富野由悠季とシェイクスピアの共通点
中村 総監督がいない間にちょっとしゃべっておこうかな。「G-レコ」では、技術の進歩を捨てて宗教を中心に据えた国家と、「いや、そうじゃないだろう」という勢力との間で対立が起こっているんだけど、結局は「G」すなわち“グラウンド(ground)”に回帰するんですね。要するに人類は何千年、何億年もかけて回帰という点に向かっているというすごくシンプルな軸がある。
──はい。
中村 だから、吉田がサビで「it's been my gear」と歌っているように、ガンダムは“ギア(gear)”でしかない。つまりガンダムが中心じゃなくて、大切なのはあくまでもガンダムをめぐる子供たちの今と未来なんですよね。彼らは笑い、悩み、苦しみ、人を殺し、人を救い、人を愛し、そこには善も悪もない。そんな子供たちの気持ちを、さっき言ったAメロの「何がしたいんだ」や、Bメロの「夢か本能か欲望か 優柔不断か優しさか リーダーシップか強引か」といった歌詞ですくいとっているんですよね。
──なるほど。
中村 そのうえで、サビの歌詞は全部英語なんだけど、簡単に言えば「シェイクスピアでさえすべてを解き明かすことはできなかったのだから、きみがわからないのは当たり前なんだよ」と子供たちに語りかけている。つまり、大いに迷えばいいと……あ、お帰りなさい。
(富野、席に戻る)
富野 僕ね、1つだけ聞きたいことがあったの。あのサビの「Shakespeare」という単語は、どうやって出てきたの?
中村 知りませんよ、吉田がやったことだから(笑)。
富野 なんであれが出てくるかねえ……。
中村 やっぱりシェイクスピアも富野総監督も、時代は違えど人間を捉えた人なんですよ。要は、シェイクスピアは戯曲や詩で、富野総監督はアニメでそれをやった。吉田が言うには、あのサビの歌詞は、富野さんみたいな人が子供たちに語りかけているイメージなんですって。おそらくは、シェイクスピアが子供たちに対して言いたいことも富野さんと共通しているんじゃないですかね。
富野 歌詞が届いた時点で、それまでに作っていた仮の絵並びでよかったのか精査する必要が出てくるわけ。何しろ「Shakespeare」に対して絵を付けるんだから、ものすごいプレッシャーがかかるわけ。でも、「これでいいんだ」と確信させてくれたのが、やっぱりビリー・アイリッシュを観ていたムチムチのお姉ちゃんたちで。
中村 またムチムチですか(笑)。
富野 つまりシェイクスピアにしても吉田美和にしても、それから僕もそうなんだけど、決して高みにはいないんですよ。言ってしまえば庶民なんだよね。それは、あのムチムチともリンクしてるわけ。だから、これは実際にエンディングの映像を観てもらうしかないんだけど、あの絵並びで絶対に間違いない。それは、いわゆるロボットアニメ的な絵並びとは全然違うんだよ。だけど、僕はあの絵に合わせて曲が流れてくると、ついに嫉妬しちゃう(笑)。
ポスターだけで解釈していい
中村 「G」を作るにあたって、僕らは本当に「この『I』のポスターだけで解釈していいよ」とだけ言われましたからね。だから僕らにとって「G」はまったくの新作だし、一応「テーマソング」という形でオファーをいただいたけど、いわゆるタイアップ的な意味での結び付きもないんです。“「G-レコ」の曲を書いた”だけであって、“「G-レコ」のために書いた”とも言いません。総監督に「書いて?」と言われたから「書きます」と答えて、好きにやらせてもらった。それだけです。あるいは、総監督にドリカムがいちクリエイターとして共鳴してできあがった曲とも言えます。
富野 一般的に「打ち合わせは大事だ」と言われるけど、あれは嘘なんです。あるレベルの人と仕事をする場合は、その人に決めた瞬間に全部終わってますから。
中村 別の言い方をすれば丸投げです(笑)。
富野 「ポスター以外の情報はいらない」「あっても邪魔になるだけだし、いちいち目を通すのも時間の無駄だ」と僕のスタッフにも言いました。結果、それで間違いなく通じました。
中村 吉田に関して言えば、彼女は「G-レコ」関連の総監督のインタビュー記事は片っ端から読んでました。そこで総監督が何を伝えたいのかを汲み取って、あの短い歌詞に落とし込んだようです。
富野 やっぱりドリカムは相応のキャリアがあったからこそ、あのポスターからこの曲を生み出せるだけの感度が備わっていたんですよ。そう考えると、若い人には無理だったかもしれない。
中村 まあ、米津くんだったら大丈夫だったと思いますけど(笑)。でもね、本当に僕らはこの曲を誇れますよ。イントロも使いやすいように作ってあるし、総監督がいろんな意味で遊べるような構造になっているはず。
富野 現に「G」は、第2部はもちろん、第3部でも同じように使うけれども、聞こえ方はまったく異なるようにして上映できると思ってる。
中村 それは僕も楽しみですね。
富野 でも、ちょうど今ね、第3部のエンディングであと1分ぶんの映像をどうしたらいいかわからなくて困ってるの。何かいい方法ない?
中村 いやいや、そんなの答えられないですよ!(笑)
物事を“普通に考える”ための言葉
富野 さっき進化論のところで言い忘れちゃったんだけど、進化をやめて同じことを繰り返すなら、20年前のリアルロボットを持ち出してもいいじゃないかという見方もある。確かにそうなんだけれども、1つ問題があって。やっぱりビリーさんのファンの子たちが、みんなムチムチしてるのね。
中村 またムチムチ(笑)。
富野 本当にそこに囚われているんだけど。
中村 囚われている自覚はあるんですね(笑)。
富野 あの子たちがなぜあそこまでビリーさんに夢中になれるんだろうと思って歌詞にも注目したら、かなり深刻なことを歌っているんですよね。今の大人たちのやっていることが本当に私たちを疲れさせているとか、お父さんもお母さんも未来を見せてくれてないとか。そういう歌詞が支持されること自体、今のアメリカ社会が停滞していることの裏返しでもあると思うんだけど、あのムチムチしたティーンエイジャーたちは、それに対する不安なり恐怖なりを表す言葉を持っていないんだよね。
中村 なるほどね。
富野 そういう現実があると考えたら、やっぱりリアルロボットを再生産して悦に入っていてはいけないと知らされた。あとね、僕に孫ができたことも影響しているかもしれない。以前、孫を渋谷に連れていったとき、急に「じいちゃん、もうダメ。おうち帰る」と言い出して。「どうして?」って聞くと「こんなに人が多いと、地球が潰れちゃうよ」って泣くのよ。
中村 うわあ……。
富野 小さな子供であっても、そういうプレッシャーを感じるんだよね。以来、僕は例えば満員電車に人を乗せることはもはや犯罪行為だと思うようになった。あの乗客の密着度だけでも異常でしょ? セックスシーンだってあんなにはくっつかないよ。そういう現実の問題も、さっきも言ったように「G-レコ」を作れば作るほど見えてきたんです。人が暮らすためには、両手を伸ばせるだけのスペースが要るんですよ。隣の人の手とぶつからないぐらいの距離がね。この手がぶつかるかぶつからないかはとても大事なことなんです。もしぶつかったときにどちらも謝らなかったら、戦争するのかという話になってくる。だから我々は、もう少し物事を“普通に考える”ための言葉を持たなきゃいけないんじゃないのか。それが、「G-レコ」の本当のテーマなんです。
中村 きっと「G-レコ」を観た子供たちは、何かを考えざるを得ないですよ。ましてや僕なんか、まだファーストガンダムのアムロ(・レイ)と戦ってますからね。
富野 ふふふ(笑)。
中村 僕はファーストガンダム世代でありながらリアルタイムで視聴していないんですけど、はっきり言ってアムロが好きじゃなかった。「お前ふざけんなよ。何を甘えたこと言ってんだ?」とずっと思ってたんです。その対話が実はまだ続いていて「でも、今ならお前の気持ちがわかる気がするよ。俺もこの歳になってようやく、お前を許容できる程度には大人になったのかもな」みたいな。結局「G-レコ」で富野総監督がやりたいこともこれですよ。「G-レコ」を観た子供たちが、30年後とか40年後にベルリたちのことを考えて「今ならお前のこと、わかるよ」ってなるかもしれない。そういう種がそこら中に撒かれてますから。もうね、通りすがりのモブですら、何かしらの種を撒いてますから。
富野 本当に上手に褒めて、まとめてくれるね。
2020年2月21日更新