黒澤明の名作が新たに生まれ変わる、「生きる LIVING」を今観るべき6つの理由

ビル・ナイが主演を務めた映画「生きる LIVING」が、3月31日に公開される。

本作は「わたしを離さないで」で知られるノーベル賞作家カズオ・イシグロが脚本を担い、黒澤明の名作「生きる」をもとに紡いだ物語。1953年、第2次世界大戦の荒廃から復興途上にあるイギリス・ロンドンを舞台に、余命宣告をされた公務員が新たな一歩を踏み出す姿が描き出される。南アフリカ出身のオリヴァー・ハーマナスが監督を務め、ナイが主人公のウィリアムズを演じた。

映画は、2022年1月のサンダンス映画祭を皮切りに世界各国の映画祭でスクリーンにかけられ、高い評価を受けた。Rotten Tomatoesでは批評家スコア96%フレッシュの高評価を維持。第95回アカデミー賞にて主演男優賞、脚色賞にノミネートされた。映画ナタリーでは、本作を今観るべき理由をライターの髙山亜紀、渡邉ひかるによるレビューから紹介する。

文 / 髙山亜紀、渡邉ひかる

髙山亜紀が推す3つの理由

①粋な俳優がジェントルマンを体現

「生きる LIVING」の演技が認められ、73歳にして、初めてアカデミー賞主演男優賞ノミネートの快挙を成し遂げたビル・ナイ。「プラダを着た悪魔」のモデルになったアメリカ版ヴォーグ誌の編集長であるアナ・ウィンターとの仲の良さで知られ、授賞式には誰をエスコートするのか、注目を集めていたが、彼がレッドカーペットに同伴したのはなんとシルバニアファミリーのうさぎ! そんな洒落心のある粋な人である。一方で、「ラブ・アクチュアリー」のロックスター役で、一躍、人気者になった彼のカリスマ性、オーラは尋常ではない。本作で脚本を担当したカズオ・イシグロは主人公ウィリアムズ役を「ユーモアのセンス、皮肉、ストイックさ、そして内面にメランコリーのようなものを持っている」とビル・ナイ一択で指名。見事、期待に応え、イシグロが子どもの頃に憧れたジェントルマンをイメージしたキャラクターを体現している。

「生きる LIVING」より、ビル・ナイ演じるウィリアムズ。

「生きる LIVING」より、ビル・ナイ演じるウィリアムズ。

②「生きる LIVING」を経てより見えてくる、黒澤映画「生きる」の真髄

「生きる LIVING」のウィリアムズはピン・ストライプのスーツに山高帽の似合うビシッとした英国紳士。「生きる」の主人公であるどこかくたびれた渡辺課長とは一線を画す。それでも二人とも判で押したような生活を送るなか、いつしか生きる楽しみを忘れていた初老の男性である。それが突然の余命宣告が二人を変える。皮肉にも間近に迫る死が彼らを本気で生きさせる。不思議なことだが、「生きる LIVING」のウィリアムズがエレガントであればあるほど、「生きる」の志村喬演じた渡辺課長の悲哀さが増す。真面目一筋、飲酒もしないのに病に脅かされ、死の恐怖を前に酔ってしまいたいのにできない辛さ。狭い一軒家の同じ屋根の下に住みながら、手塩にかけた息子に邪険にされる虚しさ。気づけば何もなかった彼が人生で最後に一つだけと文字通り、死に物狂いで奮闘する姿は鬼気迫るものがある。彼が見せる表情は本物以上の迫力。まさしく黒澤映画の真髄、ここに極まれりである。

「生きる」場面写真 © 1952TOHO CO.,LTD.

「生きる」場面写真 © 1952TOHO CO.,LTD.

③同じ設定でもこんなに違う、両方楽しみたい傑作

「生きる」に魅せられたのが後にノーベル賞作家となる若き日のカズオ・イシグロだ。手柄が得られるから、あるいは称賛されるからやるのではなく、自分の成すべき事だからやるという人生観。それは「七人の侍」「赤ひげ」からも感じられる黒澤作品のメッセージ。小市民の代表のようだった渡辺課長はヤクザや上司に食らいついてでも、命をかけて、正義を貫こうとする。泥臭い渡辺課長と違い、スマートで、一見、ドライにすら見える「生きる LIVING」のウィリアムズの中にもまた熱意、愛がある。「生きる」では志村喬が「いのち短し、恋せよ乙女」と「ゴンドラの歌」を歌う場面が有名だが、代わりにビル・ナイは亡き妻を思い、スコットランドの伝統的な歌「The Rowan Tree」を歌う。どんな人の心にも宿る、愛する人への思いと美しい思い出。感情を押し殺してきたお堅い紳士の本音が滲み出る瞬間に、ダイレクトに心に刺さる「生きる」とはまた違った感銘を覚える。

「生きる LIVING」場面写真

「生きる LIVING」場面写真

渡邉ひかるが推す3つの理由

①カズオ・イシグロと“映画”の相性のよさ

もし黒澤明の「生きる」を知らない人が見れば、「生きる LIVING」はカズオ・イシグロのオリジナル脚本から生まれた映画だと思うかもしれない。それほど、かつて「生きる」で描かれたテーマとカズオ・イシグロが小説の中で探究してきたことは似ている。長崎に生まれ、イギリスで育ち、今やノーベル賞受賞作家として知られる彼は、品格とともに生きる執事の人生を追った「日の名残り」でも、悲痛な運命にさらされる若者3人に寄り添った「わたしを離さないで」でも、人間とは何か? 生きるとはどういうことか?に向き合ってきた。そんな書き手が子供時代に見て衝撃を受けた「生きる」を、脚本家としてよみがえらせたのも自然な流れに思える。また、「日の名残り」も「わたしを離さないで」もそれぞれ映画化されていて、ともに名作になっていることから、カズオ・イシグロと“映画”の相性のよさもうかがえるところ。美しい言葉、静謐でいて心をざわつかせる世界観、その中で描かれる人間の心の内のすべてが、「生きる LIVING」に詰まっている。

「生きる LIVING」場面写真

「生きる LIVING」場面写真

②愛おしさすら覚えさせるビル・ナイ流の演技

空虚な毎日を粛々と送り続け、余命宣告に見せる絶望すら静かな“ウィリアムズさん”を、ビル・ナイ以外が演じるのを想像するのはもはや難しい。それもそのはず、カズオ・イシグロは脚本を執筆する際、彼が演じるのを想定し、主人公のウィリアムズを描いたそうだ。抑えたキャラクターに微細な表情の変化を滲ませ、哀愁を放ちながら共感を呼び、愛おしさすら覚えさせるのがビル・ナイ流。「ちょっと過去に行ってみないかい?」と、まるで近所に散歩へ行くかのごとく息子をタイムトラベルの旅に誘った「アバウト・タイム~愛おしい時間について~」の父親のように、死に直面したウィリアムズもさり気なく、淡々と自らの心情を見せ始める。これ以上望めないほど見事な配役だが、名作映画のリメイクで主演を務める以上、チャレンジに思う気持ちもあったはず。しかしながら、新ドラマ「地球に落ちて来た男」では、過去の映画版でデヴィッド・ボウイが演じたアイコン的役柄にもサラッと挑戦。難しいと思えることにスマートに臨むのもまた、ビル・ナイ流だ。

「生きる LIVING」よりビル・ナイ演じるウィリアムズ(左)とエイミー・ルー・ウッド演じるマーガレット(右)。

「生きる LIVING」よりビル・ナイ演じるウィリアムズ(左)とエイミー・ルー・ウッド演じるマーガレット(右)。

③物語を彩る、未来への希望を託された若者たち

ウィリアムズの物語は、彼の部下となる新人公務員ピーターの視点で始まる。演じるのは、舞台「夜中に犬に起こった奇妙な事件」でトニー賞主演男優賞に輝くアレックス・シャープ。ピーターが初めて通勤電車に乗る冒頭のシーンはカズオ・イシグロ自身が子供のころ目にした風景が発想の源になったそうだが、空虚な上司の姿はピーターの目にどう映ったのか。戸惑いに加え、少しがっかりもしているかもしれないピーターは、観客に最も近い存在とも言える。一方、役所を辞め、レストランに転職する元部下のマーガレットは、人生を見つめ直すウィリアムズの太陽に。Netflixの人気ドラマ「セックス・エデュケーション」では愛すべき女子高生を演じているエイミー・ルー・ウッドがバイタリティに溢れたマーガレットを好演し、生き生きとしたものをウィリアムズにお裾分けする。ウィリアムズの背中を見つめるピーターにも、彼と一対一で向き合うマーガレットにも、託されているのは未来への希望。両者の目に映るものにも、作品のメッセージが込められている。

「生きる LIVING」より、アレックス・シャープ演じるピーター。

「生きる LIVING」より、アレックス・シャープ演じるピーター。

「生きる LIVING」より、エイミー・ルー・ウッド演じるマーガレット。

「生きる LIVING」より、エイミー・ルー・ウッド演じるマーガレット。