魚豊×川島明×岩井澤健治、アニメならではの映像と表現にこだわった劇場アニメ「ひゃくえむ。」 (2/2)

1年かけて描き上げた、何も起こらない3分40秒

魚豊 あと時間の表現で言えば、やっぱりあの長回しのシーンがすごく印象的で。

川島 あれですよね、高校生になったトガシと小宮が走る試合前のシーン。

魚豊 そうです。本当は原作でもああいう緊張感の演出みたいなことはやりたかったんですけど、当時の僕の能力では思いつけなかった。カメラがぐるっと回って競技場の様子を淡々と映していって、そこで選手1人ひとりが軽くアップしてたり、点呼されたりっていう……なんというか、生々しさがあって。

岩井澤 シナリオハンティングで学生の試合を観に行ったときに、ああいうスタートまでの一連の流れを見て「これも含めて試合なんだな」と感じたんですよ。始まっちゃえば一瞬で勝敗が決まるんだけど、その前の光景を手持ちカメラのワンカット長回しで見せたら、すごく映像的に映えるんじゃないかと。あのカットは全部で3分40秒あるんですけど、これはけっこうアニメーション表現としては挑戦的な、自分の知る限りではこれまでにないものだと思います。実写だったら全然ある手法なんですけど。

劇場アニメ「ひゃくえむ。」より。

劇場アニメ「ひゃくえむ。」より。

川島 いや、実際観たことないですもん。

岩井澤 仮に思いついても、あれを1枚1枚描いていく労力を考えたら普通は「無理だ」となっちゃうんで。そこで「誰もやってないならやっちゃおう」と考えるのが、たぶん自分の強みなんだと思っています。実際にできた今だから言えることですけど(笑)。

魚豊 あのシーンだけで1年かかっているらしいですから。

川島 うわあ、1年ですか……!

岩井澤 ちょうど丸々1年ですね。去年の8月1日に描き始めて、今年の8月1日に描き終えたので(笑)。セクションごとにいろんなスタッフが描いていて、常に誰かしらがあのカットを描いている状態でした。背景だけでも1800枚ぐらい描いたんですけど……。

魚豊 ヤバすぎる……。

川島 しかも、言ってしまえば特に何も起こらない3分40秒やからね。贅沢やなあ……スタッフの方、誰も辞めなかったですか?

魚豊 ははは(笑)。

岩井澤 ちょこっとやって、すぐ「無理です」という人もいましたが、それはしょうがないですね。

左から岩井澤健治、川島明。

左から岩井澤健治、川島明。

川島 ですよね。描き始めたときは、まさか1年もかかるとは思ってないですもんね。

岩井澤 そうですね。まあ、でも半年はかかるかなと思ってましたけど。僕の場合、だいたいそんな感じなんですよ。「音楽」にしても、7年半もかかるとは当然思ってなかったんで(笑)。

川島 でもそうやって時間をかけたものがちゃんとみんなの印象に残ってるということは、そのやり方が間違ってなかったということですもんね。能力うんぬん以前に好きじゃないとできない作業だと思うから、いろんな奇跡が重なってできあがったシーンなんだなと思うと、今の話を踏まえてもう1回じっくり観たくなりました。

財津が小宮の学校で演説するシーンに心を揺さぶられた(川島)

川島 僕が「ひゃくえむ。」を初めて読んだのは41歳か42歳のときやったと思うんですけど、財津が小宮の学校で演説するシーンに心を揺さぶられまして。原作ではあのシーンが一番好きで、今でもよく読み返すんですよ。僕は20年以上も人前に出る仕事をしていて、それでも舞台に立つときはいまだに緊張するんですけど、そこにあのシーンが1個答えをくれたような感覚があって。「そうか、不安は対処すべきじゃないんや」みたいな。

魚豊 あれはすごく描きたかったシーンで。でも読んでもらうとわかるんですけど、あそこって物語上は浮いてるんですよね。別になくても成立するんです。打ち合わせでも最初は「これ、別になくてよくない?」と言われて……。「わかる。けど、なくていいわけねえだろ!」と思ったんですけど(笑)。

川島 ガハハハハ! ホンマそうですよね(笑)。

魚豊 「ごめんなさい、これが描きたいです!」と言って描きました。

川島 あれによって小宮が覚醒するわけですしね。そこはやっぱり大事にしてほしかったし、映画でも印象的なシーンになっていてよかったです。「すっごいホンマのこと言ってる!」と思って、まず掴まれたのがあそこやったんで。

岩井澤 僕が原作を読んでいてグッと掴まれたのは、キャラクターでいうと海棠なんです。だから映画の制作中もどんどん海棠の演出が過剰になっていって、周りに「主人公じゃないんで……」と止められたりしていました。「そっか、そうだよね」みたいな。

魚豊川島 (笑)。

「ひゃくえむ。新装版」上巻

「ひゃくえむ。新装版」上巻

「ひゃくえむ。新装版」下巻

「ひゃくえむ。新装版」下巻

岩井澤 さっき魚豊さんから「モノローグがないのがいい」と言ってもらいましたけど、唯一海棠にだけはモノローグがあるんですよ。一応アフレコでは録らせてもらって、使うかどうかは最後まで悩んだんですけど、やっぱりあのセリフを使うところがあそこしかなかった。主人公でもないキャラクターにだけモノローグがあるというのも違和感あるかなと思いつつ、映画としての見せ場にもなり得るセリフだったんで。

川島 観る側としては、違和感はまったくなかったですね。むしろ海棠がちゃんとカッコよく描かれていて、愛を感じました。後半のMVPぐらいインパクトありますし、彼の存在に勇気づけられる人はたくさんいるでしょうね。

魚豊 しかも、演じているのが津田健次郎さんなんですよね。僕、この映画の中でかなり好きなのが冒頭のナレーションパートなんですよ。原作にはない古代の壁画みたいなのから始まって、津田さんの声でナレーションが入ってくる。納得感がすごいというか、うれしかったですね。

岩井澤 あそこも、普通だったらトガシの声でナレーションを入れるところなんですけどね。でも、ここは津田さんだなと(笑)。

作家にとって重要なのは、自分の喜びと読者の喜びが一致すること(魚豊)

川島 魚豊さんの作品を読んでいると、画面から自信が感じられるんですよね。もちろん挫折もいっぱいあったやろうし、大人から「こうしたほうがいい」と言われることもあったと思うんですけど、「ひゃくえむ。」を読む限りでは一切折れてないというか。「黙って俺の話を聞け」というぐらいの力強さを感じます。何作かヒットを出して、少しずつ「売上は関係ないねん、好きにやらせてくれ」となっていく作家さんはいますけど、最初から思いっきりこれが描けて、そのまま「チ。」や「ようこそ! FACT(東京S区第二支部)へ」へつながっていく、この疾走感ですよね。折れんとやり続けたら成功するんやな、と思わせてくれる。

魚豊 本当にうれしい……ありがとうございます。

川島 しかも、それが独りよがりではないのが魚豊さんの特殊なところですよね。誰が読んでも面白いし。「わかるやつだけついて来い」じゃなくて、「いや、これおもろいから読んでくれ」っていうのが一番原点にあるんじゃないですか?

魚豊 そうですね。作家にとって本当に重要なのは、自分の喜びと読者の喜びが一致することで。たまに「本当はこんなものを描きたくなかった」みたいなことを言う人がいますけど、「いや、でもそれを描いたじゃん」と思うんですよね。僕もマンガを描く人間だからわかるんですけど、自分の手でそれを描いている以上、それは自分の意思でしかないんですよ。だから「描いた」という事実がある以上は「本当は描きたくなかった」とは言えないはずだし、そもそも現代日本に生まれてきて、描きたくないものを描いてまでマンガ家になる必要なんてないじゃないですか。いくらでも職はあるし、バイトすれば食えるわけだし。誇りある仕事としてマンガをやってるつもりですが、単なる労働としてマンガを描いてはいけないと、学生時代からずっと思ってはいましたね。

左から岩井澤健治、魚豊の自画像、川島明。

左から岩井澤健治、魚豊の自画像、川島明。

川島 こういう作家さんって、意外といないかもしれないですよね。昭和にはいたかもしれないですけど(笑)。

岩井澤 今回の映画は全国でシネコンを中心に公開される映画としてはけっこうストイックで挑戦的な作品になっているので、ぜひ多くの人にスクリーンで浴びてほしいなと思います。それで何かを持ち帰ってもらって、その人の人生の何かにつながってくれたらいいなと。

魚豊 「音楽」もそうですけど、岩井澤監督の作品には原初のアニメーションの喜びみたいなものを感じるんですよね。「絵が動くのって楽しいじゃん」みたいな、根っこのレベルで感じるものがあるっていうか。素晴らしい体験になると思うのでぜひ、という感じですね。

川島 今って、自分が面白いと感じたことに自信を持てない人がけっこういる気がするんです。「みんなはどう思ってるんだろう?」って調べてそっちの意見に引っ張られちゃうみたいな、めっちゃもったいないことしてると思うんですよ。この映画には、そういう余計なものを全部取っぱらった、100m走という競技にすべてを懸ける人たちが描かれるんで、「そうや、これでよかったんや」というのが見つかると思います。絶対に映画館で観たほうがいい作品だと思いますし、1度ならず何度も観てもらいたいですね。それぐらい圧倒的な作品なんで、全員観てほしいです。

プロフィール

魚豊(ウオト)

1997年生まれ、東京都出身。2018年11月、マガジンポケットにて「ひゃくえむ。」で連載デビューする。2020年から2022年にかけて週刊ビッグコミックスピリッツ(小学館)で発表した「チ。―地球の運動について―」は、2024年にTVアニメ化。劇場アニメ「ひゃくえむ。」が、2025年9月19日に劇場公開される。

川島明(カワシマアキラ)

1979年2月3日生まれ、京都府出身のお笑い芸人。1999年に田村裕とお笑いコンビ・麒麟を結成。2001年に「M-1グランプリ」決勝進出を果たし、一躍注目を浴びる。2021年3月よりTBS系朝の生放送帯番組「ラヴィット!」の司会を務めている。

岩井澤健治(イワイサワケンジ)

1981年生まれ、東京都出身。独学でアニメーション制作を始め、2008年に短編「福来町、トンネル路地の男」を発表する。2020年には、大橋裕之のマンガを原作とした長編アニメ第1作「音楽」を公開。脚本、絵コンテ、作画監督など1人7役をこなした。