつながりました。

──高価な楽器を買い与えられたことも含めて「この子は将来プロになる」という周囲からの期待も大きかったと思いますが、ご自身としてはいつ頃からそのことを意識してました?

小学2年生の頃から自分で学級新聞に「将来の夢は三味線のプロ」と書いていたので、そのままここまで来た感じです。

──賞賛される一方で、同世代のライバルから妬まれることもあったんじゃないですか?

子供のイジメはけっこうひどくて、大会へ向かうバスの中で仲間外れにされることもありました。苦しかったですけど、私は「入賞したもん勝ちだ」と開き直ってました。そういうところも勝気な性格ゆえなんでしょうね(笑)。

「三味線よりもダンス大好き!」な高校時代

──その後、小学6年生で全国津軽三味線コンクール大阪大会の小・中学生の部で優勝されました。中学校に上がると、今度は一般の部に参加して全国優勝を果たします。

小・中学生の部で2連覇をするよりも上の部で挑戦しようと思ったんです。ほかの地区のうまい先輩たちも上のランクで大人と戦っていたのでそんなに珍しいことではなくて、「私も中学生になったら、大人に混じって一般の部で勝負しよう」と普通に考えていました。そしたら優勝しちゃって。さすがにそのときはビックリしたんですけど、逆に「ここからが勝負だな」と感じました。そして、市役所の公演や企業のパーティに呼ばれて演奏するお仕事が増えました。

──学校生活はどう過ごされていたんですか?

川嶋志乃舞

普通の中学校生活でしたよ。みんなと同じように恋をして、勉強もして、部活動もして。三味線の練習もそこそこに、学校生活をものすごく楽しんでました。別に、三味線に取り憑かれていたような生活ではなかったです。

──驚いたんですけど、毎日長い時間練習していたわけじゃないんですよね。

小学生の頃からずっと1日の練習時間は30分、長くても1時間です。ピアノを演奏される方たちは毎日6時間くらい練習するって言うじゃないですか。それは1曲の演奏時間が長いからで、三味線はそこまで1つの曲が長くないし、私は会の中で一番上手だったのもあって「練習よりも違うことをしたいな」と思ったんです。テレビを観て面白いことを知りたいとか、塾へ通って友達と勉強したいとか。そんな中で効率的な上達方法を考えたら、練習時間が短くなりましたね。

──で、高校生ではギャルに変貌するんですよね。

はい、ギャルになりました(笑)。

──当時のプリクラを見ましたけど、わりと本格的なギャルでした(笑)。

下まつげもしっかり付けてました(笑)。中学3年生の頃にダンスの授業を受けて、高校生からは学校のダンス部とダンススクールに通うようになって。当時は「三味線よりもダンス大好き!」という感じでした。そのときジャンルの名前はわかってなかったですけど、R&B、AOR、ヒップホップ、レゲエ、ハウスを好きになったんです。高校生の頃にダンスのグルーヴや体の使い方、ブラックミュージック特有の雰囲気をつかんだからこそ、三味線や民謡に寄りすぎない今のスタイルを築けているのかなと思います。