今年、創立50周年を迎えた、麿赤兒率いる舞踏カンパニー・大駱駝艦。“一人一派”の理念に基づき、己の身体と精神を通じて世界と向き合うその姿勢は、踊りを志す人のみならず、多くのアーティストたちに影響を与えてきた。そんな大駱駝艦と麿赤兒の比類なき軌跡を、麿の実子である大森立嗣と大森南朋は、どのように見つめてきたのか。それぞれのアーティスト道を邁進する3人が、お互いの仕事や創作への思いについて、ざっくばらんに語った。また特集の後半には、7月14日に開幕する大駱駝艦 50周年記念公演「おわり」「はじまり」に出演するメンバーたちによる寄せ書きと、大駱駝艦の過去50年分の公演ポスターを掲載している。
取材・文 / 鈴木理映子撮影 / 須田卓馬
「舞踏」との出会いと距離
大森南朋 幼稚園の頃から親父が「なんかそういうことをやってる」という認識はあったけど。
麿赤兒 幽霊だろ?(笑)
南朋 子供だったら誰だってそう思うでしょ。仕事なんだってわかったのは小学校高学年くらい。あの頃は、大須賀(勇)さんの白虎社がテレビに出ていたし、山海塾もいろんなところで取り上げられてたから。ああ、こういう人たちの仲間なのかって。で、本とかで読むと、中でも親父は偉いらしいじゃん? 何が偉いかわかんなかったけど(笑)。
大森立嗣 俺は豊玉伽藍(編集注:かつて練馬区豊玉にあった大駱駝艦のアトリエ)で何か観たという記憶はあるんだけどね。小学校低学年かな。やっぱりお化け屋敷に入っちゃった気分だよね。ピラニア飼ってるの見に行ったりしてさ。
麿 豊玉伽藍作った記念にってくれたやつがいたんだよね。5匹くらい。みんなして餌やりすぎて、水が腐ってさ、ピラニアも一緒に死んじゃった。
立嗣 あとは福井の合宿ね。片腕のないすごい人がいて。
麿 室伏(鴻)がやってた北龍峡の合宿か。片腕の怪人は松山俊太郎さん。インド哲学が専門で、抜群に頭が良かった。そういう、澁澤龍彦一家みたいな人たちが来てたんだよ。
南朋 そういう人たちが来るというのが衝撃だった。
立嗣 でもそこから先の、中学高校くらいの間は、僕は、舞踏とも親父とも関わりたくないと思ってて……。
南朋 反抗期すごかったもんね、兄貴は(笑)。僕は高校出たくらいから親父の事務所に行って、ワークショップもやらせてもらって。「フラフラしてるんだったら来い」とか言われて。実際、フラフラしていたから。「頭、剃れ!」「やだ!」とかって言って(笑)。正直そんなに乗り気じゃなかったけど、興味はあったんでしょうね。親父が何をしてるかは知ってても、実際に稽古場で何が行われているのかは知らなかったし。いろいろ刺激的でしたよ。一番興味深かったのは、自分と同世代とか年下の人が、親父のところに関心持って入ってきて、舞踏をやってるんだってこと。その人たちと一緒に飲みに行ったりして「なんで舞踏やってるんですか」って聞いたりしてた。その頃から、ちゃんと舞踏を観るようになったのかな。
立嗣 南朋、踊ったんでしょ。
南朋 踊った(笑)。
麿 金粉やったの?
南朋 金粉ではなくて、なかにし礼さんの国技館のやつ。オーケストラがいて、モダンダンサーもいて。人数をたくさん出さなきゃいけないっていうので駆り出されたんだけど、頭を剃ってなかったからゴム帽子みたいなのを被って、白塗りで出た。
麿 ああ、あれか。「オラトリオ・ヤマトタケル」(編集注:1992年に国技館で行われた「オラトリオ・ヤマトタケル 愛と平和への出発(たびだち)」。なかにし礼が総指揮を務め、麿をはじめ大駱駝艦のメンバーが出演した)。なかなか壮大にやってて、オペラも歌舞伎も一緒で、われわれは2、30人うじゃうじゃと出た。なかにしさん、喜んでたぞ。
南朋 すごかったね。あれが初舞台なのかもしれない。プロフィールには載せてないですけど(笑)。当時の先輩には「ダンサーやれ」みたいなことも言われましたけど、「いや俺はちょっと……」とか言ってた。
立嗣 だけどよくワークショップとか行くよね。俺は自分が踊るっていう発想はなかったからさ。
南朋 踏み込んじゃいけないものだと思ってた?
立嗣 うん。そこはやっぱり違うんだね。俺の場合は浪人生のとき、親父から「ニューヨークに行きたいか」みたいなこと言われて、ついて行ったりして。あれは仕事だったの? 踊りではなかったんだけど。
麿 あれな、向こうのプロデューサーに金借りてたのを返しに行ったんだよ。
立嗣 そうか(笑)。
麿 ニューヨークで活躍してた舞踏家の公演も観たんだよ。「どうだった?」って聞いたら「面白かった」って言ってたぞ。
立嗣 ポッポ(白石)さんのね。親父がビルの下から「ポッポー!」って呼んでたの覚えてる。その頃から少しだけ親父としゃべるようになって。その後かな、阪本(順治)監督の「どついたるねん」って映画があったりもして、少しずつ親父の印象がマシになってった(笑)。
南朋 「あ、俳優もやってるんだ」って?
立嗣 そう。だから舞踏が素直に面白いと思えるようになってきたのは、大学生になってからで、浅草の常盤座でやった「怪談 海印の馬」(1990年)あたりかな。当時演劇もちょっとやってて、そこに大駱駝艦のダンサーになったばかりの若林(淳・元メンバー)くんがいて、仲良くなったりもしたし。
「俳優」たちの素顔は─?
南朋 兄貴の映画に出るときにもよく聞かれるんだけど、別に家族だからってやりづらいことはなくて、俺は2人とも、純粋に監督と俳優、先輩と後輩っていう感覚なんだよね。
麿 立嗣の映画に出たときは、「もっと普通にやってくれ」と言われたよな。
立嗣 あれは1本目で僕も若かったから(笑)。癖があるように見えたんでしょう。
南朋 「ゲルマニウムの夜」(2005年)? 俺も同じこと言われた。「余計なことすんな」って。
立嗣 「親子に同じこと言うんですか」って、現場で笑われた(笑)。南朋はワンアイデア出してくれたんだけど、「それいらないから」って。
南朋 喜ぶかなと思って、本番でいきなりやっちゃったんです。そしたら「やめろやめろ」って。
麿 そこらへんは厳しいんだよ。
南朋 厳しいね。
麿 にじみ出る何かを待ってるんだな。
立嗣 そうそう。本当はそうしたい。親父はキャラクターが強い役だとどうしても、その役割を演じてくれるでしょ。もうちょっと大きな役で、人間が見えてくるような感じになると面白いんだけど、なかなか僕がそういう映画を作れていない。ただ、親父も南朋も、なんだかんだ現場では味方でいてくれる感じは良いですね。知らない役者さんには緊張するから。あと、やっぱり俳優を見る目は、子供のときから大駱駝艦で観てきたものにどこか影響されてる気がする。存在感というか。「立ってりゃいいんだ。それが舞踏だ」とかよく言ってるじゃないですか。だから、役者は余計なことをしなくて良いと思ってるし、演技やメイクでガードしているような部分が見えたら、それはなるべく取ってしまいたい。
麿 ついつい僕はオーバーになっちゃうんですね。状況劇場出身だから、「普通」と言っても、言ってみれば身体演技みたいなのが、うわああああと出ちゃうんだ。まともな芝居ができない。(南朋に)君はいろいろできるでしょ。家政夫とか殺し屋とか幅広いじゃない。
南朋 それはね。呼んでくれるから、全力でやってる。
麿 立嗣が自分で出てる映画も観たことあるよ。ほんとだらしない役で、人の嫁さん取っちゃって、その家に住み着いちゃってさ。
立嗣 「波」(2001年)だね。
麿 本当にそういうふうに生きてるんじゃないかって、心配してたんですよ。
立嗣・南朋 (笑)。
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