Chappo「a one & a two」特集|1年間の寄り道が与えた気付き、1stアルバムに詰め込んだ2人の変化と今

デビューシングル「ふきだし」から待つこと約1年半。ついにChappoの1stアルバム「a one & a two」がリリースされた。2人組なのか、サポートも含めて最大6人編成なのか? インストバンドなのか、歌モノのコンボなのか? 自分たちの個性を自問自答しながら見極めるかのようにライブと試行錯誤を繰り返した時期を経て完成したアルバムは、まさにChappoの脳内を展開図にしたような愛すべき、そして度を越したバラエティを見せている。

デザイナー・岡田崇が手がけた、2人の顔を半分ずつ写したアルバムジャケットは、奇しくも非対称のロールシャッハテストのようにも感じられる。個性は違うがなぜか気が合う、そんな2人の間に浮かぶ空間を見て何を思い浮かべるかはその人次第。その空間にChappoの作り出す音楽の形と、面白さが響き合っている気がするのだ。

では、初めてのアルバムを手にした福原音(G, etc.)と細野悠太(B, etc.)に改めて問う。「a one & a two」を巡る試行錯誤の日々を経て見えた、“Chappoの作り方”とは?

取材・文 / 松永良平撮影 / 小財美香子

この2人で作れるのかな?

──Chappoの2人には僕が音楽ナタリーでやっている連載コラム「あの人に聞くデビューの話」の第1回に登場してもらっていて(参照:あの人に聞くデビューの話 第1回 前編)、その際にバンドの成り立ちから1stシングル「ふきだし」に至るまでを話してもらいました。なので、この取材はまさに2ndシングルの曲名「そのあと」じゃないけど、“そのあとのChappo”の話をお聞きできればと思います。まず、自分たちにとって初めての“アルバム”を、どういうものにしたいと考えてました?

細野悠太(B, etc.) 「ふざけたい」みたいな感覚は最初からあったよね?

福原音(G, etc.) そうだったかな? アルバムにかかわらず、なるべくふざけていたい、というのは活動のスタンスとしてあるけど。僕はアルバムは「どういう作品にしたいか」というより「この2人で作れるのかな?」という心配がありました。アイデアはいくつかあって、雑食性のアルバムにしたいとか、コンセプチュアルに作って架空のサントラ盤みたいにしてもいいんじゃないかとか。でも、基本的には心配のほうが大きかった。

──シングルを出してライブの本数もすごく増えたし、編成もけっこう変わったし、「あれもやりたいこれもやりたい」という時期だったのかなと、傍らからは見てました。歌モノのアルバムにするとか、全曲インストにするとか、いろんな話は出てましたよね。

福原 完成するもっと手前のほうで、イチから悩んでた気がします。なので「どうしたい」よりも「どうしよう?」だった。

──とはいえ、「ふきだし」を出したことでChappoの基本形みたいなものはまず示せたわけで。その先ですよね。悩みや心配の中で「こういう形なら作れるかも」と、手応えのようなものをつかんだ瞬間もあったと思うんですが。

細野 ライブ用に曲を作る、みたいな時間が増えてきて、それで見えてきた部分はあるかな。それまでの僕らは1曲を時間をかけて作ってたんです。でも「ライブがあるから間に合わせなきゃ」と、曲作りのハードルが1つ下がったような気がします。

福原 僕が悠太くんに曲を提出するハードルは下がったかもしれない。もっと自分の中で面白くしてから提示するんじゃなく、一旦素材だけ出して2人で話しながらやれば面白くできる。その自信は「ふきだし」で付いたものだと思います。そもそも2人で曲作りの作業をすること自体「ふきだし」が初めてだったし、その作業によって自分が壊したいと思っていたところをある程度壊せると気が付いたんです。でも、僕的にはアルバムを作れると思えた瞬間は、けっこう終盤。1曲目の「"a one"」に使うボイスをいろいろ録ったあと、ようやくでしたね。

細野 え? そんなにあとのほうだったんだ(笑)。

福原 あれを録ってるとき、「あ、アルバムできる」と思えた。

──起承転結の「起」はこれだ、みたいな?

福原 ワンアイデアがきれいに収まっていく感覚がどの曲にもあったんです。以前のChappoは、どっちかというとアイデアを詰め込み気味だったし、「そんなことは恥ずかしくてやらない」と先に考えちゃうタイプだった。でも「"a one"」では、前ならやらなかったことにトライしても別に恥ずかしくないと思えたし、そこで表現のリミッターが外れた気がして。「これならアルバムを作れる」という感じになれたんです。

Chappo

Chappo

「試行錯誤の1年」がコンセプト

──そもそも2024年は、Chappoにいろんなことが起きた1年でしたね。海老原颯(Dr)くんは最初からいたけど、ライブのサポートとして小山田米呂(G)くんが定着し、ÅlborgからMiya(Vo, Flute)さん、功刀源(G)くんが参加して、夏頃にはサウンドがWilcoっぽくなっていた印象もありました。

細野 明確にWilcoからの影響が現れてましたよね。

福原 今となっては、あの時期に作った曲は1曲もライブでやってない(笑)。Wilcoのメンバーに会ったから影響を受けてしまったというか。

──そういう若さ、まだまだ不安定な部分も面白かったですけどね。「ふきだし」が注目されて、“恐るべき子供たち”だと注目を集めたけど、意外とバンドの軸のようなものは固まっていかなかった。実際はライブを観に行くと毎回編成もサウンドも変わっていたし、今なお試行錯誤中。もちろんライブデビューすら間もなかったわけだから、まだまだ変わっていい時期だったんですよ。そういう意味で、この1年は重要だった。

福原 かなり重要でした。というか、その試行錯誤自体がコンセプトになったアルバムなので。あの1年がなかったらアルバムは作れていなかった。

福原音(G, etc.)

福原音(G, etc.)

──もっと早くにアルバムも出したいという気持ちもあったんですよね。

細野 「そのあと」も、もっと早くにリリースする予定でしたから。

福原 僕ら、世に出るまで地下にずっとこもってたじゃないですか。そういう存在だった僕らが外界に出て、いろんな人との接触によって、石がだんだん削られて整う、みたいな。流れに任せることも大事だと感じた1年でした。

──ピンボールみたいにポンポンあちこちで弾かれて、結果的にこのジャックポットに来ました、みたいなところもありますよね。

福原 そのピンボールで弾かれて行き着いたジャックポットが、意外と予想もしなかった場所ではなかった、というのはあります。「あ、結局、細野(晴臣)さんの手のひらの上なんだな」とも思うんですが(※福原と細野は、細野晴臣に勧められてバンドを結成した)、寄り道なしではそうもいかなかった。僕らは一直線ではここには行けなかったと思います。そういうことをアルバムのコンセプトにもしました。

「a one & a two」は福原音の成長譚、かもしれない

──悠太くんは、音くんを側で見ていて「もっとまっすぐ行っちゃえばいいのに」と思ったりしなかったんですか?

細野 僕もどっちかというと流れに身を任せるタイプなんですよ。音くんはひねくれ者だから「そこに行くだろう」とわかっていても、「行きたくない」という気持ちも持ってる。だから、違う方向に弾かれてから最終的に行くべきところに行ったというのは、音くんが納得するうえで大事なプロセスだったのかなと。僕は「じゃあ、しょうがないか」って感じで(笑)。

細野悠太(B, etc.)

細野悠太(B, etc.)

──結果論でもあり、経過論でもあるという。ライブメンバーが同世代のいいミュージシャンで固まったことも、結果論=経過論と言えるし。

福原 そうですね。言ってしまえば、このアルバムは僕の成長譚かもしれない。

細野 あー、そうかもね。

福原 人の好き嫌いがわりとあるし、警戒心も強い。そもそも若い世代とは話があまり合わなくて、悠太くんくらいしか友達はいなかった。そうやって地下にいた頃の僕だったら米呂はバンドに誘ってないんですよ。絶対この人は違うと思ってたけど、この2、3年でよく話をするようになって。とはいえ、仲がいいからバンドに入れるみたいなことは、かつての僕が一番嫌ってたことなんです。でも、そういう変なこだわりがなくなって、この音楽のためにはいてもらったほうがいいと判断できるようになった。結局、最初に「アルバムってできるのかな?」と不安だったのは、そういうことだったと思うんです。曲はいっぱいあったけど完成させられない感じだったのが、他人を受け入れて作れるようになった。そういう変化のきっかけになったという意味でも、米呂は僕にとって大きい存在でした。