週刊少年チャンピオン50周年 対談連載第1回 武川新吾(週刊少年チャンピオン編集長)×市原武法(週刊少年サンデー編集長)|世界に4つしかない週刊少年マンガ誌 僕たちはライバルではなく“伴走者”

チャンピオンの強みは実践型の作家が多いところ(武川)

──お互いの雑誌のイメージの話に戻ると、「ここは相手の雑誌に敵わない」という部分はありますか。

武川新吾

武川 よそに敵わない部分ということはあんまり考えないですね。敵う・敵わないというか、自分のところのストロングポイントみたいな個性はあるのかなと思いますけど。例えば作家主義って言うんですかね。作家の考えたことに寄り添う編集スタイルが、昔からチャンピオンにはあります。作品を生み出すのは作家ですからね。あとは草野球をやりながら「ドカベン」を描かれていた水島新司先生がいらっしゃって、その後も「刃牙」シリーズの板垣恵介先生も元自衛隊員で、フィジカルトレーニングを積みながら「刃牙」シリーズを描かれていたり、渡辺航先生も「弱虫ペダル」を描きながら1年で何千キロも自転車に乗ってらっしゃる。そういう「実践型」のマンガ家さんが人気作品を描いて前線を張れるという個性はうちの強みかな、というのは最近すごく感じてますね。敵う・敵わないじゃなくて、ほかにいないんじゃないかっていうような。昨年末「SASUKE」に出場した佐藤健太郎先生もいらっしゃいますし(参照:「魔法少女サイト」の佐藤健太郎が大晦日放送の「SASUKE」に出場)。サンデーさんはそういうのって何かあります?

「名探偵コナン」96巻

市原 サンデーのマンガはよく言えば洗練されている、悪く言えば大人しいっていうか。少年マンガの主人公っていうのは普通、元気いっぱいだけどちょっとドジで抜けてて、仲間に助けてもらいながら何かを成し遂げるって形が多いかと思うんです。だけどサンデーは少年マンガ誌の中では珍しく「名探偵コナン」のような、頭がよくて都会的な主人公を多く起用しますね。そこは強みっていうか、読者の反応を何十年か見ながら、長く雑誌を育てていくうえでできた文化だと思います。ザラついたマンガは当然、チャンピオンとかマガジンには敵わないっていうか、そこに打って出てもしょうがない。例えば「刃牙」はチャンピオンに載ってるのが重要だと思うんですよ。チャンピオンレーベルの中だから花開いた作品。雑誌にはそれぞれの領土っていうか文化があるので。例えばアメリカの方から「この味噌汁ってのはとても美味しいから、具にウインナー入れてみたらどうだ」って言われても、美味しいのかもしれないけど文化的にはどうなの?みたいな。

武川 はっはっは。

──その「雑誌らしさ」というのは作家が作るものですか、それとも編集者でしょうか。

市原 まあ、両方なんじゃないですかね。

武川 とはいえマンガ家さんも編集者も、意識はしないですよね。「チャンピオンのマンガだからチャンピオンらしく」と意識して作品を作っているかというと、あんまりそうでもなくて、結果おのずとそうなっていくんじゃないかという気がしています。意外と作家さんとかマンガ作品って、集まるべきところに自然と集まってくるんだと思いますけどね。

「あの編集部はあの作家を逃したのか」というのは違うと思う(市原)

──「雑誌らしさ」の話で言うと、仮にチャンピオンっぽい作家がサンデーに持ち込みに来たらどう対応されるんでしょうか。

市原武法

市原 それはその持ち込みに対応した編集者の力量によります(笑)。

──まあ確かに、「うちにない作風だから逆に載せたい」みたいな場合もあるでしょうし。

市原 そうそう、そういうことを考える人もいますから。例えばうちはヤンキーマンガって超苦手ですけど、西森博之先生の「今日から俺は!!」は見事にマッチしましたからね。ああいうのが1つあると、文化の幅がちょっと広がる。やっぱり「サンデーはこうだ」っていう狭い道をずーっと歩く必要はないですから、風土が広がるような、革新されるような作品っていうんですかね。例えばジャンプでいえば「DEATH NOTE」が始まったときは、「ジャンプでこれやるんだ!」というのはありましたよね。

武川 あれは衝撃的でした。

市原 ジャンプって基本的には小学生読者を獲得しようっていう方針があると思うんですが、「DEATH NOTE」は小学生を獲れないですから。でもあれはあれで、「これで読者層を拡大しよう」と意識してるわけじゃなく、面白いから始まっただけで、風土が広がったのは結果論だったりもするんでしょうけどね。でも面白いもので、「あの先生はうちに持ち込みに来たけど、編集者が『君はうちじゃないよ』って帰した結果、別の雑誌でこんなに人気が出ました」っていう逸話は、どこの雑誌にもいくつもありますよ。

──有名なところだと「進撃の巨人」が最初は別の雑誌に持ち込まれていたという話がありますね。

市原 各編集部、10個ぐらいそういう話はあると思いますよ。それを聞いて「あのバカはあの作家を見逃したのか!」と思う人もいるかもしれないですけど、それは違う。その編集者が自分の美意識で「この先生はうちじゃない」って判断したからこそ、その作家さんは別の場所で花開いたのかもしれない。やっぱり違う文化だったら花開かなかった可能性もありますから。

武川 描く雑誌を最後に選ぶのは作家さんですから「逃した」と言うのも違いますしね。

市原 そうそう。

「『BEASTARS』の何が腹立たしいかって……」(市原)

──“ザラついている”チャンピオンと“出来のいいお兄さん”なサンデーでは風土は逆だと思うんですが、そこをあえて、武川さんがサンデー読者に読んでほしいチャンピオン作品はありますか?

武川 今チャンピオンで連載している作品で言うと、やはり「BEASTARS」になるんですかね。動物の世界が舞台で、肉食と草食の葛藤や業を生々しく描きつつ、現代らしい多様性の考え方まで盛り込まれていて。本当に少年マンガの最先端を走っているんじゃないかと自信を持っている作品です。

市原 見事なマンガですよね。お見事としか言いようがない。人間の業をどう表現するかっていうのは、マンガだけじゃなくてすべての物語のテーマだと思うんですよ。でもそれをそのまま人間で描くといろんな制約もある。かといってかわいい女の子みたいなアイコンで描くと作り物感が出ちゃうし。だから人間の業を描くにあたって、「BEASTARS」の手法というか演出技法は完璧ですよ。

武川 ありがとうございます。板垣巴留先生、喜ばれると思います。

市原 「BEASTARS」の何が腹立たしいかと言うと……いや、「腹立たしい」っていうか……(笑)。

武川 存分に腹立たしく思っていただければ(笑)。

「BEASTARS」1巻

市原 このジャンルに関してはもう負けが確定したから、「腹立たしい」って言っていいと思うんですけど(笑)。一時期、擬人化ものが流行ったときに、僕は「何かを擬人化するのであれば、エンタテインメントの幅を広げるためにやるべきだ」と思ってたんですね。で、サンデーっぽいラブコメで擬人化という手法を使うなら……というイメージだけは僕にもあって。僕の頭の中では、男の顔だけ犬になっている世界のファストフード店で、女子中学生が「もう柴犬はうんざり」「これからはヨークシャーテリアよ」みたいなことをダベってる連載冒頭シーンまでできてたんですよ。犬種によって性格が違うみたいな。ラブコメ1つとっても、そういう世界で描くとさまざまな表現技法が広がるんじゃないかということを考えてたんです。だけどこの作品を作るには、表現力だとか、世界を生み出す知性みたいなものが作家さんにすごく必要なので、実際にはこれはなかなかできないだろうって思ってたところに……「BEASTARS」が始まりました(笑)。あれをやられたらもうね、やることないですよ。動物を擬人化してマンガの表現の幅を広げるってことに関してはもう「BEASTARS」がやればいいので。それぐらいかなり、いくとこまでいってる。

武川 「BEASTARS」の表現手法は発明の領域ですからね。

市原 そうなんですよ。しかもどんどん絵もうまくなっていくから毎号ビックリしてます。 連載当初からキャラの感情表現やキャラの眼力は凄まじかったですよね! 

武川 やっぱり最初から絵に強烈な華はありましたから。

市原 そう、キャラクターの絵の威力がすごい。華のある絵だったんですよね。華さえあれば、上手いとか下手とか、デッサンが取れてる、取れてないなんていうのは、どうでもいいっちゃどうでもいい。もちろん取れてるほうがいいんですけど。まあ、華を探し求める作業ですからね、僕らの仕事は。

武川 華ですよね。技術とは別に、生まれ持った才能なのかなんなのか、違う領域っていうものはあるんですよね。風呂に入ってよし寝るぞーっていうときに、なんでさっき校了で読んだ「BEASTARS」のあの場面ばっかり思い出すんだろう?みたいなことっていうのは、すごくあるんですよね。そういう華がある作品はやはり強いという実感はあります。

市原 華って努力とか技術でどうにかなるものでもないので、残酷ですけどね。